空白を埋める思考と野生


異なるジャンルのものを繋ぐと新しく見えてくるものがある。

劇作家の平田オリザ氏は、〝わかりあっている〟者同士の話し合いを「会話」とし、〝わかりあっていない〟者同士の話し合いを「対話」と定義した。

「対話」は実にクリエイティブなコミュニケーションである。

AとBの論理をすり合わせることで、Cという新たな概念を導き出す───両者に発見がある建設的な行為。

それはまるでお互いが手に提げたランタンの灯を頼りに、まだ見ぬ目的地を求めて暗闇の中を歩いているようだ。

うまく辿り着くことができるかもしれないし、迷子になったまま途方に暮れるかもしれない。

答えが分からないからこそ、刺激的で、緊張感に満ちている。

互いの専門分野から共通点を導き出すことは編集作業だ。

対話はそこで終わらない。

持ち寄った材料を繋ぎ合わせ、あるいは飛躍させ、新しい景色を映し出す。

───それもまた編集。

編集はおもしろい。

『オッス!編集。』

ロフトワーク×京都造形芸術大学ウルトラファクトリー BYEDIT による「編集」を考えるプロジェクト。

第一部では盆栽研究家の川﨑仁美さんが登壇し、第二部では詩人/作家/作詩家の志人さんが登壇した。

それぞれのファシリテーターは竹内厚さん(Re:S)、多田智美さん(MUESUM)。

第三部では四名が揃って対話を繰り広げる。

第一部───現代盆栽

〈川﨑仁美さん〉

川﨑

私、30歳で大学院に入り直したんです。

そこで修士論文を書いた。

竹内

修士論文はもちろん〝盆栽について〟ですよね?

盆栽学科ってどこにもないですよね?

川﨑

そうですね。

盆栽学自体が成立していないので。

どこに所属するかというところから難儀しました。

盆栽は資料が古いものだと、鎌倉時代の絵巻物、絵画資料があります。

京都工芸繊維大学にある日本美術史の研究所に入り、120時間ほどひたすら絵巻を見続けて修士論文を書きました。

竹内

因みに、どうして盆栽は今まで研究されてこなかったのでしょう?

川﨑

実は研究されたことはあります。

農学の分野でランドスケープや庭園学も研究されているのですが。

盆栽の場合は「園芸か、アートか」という問題が長きに渡ってありました。

「日本文化だから」ということで盆栽協会から助成金のオファーをしていたのですが、「盆栽は生き物だからアートではない」ということで助成金が下りなかった。

なかなか扱いづらい位置にあったんですね。

竹内

結局定まらないままだった。

川﨑

両方なんですよ。

そもそも「園芸か、アートか」という問い自体がナンセンスで───それら2つの側面を持っている。

つまり、園芸とアートを掛け合わせたもの。

「園芸」の〝芸〟は〝藝〟───技術が入る方であると思っていて。

2つの側面があるものとして捉えるところからスタートしなければ盆栽を語ることができないと思ったんです。

竹内

それまで園芸の研究という世界はなかったのですか?

川﨑

農学博士の方が盆栽を研究していました。

ただ、研究内容は肥料の配合だとか、「育てる」という観点からのアプローチで。

例えば、「賞を獲っている盆栽はおおよそ何㎝くらいのものであるのか」という。

竹内

医学的、あるいは理系的な考え方ですね。

川﨑

18歳の時から盆栽の業界に入りました。

周囲からは「若いのに古いモノが好きやなぁ」と。

そう言われることに対して違和感がありました。

私はそもそも盆栽を古いモノだと思っていなかった。

因みに一言に〝盆栽〟と言いましても、伝統的なものから苔玉盆栽のようなものまで様々なジャンルがあります。

私の専門は樹齢100年以上の伝統盆栽と言われるタイプです。

決して古いモノだとは感じなかった。

盆栽は生き物なので日々成長し続けます。

「毎日成長しているのにどうして古いと思うのだろう?」と思っていました。

イメージが固定している原因は何なのか?

盆栽の歴史はもともとの起源は中国です。

日本に伝来したのは平安時代と言われています。

そこから考えると1200年以上の歴史があるんですね。

歴史自体は古いのですが、「生き続けている〝今〟の盆栽」というものをちゃんと見ている人というのは、実は少ないのだということに気付いた。

竹内

それは18歳の時に?

