飛翔するブラックサンダー。

May 30, 2018

 

                                                                                               

先日、東大阪市倫理法人会の主催する倫理経営講演会GOOD NIGHT SEMINAR『大転換の時代─常に活路あり─』が開催された。

これは有楽製菓株式会社代表取締役会長/一般社団法人倫理研究所法人スーパーアドバイザーの河合伴治氏による講話のレポートである。

『ブラックサンダー』というメガヒットが生まれた経緯、父との関係、様々な葛藤から築き上げた経営哲学。

そして、そこから浮き上がってくる一人の男の生き様───。

 

 

伴治さんの父・志亮さんは愛知県の豊橋市出身で、戦後裸一貫で東京に出てきて世田谷で有楽製菓を創業した。

昭和30年のことである。

ウエハースやキャンディ、チョコレートなどの洋菓子を製造し今の有楽製菓の基盤を作った。

間もなく小平に移転する───。

 

 

 

伴治さんは昭和27年に生まれた。

実家が会社経営をしているということもあり、工場内は遊び場のようなものだった。

物心ついた頃から有楽製菓は生活の一部だった。

 

 

成蹊大学を卒業後、ドイツへ洋菓子を学ぶために一年半ほど留学する。

そこには最新のお菓子の技術や設備があった。

またドイツには〝マイスター〟と呼ばれる職人を育てる制度がある。

伴治さんは良質の環境で思う存分、お菓子作りを学んだ。

 

 

「ドイツで見たこの光景を日本でも広めたい。自分も世界に通用するお菓子を作りたい」

 

 

そう心に誓った。

 

 

 

 

帰国すると伴治さんは有楽製菓に入社した。

生まれ育った場所である。

会社のことを知っているつもりでいた。

ただ、実際に中に入ってみると全く違う印象を抱いた。

 

 

〝工場内は埃だらけ、設備もドイツで見たものとは雲泥の差、作っているチョコレートもドイツのものに比べればお世辞にも品質が良いとは言えない〟

 

 

綺麗な制服でお菓子作りをしていたドイツの職人たちとは対照的に、自社の職人たちは空調の調整もままならずランニング姿で汗を流しながら働いていた。

少なからず伴治さんにとってその光景はショックだった。

 

 

 

堪りかねた伴治さんは父親に進言した。

 

 

「設備ももっといいものを使おうよ」

「もっといいチョコレート作らないと駄目だよ」

「社員の待遇もよくしないといけないよ」

 

 

最初は黙って聞いていた伴治さんの父も、そのうちに痺れを切らして言い争うようになった。

 

 

 

 

父との間に生じる歪み。

 

言っても言っても聞いてくれない。

そうすると次第に父親を責めだすようになる。

 

 

「親父がこんなだから会社がよくならないんだ」

「親父が変わらないと駄目なんだ」

 

 

はじめのうちは家で言い合っていたが、そのうち事務所で言い合いになり、最後には怒鳴り合いになった。

 

 

そのような状況が五年ほど続いた。

 

〝お客さんも覚えた、菓子作りも覚えた、自分ならできるはずだ〟

 

これ以上親父と一緒にいると自分が自分でなくなってしまうと思い、小平から出る決心をする。

昭和51年のことだ。

 

 

当時業績不振だった愛知県豊橋市の工場へ転勤した。

創設して6、7年、最初は調子の良かった工場だったが次第に下降状態から抜け出せなくなっていた。

 

 

「そこを立て直して、親父のいない所で理想の工場を作り直そう」

 

 

12月だった。

転勤した翌日、会社に行くと「今日は作るものないんだけど、どうしようか?」という話になっていた。

工場内を見ると半分くらい機械が止まっていた。

 

 

「現場の士気も下がっていました。非常にまずい状態でした。このままだと年を越せないんじゃないか?そう感じました」

 

 

本社があるので、すぐに潰れるということはない。

ただ、思い切った決断が必要だ。

そこで出した答えが指名解雇(リストラ)だった。

 

 

