飛翔するブラックサンダー。


先日、東大阪市倫理法人会の主催する倫理経営講演会GOOD NIGHT SEMINAR『大転換の時代─常に活路あり─』が開催された。

これは有楽製菓株式会社代表取締役会長/一般社団法人倫理研究所法人スーパーアドバイザーの河合伴治氏による講話のレポートである。

『ブラックサンダー』というメガヒットが生まれた経緯、父との関係、様々な葛藤から築き上げた経営哲学。

そして、そこから浮き上がってくる一人の男の生き様───。

伴治さんの父・志亮さんは愛知県の豊橋市出身で、戦後裸一貫で東京に出てきて世田谷で有楽製菓を創業した。

昭和30年のことである。

ウエハースやキャンディ、チョコレートなどの洋菓子を製造し今の有楽製菓の基盤を作った。

間もなく小平に移転する───。

伴治さんは昭和27年に生まれた。

実家が会社経営をしているということもあり、工場内は遊び場のようなものだった。

物心ついた頃から有楽製菓は生活の一部だった。

成蹊大学を卒業後、ドイツへ洋菓子を学ぶために一年半ほど留学する。

そこには最新のお菓子の技術や設備があった。

またドイツには〝マイスター〟と呼ばれる職人を育てる制度がある。

伴治さんは良質の環境で思う存分、お菓子作りを学んだ。

「ドイツで見たこの光景を日本でも広めたい。自分も世界に通用するお菓子を作りたい」

そう心に誓った。

帰国すると伴治さんは有楽製菓に入社した。

生まれ育った場所である。

会社のことを知っているつもりでいた。

ただ、実際に中に入ってみると全く違う印象を抱いた。

〝工場内は埃だらけ、設備もドイツで見たものとは雲泥の差、作っているチョコレートもドイツのものに比べればお世辞にも品質が良いとは言えない〟

綺麗な制服でお菓子作りをしていたドイツの職人たちとは対照的に、自社の職人たちは空調の調整もままならずランニング姿で汗を流しながら働いていた。

少なからず伴治さんにとってその光景はショックだった。

堪りかねた伴治さんは父親に進言した。

「設備ももっといいものを使おうよ」

「もっといいチョコレート作らないと駄目だよ」

「社員の待遇もよくしないといけないよ」

最初は黙って聞いていた伴治さんの父も、そのうちに痺れを切らして言い争うようになった。

父との間に生じる歪み。

言っても言っても聞いてくれない。

そうすると次第に父親を責めだすようになる。

「親父がこんなだから会社がよくならないんだ」

「親父が変わらないと駄目なんだ」

はじめのうちは家で言い合っていたが、そのうち事務所で言い合いになり、最後には怒鳴り合いになった。

そのような状況が五年ほど続いた。

〝お客さんも覚えた、菓子作りも覚えた、自分ならできるはずだ〟

これ以上親父と一緒にいると自分が自分でなくなってしまうと思い、小平から出る決心をする。

昭和51年のことだ。

当時業績不振だった愛知県豊橋市の工場へ転勤した。

創設して6、7年、最初は調子の良かった工場だったが次第に下降状態から抜け出せなくなっていた。

「そこを立て直して、親父のいない所で理想の工場を作り直そう」

12月だった。

転勤した翌日、会社に行くと「今日は作るものないんだけど、どうしようか?」という話になっていた。

工場内を見ると半分くらい機械が止まっていた。

「現場の士気も下がっていました。非常にまずい状態でした。このままだと年を越せないんじゃないか?そう感じました」

本社があるので、すぐに潰れるということはない。

ただ、思い切った決断が必要だ。

そこで出した答えが指名解雇(リストラ)だった。

「60人いた従業員の中から15人くらいに『申し訳ないのだけど、年明けからはこなくていいよ』とそう言って賞与を幾分か入れて渡しました」

年齢が高い人から順に言い渡された。

最初は「この方法しかないんだ」と思っていたが、二人、三人とやるうちに「なんてひどいことをしているんだ、なんて悲しいことをしているんだ」と胸が張り裂けるほど痛んだ。

「二度とこんなことをしないようにしよう」

そう思い、年明け一月から積極的に仕事を取りにかかった。

すぐにはいい仕事を取ることはできなかった。

下請けの仕事や収益性が低い仕事ばかりだったが、間もなく工場が動くようになった。

理想の工場をつくるためにまずやったこと。

伴治さんがまず手掛けたのは〝社員教育〟だった。

色んな本を読み漁った知識がある。

何より伴治さんにはドイツで勉強してきた自負があった。

豊橋の工場長に話をしてあらゆる提案をしたが全て却下された。

〝教育など無駄だ〟と工場長は言った。

「職人の世界では仕事は教わるものではない。〝仕事は全て盗むもの〟だ。教えたところで、伸びる奴は放っておいても伸びるし、伸びない奴は何をしても伸びない。だから無駄だ」