川﨑

そうです。

自分にとっては古いモノというよりも、最先端だと思っていました。

だから周囲の認識と自分の価値観のずれにショックを受けた。

まずはイメージの改革というか、誤解を解きたいという気持ちがありました。

ですので「現代盆栽」という屋号を掲げているのですが、現代というのは〝今〟───今の盆栽を見つめているという意味です。

それが一番の動機です。

これは盆栽に限らず、あらゆる業界に言い得ることだと思います。

「あ、これは盆栽と同じだ」という発見から、知らず知らずのうちにジャンルを横断していることもよくあります。

鉢の上のワンダーランド

<竹内厚さん>

竹内

僕も盆栽の展覧会を観に行ったことがあるのですが、とんでもない世界が鉢の上で繰り広げられていますよね。

ただ、「盆栽の空間」というのは琴の音色が流れていたりして、場づくり的にはもっちゃりしていますよね。

川﨑

確かにそうかもしれません。

わかりやすいたとえを探していく

今、展覧会の広報の担当をさせていただいているのですが、私が関わらせてもらってからこのような金バックのデザインをしたポストカードをつくらせてもらっていたり。

竹内

角丸でかわいいですね。

確かに入口をこのようなデザインに変えるだけで印象は違いますね。

川﨑

CDにしても〝ジャケ買い〟というのがあるじゃないですか。

「間違ってでも入ってきてもらいたい」というところからやっていて。

自分自身がいろいろな場所をうろうろする中で、「完璧にデザインされている空間」に違和感を抱く時があって

要するに洗練され過ぎている。

それよりも、素材のありのままの要素を残しつつ引き寄せる方法なないか、と。

竹内

僕も日々、編集の仕事をしている中で、確かに「デザインがキレイになり過ぎている」という問題は感じますね。

「ダサさ」とは言わないまでも、「生っぽさ」をいかに残しながらアピールするかということに価値が出てきている。

川﨑

デザインされていない余地がある方が、「掘り出し感」がある。

そこに喜びを感じます。

なので、余白をいかに残していくかという点を意識しています。

竹内

盆栽の広め方として川﨑さんのお考えをお聞かせください。

川﨑

「解説ツアー」というものを積極的に開催しています。

要するに目利きを増やすということです。

よくある質問が「どの盆栽が良くて、どれがダメなんですか?」というもの。

良し悪しではなく、盆栽は茶道と同じく〝好みの世界〟なんですね。

つまり、「自分の好き」を見つけることがすごく重要で。

もちろん古ければ古いほど良いという骨董的な価値観はあります。

人間でもご長寿の方に畏敬の念を抱くということがありますが、盆栽もまた樹齢が古い方が良いという価値観がある。

または、「樹齢のわりに小さい」ということにも価値があります。

生き物というのは一度大きくなってしまうと、小さく戻すことはできません。

つまり、「小ささをキープしている」ということは、時間と手間をかけた証明なんですね。

そこが小さいことの価値です。

竹内

確かに、成長するものの小ささを維持しているということは手間がかかりますね。

例えば、小さくて古いモノでいうと、何年くらいのものがあるのでしょうか?

川﨑

樹齢300年や500年、1000年の盆栽もあります。

巨木感を出すことも重要です。

つまり、「小さいけれど大きい」というところがポイントになってきます。

それは仕立てで作り込んでいくのですが。

竹内

盆栽の世界の審美的価値観というのは、培われてきた価値観がある一方で、先ほど仰ったような100人100様の好き嫌いという観点もある。

川﨑

そうですね。

それぞれの好みを見つける、という。

好きなものって変わっていくんですよ。

それは得た経験だったり、心的状況であったり。

好みによって、自分の内面が映し出されているようで、それがすごくおもしろいですね。

竹内

リサーチする時は現場まで足を運ぶのですか?