「60人いた従業員の中から15人くらいに『申し訳ないのだけど、年明けからはこなくていいよ』とそう言って賞与を幾分か入れて渡しました」

     

        

年齢が高い人から順に言い渡された。

最初は「この方法しかないんだ」と思っていたが、二人、三人とやるうちに「なんてひどいことをしているんだ、なんて悲しいことをしているんだ」と胸が張り裂けるほど痛んだ。

 

 

「二度とこんなことをしないようにしよう」

 

 

そう思い、年明け一月から積極的に仕事を取りにかかった。

すぐにはいい仕事を取ることはできなかった。

下請けの仕事や収益性が低い仕事ばかりだったが、間もなく工場が動くようになった。

 

 

 

 

 

理想の工場をつくるためにまずやったこと。

 

伴治さんがまず手掛けたのは〝社員教育〟だった。

色んな本を読み漁った知識がある。

何より伴治さんにはドイツで勉強してきた自負があった。

 

 

豊橋の工場長に話をしてあらゆる提案をしたが全て却下された。

〝教育など無駄だ〟と工場長は言った。

 

 

「職人の世界では仕事は教わるものではない。〝仕事は全て盗むもの〟だ。教えたところで、伸びる奴は放っておいても伸びるし、伸びない奴は何をしても伸びない。だから無駄だ」

 

 

「いや、そんなことはない」と毎日夜遅くまで唾を飛ばしながら議論した。

結局平行線のまま時間だけが過ぎていき、最終的に二人の出した答えが「どちらが正しいか、二つに分けて勝負しよう」というものだった。

 

 

つまり、工場を二つに分けて伴治さんの方法が正しいか、工場長の方法が正しいか検証するのだ。

工場長は一階、伴治さんは二階へ。

続いて社員を分けることになった。

 

 

「格好をつけて『先に取っていいよ』とか言って工場長に先に選ばせてあげたんです。あとから考えると一人ずつ順番にやればよかったのですが。当たり前ですが、向こうは真面目で腕のいい子をみんな取っちゃうんですよね」

 

 

伴治さんの下に残ったのはワルにフダツキばかり。

一度吐いた唾は飲み込めない。

このままでいこう、伴治さんは決意した。

 

 

 

新しいスタイルで営業がスタート。

案の定、伴治さんにとって前途多難な日々がはじまった。

 

朝、従業員が来ないのである。

来るのは来るのだが、一階の工場長の従業員ばかり。

二階にはさっぱり来ない。

ようやっと到着した2人ほどで6、7人分の作業をバタバタ走りながら準備をする。

 

仕方がないから、従業員の家を回って叩き起こし、車に積んで会社へ。

その日帰すと、次の日も会社に来ない。

 

 

「お前らそんなつもりで社会人として通用すると思っているのか!」

「それで給料もらえると思っているのか!」

「親の顔が見たい!」

 

 

 

 

「散々悪いことを言っていました。ところがフダツキの連中っていうのは学生の頃から教師にずっと同じことを言われ続けているので全く平気なんですね。だんだんこっちがへこたれてきて…」

 

 

伴治さんは頭から叱りつけるのをやめて、彼らと対話をはじめた。

 

 

「そんなことしていて、お前のお父さんやお母さんは心配してないのか?」

 

「いや、お母ちゃん小さい時に亡くなりました」

 

「お父さんは?」

 

「出て行っていないです」

 

「お前ひとりで住んでんのか?」

 

「いや、おじいちゃんと二人で住んでます」

 

 

淡々と繰り返される言葉のやりとり。

決して意見は言わない、質問されたことにただ答えるだけの若者。

彼らの言葉に耳を傾けて、はじめて分かってくることがある。

 

 

「おじいちゃんは畑をやっているので朝早くに畑に行ってます。だから朝は自分で起きなくちゃいけないけないんですけど、起きれないんですよ」

 

「そうか分かった、じゃあこれを持って行け」

 

 

そう言って、伴治さんは大きな目覚まし時計を買って彼に渡した。

自分で朝ご飯の支度ができない若者には、前日に朝食用のパンを持たせて帰らせた。

伴治さんは、根気強く一人ずつ、一人ずつ話をした。

 