「いや、そんなことはない」と毎日夜遅くまで唾を飛ばしながら議論した。

結局平行線のまま時間だけが過ぎていき、最終的に二人の出した答えが「どちらが正しいか、二つに分けて勝負しよう」というものだった。

つまり、工場を二つに分けて伴治さんの方法が正しいか、工場長の方法が正しいか検証するのだ。

工場長は一階、伴治さんは二階へ。

続いて社員を分けることになった。

「格好をつけて『先に取っていいよ』とか言って工場長に先に選ばせてあげたんです。あとから考えると一人ずつ順番にやればよかったのですが。当たり前ですが、向こうは真面目で腕のいい子をみんな取っちゃうんですよね」

伴治さんの下に残ったのはワルにフダツキばかり。

一度吐いた唾は飲み込めない。

このままでいこう、伴治さんは決意した。

新しいスタイルで営業がスタート。

案の定、伴治さんにとって前途多難な日々がはじまった。

朝、従業員が来ないのである。

来るのは来るのだが、一階の工場長の従業員ばかり。

二階にはさっぱり来ない。

ようやっと到着した2人ほどで6、7人分の作業をバタバタ走りながら準備をする。

仕方がないから、従業員の家を回って叩き起こし、車に積んで会社へ。

その日帰すと、次の日も会社に来ない。

「お前らそんなつもりで社会人として通用すると思っているのか!」

「それで給料もらえると思っているのか!」

「親の顔が見たい!」

「散々悪いことを言っていました。ところがフダツキの連中っていうのは学生の頃から教師にずっと同じことを言われ続けているので全く平気なんですね。だんだんこっちがへこたれてきて…」

伴治さんは頭から叱りつけるのをやめて、彼らと対話をはじめた。

「そんなことしていて、お前のお父さんやお母さんは心配してないのか?」

「いや、お母ちゃん小さい時に亡くなりました」

「お父さんは?」

「出て行っていないです」

「お前ひとりで住んでんのか?」

「いや、おじいちゃんと二人で住んでます」

淡々と繰り返される言葉のやりとり。

決して意見は言わない、質問されたことにただ答えるだけの若者。

彼らの言葉に耳を傾けて、はじめて分かってくることがある。

「おじいちゃんは畑をやっているので朝早くに畑に行ってます。だから朝は自分で起きなくちゃいけないけないんですけど、起きれないんですよ」

「そうか分かった、じゃあこれを持って行け」

そう言って、伴治さんは大きな目覚まし時計を買って彼に渡した。

自分で朝ご飯の支度ができない若者には、前日に朝食用のパンを持たせて帰らせた。

伴治さんは、根気強く一人ずつ、一人ずつ話をした。

「フダツキの子たちって家に問題がある子が多いんですね。一人ずつ話を聴いていくと、〝こいつら、うちの会社で幸せにしてやりたいなぁ〟って思うんですよ」

その想いが伝わったのか、次第に彼らも伴治さんの言葉に耳を傾けてくれるようになっていった。

「もちろん辞めていった子もいます。でもなんとね、今うちの会社の取締役三人。2月に社長になった息子と私、そしてもう一人はこれが一番フダツキのあんちゃんだったんですよ。

当時はとんでもない格好をして会社に来ていました。何を言っても言う事をきかない。

『何でこんなことしなくちゃいけないんですか!』と反抗ばかり。それがなんと今、取締役になっています」

父との電話。

「豊橋に行った時は『もう二度と東京には帰らない!』と啖呵をきりました。専務のくせにねwwだからこちらから父には何があっても電話をしませんでした」

小平の父から電話がかかってきても意地を張って取らなかった。

代わりに工場長が応対をしていた。

そのうち堪忍袋の緒が切れた父が受話器越しに怒鳴った。

「どういうつもりだ!?いい加減にしろ!」

それから定時連絡をすることになった。

毎晩九時に電話が鳴った。

嫌で嫌でたまらなかったという。

「今日はこんな仕事をはじめました。順調にいっています」

電話口で伴治さんがそう言うと。

「そんなつまんねぇ仕事取ってきやがって、それが何になるんだ!」

と激昂した。

「この間まで工場は止まっていたわけですからね、褒められると思って言ったけど褒められない。むしろ叱られるんです。

『社員教育をはじめてこういうことを教えています』と言うと『そんな奴らにそんなことを教えて何かになると思っているのか!』とか言われるから腹が立って仕方がない」

「冗談じゃありません!いい加減にしてください!」

ガシャンっと受話器を叩きつけて、タバコをチェーンスモークする。

帰りには近くのスナックに行き、強くもない酒をベロベロになるまで飲んで帰る。

苦しくて苦しくて仕方がない日々を送っていた。

〝俺がこんなに頑張っているのに、どうして親父は分かってくれないんだ?

間違っているのは親父で、俺が正しいのにどうしてなんだ?〟

そんな鬱憤とした毎日を送っていたとある日、トイレで用を足している時にあるものを見つけた。

〝人を責めると苦しいのは自分ですよ〟

そう書かれた紙が目の前に貼ってあった。

それまでその場所にその紙あることさえ気付かなかった。

その日に限って、その言葉が伴治さんの眼球に勢いよく飛び込んできた。

その時、はたと思った。

今の苦しみの原因は自分にあるのだろうか?

〝自分が親父のことを責めているからなのか?