川﨑

キーワードにしているのは〝風土〟です。

日本列島は北海道から沖縄まで長いので、同じ盆栽でも土地によってそれぞれ育ち方が異なります。

豪雪地帯の盆栽は、雪が積もっても雪落としをするために枝の傾斜が鋭い。

対照的に暖かい地域ではその必要がないので枝が上がっていたりします。

都道府県によって全く違う育ち方なんです。

盆栽を見ていると県民性のようなものが反映されている。

県民性は風土から来ているので、できるだけフィールドワーク───いろんな土地へ行き、地域の特異性を感じながら、名物を食べ歩いたりすると理解が早いですね。

それだけで、その土地の習慣や季節感というものが掴めたりするので。

二部───言葉の腐葉土

〈志人〉

志人さんによるパフォーマンスで二部は幕開けた。

自分にとってマイクはある意味神聖なものです。

それを掴んで何かを話すということは、喋る言葉に気をつけなくてはいけないと思っています。

多田

志人さんご自身の中で「表現する」ということはいつはじまったのでしょうか?

志人

「おぎゃー!」と産声を上げた瞬間からなのではないでしょうか。

「自分が何をしているか」ということは、他人が紹介してくれることだと思っています。

ですので、肩書は自分で決める必要はない。

むしろ、〝肩書〟というのは脱ぎ捨てるものです。

わたしたちはもともと何もついていなかったはずです。

肩書は後付けに過ぎません。

ですので、そういうものをなくしていく。

いろいろな誤解があるとは思いますが、人は無意味とされるものに意味を見出そうとする傾向があります。

分かろうとしても分かり切れないことの方が、わたしにとっておもしろいことだと感じます。

山は海のようだ

志人

普段、山里離れた場所に住んでいます。

おじいちゃんやおばあちゃんくらいしか人間と話す機会はありません。

ある意味、アンダーグラウンドで、マニアックな場所にいます。

実際に見えている世界だけが全てではありません。

人間は、見えているもので解釈しがちの部分があります。

人間界で生まれた人間同士の付き合いだけで完結してしまう日常がほとんどなのではないでしょうか。

「人間とは何ぞや?」あるいは「自分とは何だろう?」ということを知るために、

人間だけではない、自分の生命を取り巻くあまねく命たちに耳をそばだてていることが、自分を知るきっかけになるのではないかと思いました。

若い時分、高野山で宿坊体験をさせていただいたことがあります。

その時、凸版印刷の方も一緒に泊まっていました。

その方は高野山の曼陀羅の経典をアーカイブとして残すという仕事をしていました。

「わたしたち現代人ができることは、次の世代や、その次の世代…もっともっと先まですばらしいものを残していくことを使命としている職業なのです」と。

画家にしても絵だけでは食べていくことはできず、昔の古い絵画の修復を傍らでやりながら生活していたり。

わたしはデータ化するよりも、手書きで言葉を綴ることが多いのですが。

手書きで残されたものの方が、データ化されたものよりもずっと、山の表情をあらわしている。

それは山に入れば一目瞭然で。

自分の手描きの地図のようなものを、次の世代に残すことができれば、と。

第三部───対話

志人

川﨑さんの話で思い出したのは、自分が演劇の舞台をさせていただいた時に〝総合芸術〟という言葉と出会いました。

音響、照明、美術、大工…そしてそこにアクターが立つ。

アクターは光を当てられる側で、その後ろで美術を動かしながら光を当てている側がいる。

誰かに焦点を当てる───その〝総合芸術〟という言葉と盆栽が自分の中でリンクしました。

川﨑

盆栽もまた〝総合芸術〟と呼ばれていて、基本的には数寄屋造りの床の間に飾られています。

盆栽の風景を助けるような、軸をかけたり、古美術の風景を助けるような置物、骨董品との組み合わせ…

盆栽の「盆」は「器」であり、「栽」は「植栽」のことです。

この二つのバランスが整ってはじめて「盆栽」と言えます。

例えば樹齢400年の赤松の盆栽。

限られた鉢の中で長生きさせる。

命の継続を図ろうとした時に、実は目に見えない部分がとても重要になってきます。

目に見えない部分が好循環を生んでいる。

竹内

志人さんのパフォーマンスを見て、「言葉をつくる」ということは野生では難しいものがありますよね。

生活も自然の中に入っていった。

野生的な要素と知性的な要素をうまく両立している。

それができることならば僕もやってみたい。