 

「フダツキの子たちって家に問題がある子が多いんですね。一人ずつ話を聴いていくと、〝こいつら、うちの会社で幸せにしてやりたいなぁ〟って思うんですよ」

 

 

その想いが伝わったのか、次第に彼らも伴治さんの言葉に耳を傾けてくれるようになっていった。

 

 

「もちろん辞めていった子もいます。でもなんとね、今うちの会社の取締役三人。2月に社長になった息子と私、そしてもう一人はこれが一番フダツキのあんちゃんだったんですよ。

当時はとんでもない格好をして会社に来ていました。何を言っても言う事をきかない。

『何でこんなことしなくちゃいけないんですか!』と反抗ばかり。それがなんと今、取締役になっています」

 

 

 

 

 

父との電話。

 

「豊橋に行った時は『もう二度と東京には帰らない!』と啖呵をきりました。専務のくせにねwwだからこちらから父には何があっても電話をしませんでした」

 

 

小平の父から電話がかかってきても意地を張って取らなかった。

代わりに工場長が応対をしていた。

そのうち堪忍袋の緒が切れた父が受話器越しに怒鳴った。

 

 

「どういうつもりだ!?いい加減にしろ!」

 

 

それから定時連絡をすることになった。

毎晩九時に電話が鳴った。

嫌で嫌でたまらなかったという。

 

 

「今日はこんな仕事をはじめました。順調にいっています」

 

 

電話口で伴治さんがそう言うと。

 

 

「そんなつまんねぇ仕事取ってきやがって、それが何になるんだ!」   

 

と激昂した。

 

 

「この間まで工場は止まっていたわけですからね、褒められると思って言ったけど褒められない。むしろ叱られるんです。

『社員教育をはじめてこういうことを教えています』と言うと『そんな奴らにそんなことを教えて何かになると思っているのか!』とか言われるから腹が立って仕方がない」

 

 

 

 

「冗談じゃありません!いい加減にしてください!」

 

ガシャンっと受話器を叩きつけて、タバコをチェーンスモークする。

帰りには近くのスナックに行き、強くもない酒をベロベロになるまで飲んで帰る。

苦しくて苦しくて仕方がない日々を送っていた。

 

 

 

〝俺がこんなに頑張っているのに、どうして親父は分かってくれないんだ?

間違っているのは親父で、俺が正しいのにどうしてなんだ?〟

 

 

 

そんな鬱憤とした毎日を送っていたとある日、トイレで用を足している時にあるものを見つけた。

 

〝人を責めると苦しいのは自分ですよ〟

 

そう書かれた紙が目の前に貼ってあった。

それまでその場所にその紙あることさえ気付かなかった。

その日に限って、その言葉が伴治さんの眼球に勢いよく飛び込んできた。

 

その時、はたと思った。

今の苦しみの原因は自分にあるのだろうか?

 

〝自分が親父のことを責めているからなのか?

自分が工場長のこと責めているからか?〟

 

この苦しみから逃れることができるならば、試しに相手を責めるのをやめてみよう。

 

 

 

相変わらず父の電話は小言ばかり。

いくら怒られても、「はい分かりました、以後気をつけます」と言って電話を切った。

毎日ぶつかっていた工場長にもひどいことを言うのをやめて良い言葉を使うように心がけた。

それでも、一向に何も変わらない。

 

 

尚も変わらず父は罵声を浴びせてくる。

「何も変わらないなぁ」と思っていたら、親父と創業からずっと共に働いてきた常務に「専務、最近ずいぶん変わったねぇ」と言ってくれた。

 

 

「自分が親父と電話で怒鳴り合いをしなくなって、こういう風に言ってくれる人もいるんだなぁとその時思いました。気が付くと、工場長が『この間言っていたあれだけどちょっとやってみようか』と言ってくれました。

もしかすると自分が父と電話で言い争わなくなったから、また、工場長を責めなくなったからそう言ってくれたのだろうか?そう気付いたんです」

 

 

