top of page

Art de Vivre4~枯山水~


Art de Vivre。

〝生活の芸術〟〝暮らしの技法〟と訳される当店の看板。

この場所では、生活をアートによって豊かにする、そんなヒントが対話の中から発見されます。

お客様はデザイナーの高橋祐太さん。

聴き手は『教養のエチュード』の編集長でもある嶋津亮太が聴き手を務めます。

前回(Vol.3)の続きです。

 

枯山水

嶋津

高橋さんのクリエーションの中で日本をテーマにした作品がありますよね。

「空」や「枯山水」には日本的なイメージがあり、世界的にも評価を受けていらっしゃいました。

海外の人にとって求心力のある日本───東洋の神秘的なイメージが心を掴んだと思うのですが、同時に日本人である自分にとってもそこに広がる日本の美しさに魅惚れました。

あの光景が〝日本の全て〟ではないのですが、良い意味で「〝日本〟のユニバーサルだ」と感じました(それは普遍性さえ!)。

高橋さんは僕のこのリアクションをどのように言語化しますか?

高橋

枯山水の芸術は、僕がイェッセさんと対談した時に話したかったことの本質です。

あの時の議題をアート作品にすれば枯山水になるんですよ。

日本には春夏秋冬、いろいろな自然の移ろいがあります。

春は桜であったり、冬は雪だったり───日本人は意識的に自然と繋がって生きている。

そのこと自体がイェッセさんとの対話の中の言葉を使えば「背骨がない状態」です。

あの時の議題は「いかに背骨をつくるか」という話でしたね。

話の中では肉と背骨が出てきました。

肉は生命を宿していますよね、つまり、生きている。

「自然」と同義語です。

 

高橋

ヨーロッパ人は〝思考〟で───理で突き詰めることにより───背骨を作っていて。

アメリカ人は本能的な〝意志〟の衝動により───それは半無意識的ではあるが───行動を通して背骨を作ろうとしている。

この骨を縦に置いた時、ヨーロッパ人は上(頭)から、アメリカ人は下(手足)から背骨を形成しているように見えて、そして日本人は肉が最も多く付いている領域である真ん中あたりに位置しているのではないかと思って。

上下に位置している人───つまり、ヨーロッパ人やアメリカ人からであれば、真ん中の状況を客観視することができますよね。

でも真ん中の領域にいる僕たち日本人は「いかに背骨を形成することができるのか?」という方法論はだけでなく、「背骨がない」ということすら見えていない。

僕はそれが今の日本の死活問題である気がします。

 

高橋

では、背骨とは何か?

骨というのは鉱物───物質として死んでいますよね。

「日本人が背骨をつくらなければいけない」という言葉の本意は、「あふれている自然のその中心に死んだものを入れなくてはいけない」ということ。

嶋津

枯山水そのものですね。

高橋

そうなんです。

もともと「なぜ枯山水をつくったのか?」という話になるのですが、作製されたのは明確にいつ頃かということは置いておいて、その時にはもはやつくり手には分かっていたんです。

「何百年後の日本人はこのような意識状態を克服しなければならない」ということが。

その象徴として枯山水は生まれた。

嶋津

おもしろい。

時空を超えたメッセージである、と。

高橋

だから枯山水の中には生きているものは一つもないんです。

その空間の中で人は何をするか───瞑想ですよね。

つまり、〝瞑想するための庭〟としてつくられているんです。

いきいきとした自然と一体化して、悠々と遊んでいる状態から脱し、何もないところへ自分を据える。

瞑想をすることで「本来の自分は何なのか?」ということを感じ取るためにつくったアートが枯山水なのです。

嶋津

非常に興味深いお話です。

余白の美───四季折々を枯山水の風景に自由に重ね合わせる。

瞑想とも繋がるのですが、〝観る者の想像力が補われてはじめて完成する〟という味わい方だと思っていました。

高橋さんの解釈によって見え方が豊かになりました。

 

生命・真空・思考

高橋

おもしろいことに、デザインしていれば明確に「生命」を感じる瞬間がわかるんですよね。

例えば、〝名刺〟ならば実利的に会社名や役員名を入れますよね。

その時、文字の周りに「生命」があるのがわかるんですよね。

「生命」が結びついている状態とうのが、いわゆる日本的なデザインの領域なんですね。

ところが、文字と文字を離していくとどこかのタイミングで「生命」が離れる瞬間があります。

その離れた瞬間に「真空」が入ってくる。

そしてその「真空」の中には、さらに別の要素が入り込むんですよ。

───それが人間の「思考」です。

嶋津

「生命」が離れる瞬間というのはどのようなタイミングなのでしょうか?