今はどちらかというと、野生的な要素とあまり接点を持っていません。

その辺りに関してどのような工夫があるのか知りたいです。

志人

「〝野生〟というものがどういったものであるのか?」ということは、人によってそれぞれ捉え方が違うということが言えます。

わたしの中では「極限状態」と言いますか。

例えば、イノシシは人間と同じようにお腹を壊すことがあります。

腹痛によって極限状態に陥った時に彼らはドクダミを食べて体を治します。

あるいは、コアラとユーカリの関係。

ユーカリの葉には毒があります。

もともとコアラは毒の旨味を知っているのかは知りませんが、ユーカリの葉を食べて何匹も死んでいった。

それでも食べ続けているとそのうちに、毒に抗体を持つコアラが現れるようになった。

次に、ユーカリがコアラの持つ抗体に増す毒をつくるようになる。

このいたちごっこで、何匹ものコアラが亡くなり、そして強くなっていった。

野生の世界ではそういうことが起きている。

答えを求めようというよりは、謎めいている方がおもしろい。

理性的に物事をプラスマイナスで思考するのではなく、そこから脱却してとんでもない方向へと進んでいくことがある。

それがわたしの中では野生ではないかと思っています。

「言葉自体もなくなってしまえばいい」

そう思うことも多々ありますが、「言葉がなかったら…」と。

言葉が心に届かなくなる前に、世の中が言葉を必要としなくなり、全ての事柄が余所様のように、塵とも拭われて我に返る、その方法を忘れてしまう前に会いに行く。

何遍も自分で書いて、それが良ければ「世の中に残してもいいのではないか?」と。

そう勝手に思います。

「言葉というものを必要としなくなる前に」という想いで。

川﨑

盆栽のおもしろさは「流派がない」というところです。

体系化されていないということでわかりにくいということもあり、それによって普及がしづらいものであるという点はありますが。

有名な盆栽園があり、基本的にはそこに五年間住み込みで盆栽のつくり方を見様見真似で習います。

ある程度のことを学んだ後、「実際に盆栽にする」という段階になった時、師匠は何も教えてくれないんですね。

それは「見て盗め」ということでもあるのですが。

「盆栽は〝自然〟をお手本にしているので、山に行きなさい」と言われるんです。

山に入り、本物の野生───天然自然を見て、どう解釈するか。

「人に習うものではない」という点でも、流派のない盆栽のおもしろさではないかと思います。

盆栽というのは、実は「自然を写す」ということをしているんですね。

ただ写すのではなく、「つくり手がその自然をどう解釈するか」という表現がポイントになります。

天然資源の中でどう対処するか。

作家さん自体がどういう自然をつくろうとしているのか。

天然自然を知らなければ、何をしようとしているのかがわからない。

ですので、普段は時間を見つけて山に入るようにしています。

感覚を総動員して、香り、触感、あるいは葉っぱを食べたりもします。

そういうことを通して感じる。

確かに言葉にはできないものです。

山の中の木というのはどういう育ち方をしているのかというのを確かめたり。

志人

この鉢の中で根が生き続けることができることは条件というか、どうなっているのでしょうか?

「この見えない中で何が起きているのだろう?」と。

ずっと生きているというのがすごい。

川﨑

一流の職人さんというのは「鉢の中にどう根が張っているのかが分かる」と言います。

目に見えていないのにも関わらず。

水やりをしながら、盆栽のコンディションを掴む。

「基本的にそれら全てを含めて勘である」と言われたのですが、〝勘〟というのは要するに観察力の賜物ではないでしょうか。

量をこなさなければわからない。

それが重要だと思うので、数を見ることにしているのですが。

数を見ていると微差が見えてくる。

勘というのは単なる「思いつき」ではなく、見た総量が経験値となり思考を通さずに「おや?」と気付くことができるレベルになっていく。

「見えない部分を見る」という意味では、やっていることはお医者さんのようなことであると思っています。

竹内

「見る」というのは非常に難しいですね。

川﨑さんのお話から「目の前に答えがあるにも関わらず〝見えていない〟」ということを思いました。

川﨑

医療と言っても、西洋と東洋があり、どちらかというと東洋医学が脈診でどこがどう悪いのか診る、というようなものです。

そういう風に「見えない部分が見えるようになりたい」と強く思っている部分はありますね。