自分が父や工場長のことを責めていたからうまくいかなかったのではないか。

原因は相手にあると思っていたが、実は自分の方にあったのではないか。

 

 

「これは大変なことだ」

 

 

その時、はじめて自分を変えてみようと思った。

この日から自分を一生懸命変える努力をはじめた。

 

 

次第に、それまでうまくいかなかったことが、スムーズに流れだした。

やりたいと思ってはじめたことは必ずといっていいほど失敗してきた。

でも、今度は工場長がしきりに応援してくれるようになった。

すると色々なことがうまくいくようになった。

 

 

今まで多かったクレームが減り、豊橋工場の売上も徐々に上がっていった───。

 

 

 

 

2006年、伴治さんは倫理法人会に入会する。

有楽製菓に入社して25年。

父の志亮さんは79歳になっていた。

 

 

志亮さんは認知症を発症しはじめていて、会社の業務のほとんどは専務である伴治さんが切り盛りしていた。

父親に社長交代の話を促すと、その時だけは「誰がお前にやらせるか」と言って譲ってくれなかった。

 

 

工場は地震がきたら一瞬で潰れてしまうのではないかと思うほど劣化が進んでいた。

父親との関係には入社以来埋まることのなかった深い溝があった。

そんな状態で伴治さんは悶々としていた。

 

 

 

倫理法人会に入会した翌年、先輩方に連れられ静岡県御殿場市にある富士高原研修所での合宿に参加する。

 

 

「当時、自分がすごく〝できた人間〟だと思っていました。合宿に参加したところで勉強することもないだろう、と」

 

 

伴治さんはそう語る。

しかし、それが自分の思い上がりであったことを痛切に感じる。

 

 

その時の研修によって伴治さんの心に変化が現れた。

研修の中では何度も〝親の恩〟について言及された。

伴治さんにとって父親との軋轢は最も難しい問題であった。

 

 

「ずっと仲が悪かった。何かあればいつも揉めていました。ですから〝親の恩〟と言われた時は、『俺が一生懸命やっているおかげで会社が成り立っているんじゃないか』と反発する気持ちが強かった」

 

 

その教えをはじめは受け入れられなかった伴治さんでしたが、父との関係を見つめ直すうちにその気持ちも次第に弱まっていった。

 

 

「小さい頃はよく親父と一緒に遊びに行っていたな。確かに厳しい父親だった。だけど、自分が今こうして一丁前にやっていられるのも、そんな親父に鍛えてもらったからだ…」

 

 

父親について思いを巡らせ、昔の記憶が蘇っていく。

すると気が付けば伴治さんの瞳からは涙がこぼれていた。

その溢れ出した雫はとめどなく流れた。

 

 

「その時はじめて〝涙を流す〟ということが〝自分の心を洗浄する〟ことだと知りました。涙は汚れた自分の心を洗い流して素直にしてくれる」

 

 

伴治さんは気付いた。決して自分一人で大きくなったのではない。

父親の存在がなくてはならなかったのだと。

 

 

 

 

それから伴治さんは父親にハガキを書き始めました。

認知症の父のことなので内容が理解できるか不安だった。

それでも書き続けた。

 

 

すると、父に対して感謝の言葉が書けるようになっていった。

人によっては易しいことかもしれないが、伴治さんにとってその変化は大きな一歩だった。

 

 

しかし、謝罪の言葉がどうしても書けなかった。

散々喧嘩したことに対して詫びたい気持ちが充分にあったが、肝心の言葉に差し掛かると書こうとすると伴治さんの手が止まった。

書けない。

 

 

病院へ入院した父のお見舞いに行った時に伴治さんはショックを覚えた。

カッコよくてお洒落な父だった。

いつも強気だった父が弱り果てて小さくなっている。

 

 

「倫理法人会では親の病気は子どもの親不孝が原因だっていうんです。親が勝手に病気になったんじゃないかと思っていたのですが。こんなに年老いてしまったのは自分のせいなのかと思うと、いたたまれなくて」

 

 