高橋

例えば、赤ちゃんがいます。

赤ん坊ってぷよぷよとしていて生命に満ちあふれていますよね。

ただ、赤ちゃんは何も考えることができませんよね?

それがだんだん大人になるにつれて、骨格が伸びてきますよね。

身長が伸び、手足が長くなり、ずんぐりむっくりしていたのがすらっとしていく。

「すらっとする」というのは、各々のパーツが離れていくということです。

イメージで説明すると、ヨーロッパの建築というのは「すらっと」していますよね。

それに比べて日本のスーパーの広告チラシというのは「むぐむぐ」と情報が密集している感じがわかりますか?

この「すらっと」と「むぐむぐ」という印象の違いを、細かく探求していくと、各々の要素の距離であることがわかります。

要素同士が遠いから「すらっと」していて、近いから「むぐむぐ」している。

その「むぐむぐ」を感じるということが、一つ一つの要素が「生命」を持っているということなんですよ。

生きているわけではないですが、存在感がある。

「生命」がお互いに近過ぎる───原理が強く機能すると、人間は思考をやめてしまうんです。

だから赤ちゃんは思考できない───「生命」の原理が強過ぎるから。

大人になると「生命」の原理の力が弱まってくる。

肌にしわが出てきますよね。

しわが入るということは、「生命」の原理が消えつつあるということです。

その隙間に「思考」が入り込む。

すると考えることができるようになります。

嶋津

確かに、ドン・キホーテに行くとあまり考え事ができないw

あれは、「思考が入り込む余地がない」ということなんですね。

高橋

それは枯山水に通じていて、日本人は四季によって自然と繋がっている。

だから一度、自然から隔離する必要がある。

そのためには脱出ポイントをつくらなければならない。

嶋津

「生命」で満ちあふれている状態を危惧した、と。

高橋

ヨーロッパは自然と繋がっていないので「思考」が発達した。

 

イェッセ

ヨーロッパ、アメリカ、日本───それぞれに良い側面があると思います。

それらの良い側面を互いに結び付けていき、〝一面的に背骨ができる〟という状況を回避することだと私は思います。

ヨーロッパは〝思考〟に基づいて「自分は何がしたいのか」という形で、アメリカにおいては明確な〝意志〟に基づいて「自分は何がしたいのか」という形にあります。

アジア、若しくは日本の領域では、中心にある感覚───〝感情〟の世界で(それは社会性とも言い得るのですが)形成されています。

私たちから見て、少なからず、それは日本の強みであると言えます。

 

嶋津

対話の中でイェッセさんは、「生命とつながっている状態がうらやましくもある」という意味合いのことを仰っていましたよね。

今の文脈で言うと、「ヨーロッパ人は生命と離れ過ぎている」ということなのでしょうか?

僕は日本人ですので高橋さんの観点から話を理解していたのですが、イェッセさんは「高橋さんの話はすごくわかる。でも、こちらはその感覚があまりにもないので、僕たちは見習わなければならない」と話していた。

各々のポジションがとてもおもしろかった。

高橋

まさにそれがグローバリズムですよね。

日本人の要素がヨーロッパに浸透し、ヨーロッパの要素が日本に浸透する。

そこでさらに新しいものが生まれていく。

嶋津

我々が人類として向かうべきなのは、日本人がアメリカ人やヨーロッパ人のようになるわけではなく───あるいはアメリカ人がヨーロッパ人やアメリカ人に、あるいはヨーロッパ人が日本人やアメリカ人に───全く別の形へとそれぞれが向かうということが求められるということですよね。

高橋

そうならざるを得ないですよね。

 

全ては驚きから

嶋津

みんなPCやスマホをもっている、やればできるのにやらない。

「1日に10時間のインプットを5年間続ければその分野ではトップになれる」とお話されていました。

高橋さんは実際にそのような生活を送ってこられてきたのですか?