自分が工場長のこと責めているからか?〟

この苦しみから逃れることができるならば、試しに相手を責めるのをやめてみよう。

相変わらず父の電話は小言ばかり。

いくら怒られても、「はい分かりました、以後気をつけます」と言って電話を切った。

毎日ぶつかっていた工場長にもひどいことを言うのをやめて良い言葉を使うように心がけた。

それでも、一向に何も変わらない。

尚も変わらず父は罵声を浴びせてくる。

「何も変わらないなぁ」と思っていたら、親父と創業からずっと共に働いてきた常務に「専務、最近ずいぶん変わったねぇ」と言ってくれた。

「自分が親父と電話で怒鳴り合いをしなくなって、こういう風に言ってくれる人もいるんだなぁとその時思いました。気が付くと、工場長が『この間言っていたあれだけどちょっとやってみようか』と言ってくれました。

もしかすると自分が父と電話で言い争わなくなったから、また、工場長を責めなくなったからそう言ってくれたのだろうか?そう気付いたんです」

自分が父や工場長のことを責めていたからうまくいかなかったのではないか。

原因は相手にあると思っていたが、実は自分の方にあったのではないか。

「これは大変なことだ」

その時、はじめて自分を変えてみようと思った。

この日から自分を一生懸命変える努力をはじめた。

次第に、それまでうまくいかなかったことが、スムーズに流れだした。

やりたいと思ってはじめたことは必ずといっていいほど失敗してきた。

でも、今度は工場長がしきりに応援してくれるようになった。

すると色々なことがうまくいくようになった。

今まで多かったクレームが減り、豊橋工場の売上も徐々に上がっていった───。

2006年、伴治さんは倫理法人会に入会する。

有楽製菓に入社して25年。

父の志亮さんは79歳になっていた。

志亮さんは認知症を発症しはじめていて、会社の業務のほとんどは専務である伴治さんが切り盛りしていた。

父親に社長交代の話を促すと、その時だけは「誰がお前にやらせるか」と言って譲ってくれなかった。

工場は地震がきたら一瞬で潰れてしまうのではないかと思うほど劣化が進んでいた。

父親との関係には入社以来埋まることのなかった深い溝があった。

そんな状態で伴治さんは悶々としていた。

倫理法人会に入会した翌年、先輩方に連れられ静岡県御殿場市にある富士高原研修所での合宿に参加する。

「当時、自分がすごく〝できた人間〟だと思っていました。合宿に参加したところで勉強することもないだろう、と」

伴治さんはそう語る。

しかし、それが自分の思い上がりであったことを痛切に感じる。

その時の研修によって伴治さんの心に変化が現れた。

研修の中では何度も〝親の恩〟について言及された。

伴治さんにとって父親との軋轢は最も難しい問題であった。

「ずっと仲が悪かった。何かあればいつも揉めていました。ですから〝親の恩〟と言われた時は、『俺が一生懸命やっているおかげで会社が成り立っているんじゃないか』と反発する気持ちが強かった」

その教えをはじめは受け入れられなかった伴治さんでしたが、父との関係を見つめ直すうちにその気持ちも次第に弱まっていった。

「小さい頃はよく親父と一緒に遊びに行っていたな。確かに厳しい父親だった。だけど、自分が今こうして一丁前にやっていられるのも、そんな親父に鍛えてもらったからだ…」

父親について思いを巡らせ、昔の記憶が蘇っていく。

すると気が付けば伴治さんの瞳からは涙がこぼれていた。

その溢れ出した雫はとめどなく流れた。

「その時はじめて〝涙を流す〟ということが〝自分の心を洗浄する〟ことだと知りました。涙は汚れた自分の心を洗い流して素直にしてくれる」

伴治さんは気付いた。決して自分一人で大きくなったのではない。

父親の存在がなくてはならなかったのだと。

それから伴治さんは父親にハガキを書き始めました。

認知症の父のことなので内容が理解できるか不安だった。

それでも書き続けた。

すると、父に対して感謝の言葉が書けるようになっていった。

人によっては易しいことかもしれないが、伴治さんにとってその変化は大きな一歩だった。

しかし、謝罪の言葉がどうしても書けなかった。

散々喧嘩したことに対して詫びたい気持ちが充分にあったが、肝心の言葉に差し掛かると書こうとすると伴治さんの手が止まった。

書けない。

病院へ入院した父のお見舞いに行った時に伴治さんはショックを覚えた。

カッコよくてお洒落な父だった。

いつも強気だった父が弱り果てて小さくなっている。

「倫理法人会では親の病気は子どもの親不孝が原因だっていうんです。親が勝手に病気になったんじゃないかと思っていたのですが。こんなに年老いてしまったのは自分のせいなのかと思うと、いたたまれなくて」

涙が出た。

伴治さんは父親の足をさすりながら、はじめて「申し訳ありませんでした」と一言つぶやいた。

「小さな声でしたが言えました。倫理法人会と出会っていなかったら最後まで親父に詫びることはできなかったと思います。謝ることができなかったとしたら……父とのわだかまりは未だに残っていたと思います。言えてよかった」

ブラックサンダーの誕生。