涙が出た。

伴治さんは父親の足をさすりながら、はじめて「申し訳ありませんでした」と一言つぶやいた。

 

 

「小さな声でしたが言えました。倫理法人会と出会っていなかったら最後まで親父に詫びることはできなかったと思います。謝ることができなかったとしたら……父とのわだかまりは未だに残っていたと思います。言えてよかった」

 

 

 

 

 

ブラックサンダーの誕生。

 

『ブラックサンダー』は有楽製菓を代表するヒット商品だ。

首相の安倍晋三総理や体操の金メダリスト内村航平選手が大好物だと明言したことによって注目を浴びた。

今では年間に1億2000万個の製造数を誇る。

日本の人口が1億2600万人なので、おおよそ人口の一人に一つが行きわたる計算だ。

台湾でもその人気は絶大なもので、台湾に住む人でブラックサンダーの存在を知らない人はほぼいないという。

しかし、発売当初から好調な売れ行きだったわけではない―――。

 

 

 

ブラックサンダーが生まれたのは1994年。

今から24年も遡る。

伴治さんが経営についての本を読み漁っている時に〝ランチェスター戦略〟に出会った。

簡単に言えば「ナンバーワンやオンリーワンを目指しなさい」という教え。

そのようなことを頭の隅に置きながらいつも通りお取引先を回っていた。

当時、伴治さんは本社の小平から離れ、愛知県の豊橋市の工場にいた。

名古屋の駄菓子問屋でこのようなことを言われた。

 

 

「有楽さん、駄菓子屋にはチョコレートってほとんど売っていないんだよ。だから駄菓子屋向けのチョコレート作ってみない?」

 

 

当時、伴治さんの抱く有楽製菓像には〝菓子屋〟という誇りがあった。

「駄菓子屋のチョコレートは作りたくない」と今までならその提案を受け流していたが、ある考えがよぎった。

 

 

「もしかしたら、駄菓子屋向けのチョコレートを売れば一番になれるのではないか?」

 

 

思い切って駄菓子屋向けのチョコレートを製造した。

有楽製菓にとっては新たなチャレンジだった。

製造をはじめたら飛ぶように売れた。

しかし10円や20円にしかならない。

今までは100円の菓子を作っていたのだが、10円ばかりでは忙しいだけでなかなか生産金額が上がらない。

つまり、売上が上がらないのだ。

ただ、集金に行くと商品を納めた分だけ回収できた。

 

 

「これはもしかすると努力次第で売り上げも利益も取れるんじゃないか?」

 

 

兆しが見えた。そこから一生懸命、小さいお菓子を作ることに集中した。

 

 

 

そんな発想の中、ブラックサンダーは誕生した。

一つ30円。

リーズナブルなイメージがあるが駄菓子屋の市場では高級品として扱われた。

原料にこだわっているので仕方がない。

企業努力も空しく、売れ行きは伸び悩んだ。

二年頑張ったが、販売を中止した。

 

 

 

ところがこの製品に惚れ込んだ一人の営業マンがいた。

 

 

「こんないいお菓子はなかなかできない。絶対に売れるようになる。もう一度販売させてほしい」

 

 

定期的に開かれる営業会の度に彼はそう言った。

一回止めてから、再度販売して売れた商品の話など聞いたことがない。

伴治さんが「諦めてくれ」と言ってもその営業マンは何度も懇願した。

しぶとい。

最後は根負けして「そんなに言うなら包装資材が残っているから、ある分だけ作るから、これで売れなかったら諦めてくれな」と販売再開が決定した。

 

 

販売を再開してからすぐに売れたわけではなかった。

その営業マンの努力もあって九州ではジワジワと人気は出てきたものの、全体から見れば売れ行きは芳しくはなかった。

すると「このままじゃまた販売中止になってしまう」と関西にいた営業マンたちが一緒になってブラックサンダーの営業に力を入れ始めた。

そして、京都の大学生の間で火が点いた。

 

 

 