高橋

最近「なぜそうなのか?」ということを考えます。

先日、8年ほど読む機会がなかったシュタイナーの本を手に取りぱらぱらめくっているとその答えのようなものが書かれていました。

つまり「みんなできるのにやらない」という次の展開───「どうしてやらないのか?」について。

やらないのは、理由があるからやらないんですよ。

そこには「驚きからはじめなければならない」と書かれていました。

8年前に読んだ時は「一体何を言っているんだ?」という気持ちだったのですが、今思うと実際にそうなんですよ。

「なぜやらないか?」ということと同じくらい「なぜやったのか?」ということも重要なのです。

現実の中に浸透していくためには驚きからはじめなければらない。

因みに嶋津さんはどうして文章を書きはじめたのですか?

嶋津

「書いてみたい」という興味本位と「書いたものを読んで喜んでくれた人がいた」ということかもしれません。

僕にとって文章を書くことはコミュニケーションツール。

世界と繋がるための道具です。

人見知りなので、〝書くこと〟がなければ誰とも交わらないかもしれません。

その延長線上に今があります。

高橋

なるほど。

きっとね、「書きたい」という衝動の前───あるいは書いた後に───どこかで驚いているはずなんですよ。

嶋津

確かに、ある本を読んだ時に「この人の文章ってすごい」という出会いがありました。

それまでも文章は読んできたのですが、とある作家のエッセイを読んだ時に「これはすごい」という驚きがあり、その後に自分でエッセイを書きました。

高橋

それでは今現在進出していない分野がありますよね。

例えば、FXのトレードとか。

なぜしていないのかというと、FXのトレードに対して驚いたという体験がないからなんですね。

嶋津

なるほど。

簡単に言えば、「驚き続ければ継続できる」ということですか?

高橋

できると思います。

ただ、人間という生き物はバカに頭がいいので、大人になるにつれてなかなか驚くことがなくなってくる。

嶋津

感動に鈍くなるのですね。

慣れてしまう。

高橋

次に考えるべきは「驚きのポテンシャルを上げる」ことですよね。

 

哲学との出会い

嶋津

ご自身を振り返った時に、「哲学からデザインの世界に入った」と仰っていました。

その領域で継続できていて、尚且つ結果も残している。

その過程の中で、もちろん驚きの連続があったと思うのですが、具体的に高橋さんのご自身を振り返ると、特別な体験はありましたか?

高橋

僕の人生において「驚き」からはじまっていないことは何一つとしてなかったですね。

20歳までBMXをプロとして活動していました。

きっかけは近所のTSUTAYAでDVDを借りてBMXの映像を観たのですが、その瞬間に目が点になるほど仰天しました。

そこからのめり込みました

嶋津

初耳です。

アスリートだったのですか?

高橋

体脂肪5%でした。

嶋津

www

反対にどうして20歳で辞めたのですか?

高橋

20歳の時に哲学の勉強をはじめました。

とにかく仲間の素行が悪かった。

僕ももともと良い方ではありませんでした。

嶋津

意外ですね、こんなに丁寧にお話になる方が。

もともと地頭がよかったのではないでしょうか。

アスリート時代から本は読んでいたとか?

高橋

一冊も読んでいませんでしたね。

嶋津

本当に?

どうしてまた、そのような方が哲学の本を手に取ろうと思ったのですか?

高橋

シェアハウスで仲間と3人暮らしをしていました。

一応みんな仕事をしていたのでお金はあったのですが、毎日遊んでばかりで生活がどんどん困窮していった。

家賃も払えないし、光熱費も払えない。

そのような生活を続けていて、ある日「これはダメだ」と気付いた。

「なぜダメなのか?」ということをその時はじめて考えたのですが、自分の性格が良くなかった。

つまり自分の性格が悪いために遊んでしまう。

ならば、「自分の性格を変えるためにはどうすればいいのか?」ということを考えた。

そこで図書館へ行き、哲学の本と出会いました。

嶋津

本を読んだことがなかったのにも関わらず、よく読む気になりましたね。

やはりその本に力があったのでしょうか?