突然、京都からの注文が増え始めた。

理由はこうだった。

京都のとある大学生協で置いたところ学生に人気が出たのだ。

子ども相手の駄菓子屋なら30円は〝高い〟が、大学生なら充分に買える値段だ。

大学生協は連携を組んで情報交換をしている。

 

 

「あれ(ブラックサンダー)売れているらしいぞ」

 

 

その情報が回るやいなや、関西圏の大学生協が山のように買ってくれた。

次第にブラックサンダーは関西全域で人気を博していく。

 

 

 

するとインターネットの匿名掲示板2ちゃんねるでブラックサンダーのファンサイトが登場する。

ネガティブな書き込みが多いイメージの2ちゃんねるだが、「あんな美味いお菓子が30円なんて信じられない!」とブラックサンダーについてはポジティブな書き込みが多数投稿された。

そのようなインターネットの後押しもあり、ブラックサンダーは全国へ広がっていく。

また、全国のセブンイレブンでの取り扱いがはじまり、ブラックサンダーは全国的に知名度を上げていく。

 

 

「その年で年間3000万個売れました。たったの30円でも3000万個売れればヒット商品になるんですね」

 

 

2007年の秋、認知症が重たくなった父に代わり、伴治さんは社長に就任した。

 

 

 

 

2008年、北京オリンピックが始まる直前、日本代表の内村航平選手がスポーツ新聞のインタビューで「好きな食べ物は?」の問いに「チョコレートが大好きです。その中でもブラックサンダーが大好きです」と答えてくれた。

それが新聞に掲載され、その記事を読んだ他の新聞社から問い合わせが殺到した。

 

 

「内村航平選手がブラックサンダーと言っているが、ブラックサンダーとは何ですか?」

 

「あなたはブラックサンダー知らないんですか?ところでその〝内村航平〟って誰ですか?」

 

 

その時、新聞記者が〝ブラックサンダー〟を知らないのと同じように、伴治さんは〝内村航平選手〟のことを知らなかった。

 

 

 

日本代表の体操選手の合宿場にブラックサンダーを大量に送った。

内村選手は銀メダルを獲って北京から凱旋した。その年は各地から問い合わせがあり、有楽製菓はブラックサンダーをひたすらに作り続けた。

その年、既に1億2000万個を製造し、ブラックサンダーは空前の大ヒット商品となった。

 

 

 

2012年のロンドン五輪では内村航平選手は金メダルを獲得した。

表彰式の際、ブーケを観客席にいる母親に投げると、内村選手の母は息子に向けてブラックサンダーを投げ返した。

その映像が全世界に流れた。

スポンサーでもない企業の商品がテレビに映ることはご法度なので、あとで大問題になったようなのだが、ブラックサンダーの売上は順調に伸び続け、伴治さんが社長に就任した当時の2.5倍まで伸びていた。

ブラックサンダーの快進撃を病院にいる父に告げると、父はニコニコしながら頷いた。

 

 

 

 

家庭がうまくいかないと会社はうまくいかない。

 

それ以前の伴治さんは兎にも角にも仕事人間だった。

家庭は全て奥さま任せ。

家庭で起きた良いことも悪いことは全て奥さまのせい。

 

 

「倫理法人会に入った12年前、家庭のことなんて頭にありませんでした。今考えると恐ろしいですが、『いつ別れてもいい』とさえ思っていた時もあります。

家に帰れば嫁さんに立て続けにワーワー言われて、癒されることはない。帰りたくないから、外で飲んで歩いていました。

 

ところが倫理の教えは〝奥さんと仲良くしなさい〟。

『家庭がうまくいって会社がうまくいくのなら』と半ば騙された気分でそう思い実践しました。

 

倫理の教えでは挨拶が大切なんです。

それまでも『おはよう』は言っていました。ところが『おはよう』だけではダメなんですね。

嫁さんの名前を呼ばなけれないけない」

 

 

それくらい簡単だ。

そう思って家に帰り、実際に奥さまの顔を見た瞬間、言葉が詰まった。

 

 

「『おはよう』しか言えないんです。『これは困ったなぁ』と思い、何度もチャレンジをしようとするのですがうまくいかない。10日ほどそのままの状態が続きました」

 

 

どうしても言えないので、伴治さんは考えた。

寝ている間に言ってしまえばいいじゃないか。

早朝、奥さまの寝ている顔に向かって小さな声で「まさよさん、おはようございます」と囁いた。

「やっと言えた」と喜んでいたのも束の間、数日経ちそのうち気付いた奥さまに「お父さんアレ気持ちが悪いからやめて」と言われる。

 

 

「『これはダメだ』と思って、しょうがないので今度は嫁さんが朝飯作ってくれる後ろから寄っていって『まさよさんおはようございます』。顔を見ないと言えるんですね」

 

 

やっと言えた。

しかし、後ろから呼ぶというのは卑怯だと思い、その日から毎日角度を10度ずつ寄せていき、二週間後にはようやく正面から「まさよさん、おはようございます」と挨拶ができるようになった。

 

 

すると不思議なもので、こう考えるようになる。

 

〝俺が言っているのに何でこいつは『伴治さんおはようございます』と言わないんだろう?〟

 

自分が呼んでいるのだから、相手にも呼んで欲しい。

 

 

「その日からなんとかして嫁さんに『伴治さん、おはようございます』を言わそうと思ってね、血のにじむような努力をしました。

最初は言い方を変えて、やわらかく『まさよさん、おはようございます』と言ってみたり。今度は笑顔で言ってみたり」

 

 

それでも名前を呼んでもらえない。

どうにか挨拶をしてもらおうと思い、そのうちに奥さまにサービスをはじめ出す伴治さん。

一緒に買い物に行ったり、映画を観に行ったり、奥さまの話に耳を傾ける努力をしたり。

ずっと続けていたのだが、それでも一向に名前を呼んでもらえない。

 

ところがある日、娘がこう言った。

 

 

「最近お母さん、怒らなくなったねえ」

 

 

返事はこないけど、何かが少しずつ変わってきているのかもしれない。

 

〝もう返事はいい。嫁さんの機嫌がよくなってくれれば家庭がよくなるはずだ〟

 

それでいいと割り切って、毎朝の挨拶を続けた。

 

 

 

「まさよさん、おはようございます」という挨拶を素直に続けていると、ある日嫁さんから「伴治さんおはようございます」という言葉が返ってきた。

挨拶をはじめてから三年後のことだった。

 

 

〝石の上にも三年〟という通り、どんなものでも三年経てば変わる。

その頃には、気が付けばすっかり夫婦円満になっていた。

 

 

 

2011年、豊橋市の工場を新しく建て直した。

神幸式は3月14日のホワイトデーに決めた。

工場と機械が大好きな父に、その新しい工場を一目見せたくて「東京の病院から、愛知県豊橋の工場へ必ず連れていくから。だから親父、元気な姿で竣工式に来てくれ」と言っていた。

しかし、父はその新しい工場を見ることがなかった。

竣工式の二週間前に亡くなった。

 

 

 

散々、喧嘩した父だった。

父から一言「よくやった」と言って欲しかった。

でも、それは遂には叶わなかった。

伴治さんは父の遺品の整理のため実家を訪れた。

そこで驚くものを発見する。

それは伴治さんが送り続けたハガキだった。

それらは綺麗に揃えて大切にしまわれていた。

 

 

「父さん、これ見てわかったのだろうか?」

 

 

伴治さんは母に訊ねた。

 

 

「父さん、これが来るのを毎日楽しみにしていたのよ」

 

 

その言葉を聞いた伴治さんは、ようやく胸を撫で下ろした。

少しだけ親孝行できたような気がした。

 

 

 

 

 

豊橋夢工場。

 

その新しい工場はそう名付けられた。

約2万坪の広大な面積に建てられた工場。

 

 

「これは自分たちで作った工場じゃない。天から授かった工場だ」          

 

 

その悠然たる姿を眺め、伴治さんはそう感じた。

 

 

「この工場を使って、社員や他の人を一人でも多くの人を幸せにしなさい」

 

 

そんな天命が下ったような気がする、そう語った。

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