高橋青年に「最後まで読みたい」と思わせるような。

高橋

とてもおもしろかったです。

しかもシュタイナーの中で最も難しいと言われている本を最初に読んでいるんです。

『神秘学概論』という。

率直に「これを書いた人間は頭が良過ぎる」と思いました。

学生の時、先生に「どうして勉強しないといけないの?」と質問するじゃないですか。

それに対して「黙ってやっていればいいんだ」と言われたことがあって。

そこで僕は「あ、この先生に学んでいたら頭が悪くなる」と思って授業をまじめに受けなくなったんですよ。

シュタイナーの書いた本には一貫した思考が書かれていた───それが合っている、間違っているはさておき。

そもそも僕にはそれが合っているのか、間違っているのかはどうでもよかったんですね。

現地点での僕の思考の範疇では収まりきらないことが書かれていたので、合っているか間違っているかを判断するという表現自体おかしな話ではあるのですが。

嶋津

そこから「この哲学をデザインに転用できるかもしれない」と。

その気付きは高橋さんの感性ですよね。

どうしてデザインだったのですか?

高橋

僕の生まれ育ちが片田舎でした。

とにかくクリエイティブな発想や思考が育つ環境ではなかった。

ただ、シュタイナーの本を読んでいると理解ができてくる。

「こうやってつくっているんだ」という発見が蓄積されていく。

ゲーテは「科学を理解したものは芸術への抑えがたい憧れを持つようになる」という内容の言葉を残していて。

ゲーテの言う「科学」は、前回(vol.3)の言葉でいう「霊」とか、そういう科学です。

現実社会にどのようなメカニズムが働いているかを理解したものは芸術への抑えがたい衝動を抱く。

ノバーリスは「科学は最終的にポエムになる」と言っている。

科学というのは、この現実世界の中に働くシステムを解き明かし、人間はそれを理解すると、創造的な欲求に耐えることができなくなる。

だから、僕はその理論が正しいか証明するためにデザインの世界に入りました。

嶋津

それがたまたまデザインだった。

高橋

パソコン一つあればできるじゃないですか。

プロダクトデザインはお金がかかるけど二次元的なグラフィックデザインは紙でいい。

あの頃はお金もなにもなかったからグラフィックデザインを選んだ

今ではプロダクトデザインもさせていただいています。

いつかはインテリアもしたいし、建築もしたいと思っています。

 

高橋さんとの対話は非常にエキサイティングでした。

話がどう展開するか分からない。

スタートもゴールも決めず、回り道をしながら中心へと向かっていく。

決して答えを見つけるため───あるいは提示するための対話ではなく、インプロビゼーションによる「偶然の収穫」を楽しんでいるかのようで。

だから、「問と解」は成立している必要はなく、〝決められた解〟よりも、自分でも思いもよらなかった言葉がふと思考をよぎる喜びの方がずっと大切で。

この考え方やアプローチは僕にとって大きな収穫でした。

全てを〝自分ごと〟にする。

目に映る景色も、耳に届く音も、それが誰かとの会話であっても。

「答え合わせ」ではなく、実験的に石を投げ込み、相手が打ち返してくるものに新鮮に反応する。

相手の言葉ももちろん大切だけれど、何より重要なのは「自分がどう反応するか」を知ること。

その蓄積がアートに繋がる。

《高橋祐太/Yuta Takahashi》

日本を拠点に活動するアートディレクター兼デザイナー。ブランディング、プロダクトデザイン、グラフィックデザイン、パッケージデザイン、エディトリアルデザイン、ウェブデザインなど、幅広いデザインを手掛ける。シンプルで物事の本質を突いた洗練されたデザインは、世界的に高く評価されている。国際的なデザイン賞を多数受賞。

bottom of page