Art de Vivre。
〝生活の芸術〟〝暮らしの技法〟と訳される当店の看板。
この場所では、生活をアートによって豊かにする、そんなヒントが対話の中から発見されます。
お客様はデザイナーの高橋祐太さん。
聴き手は『教養のエチュード』の編集長でもある嶋津亮太が聴き手を務めます。
今回は、前回行われた『Art de Vivre 2~これからの日本を盛り上げるために~』を振り返りながら、さらに高橋さんの思考と創造に迫ります。
時に問と解、解と問が揺らぎながら展開していきますが、それらのやりとりも含めて自由な対話をお楽しみいただければと思います。
僕はこの空気感が好きで、意図的に編集作業の中でこれらの揺らぎを残しました。
それは、高橋さんの「物事を限定的に捉えない方がいい」という言葉に感銘を受けたからです。
「問と解」はセットである必要はなく、その隙間に生まれる思考にこそ大切なヒントが隠されていると思っています。
それではどうぞお楽しみください。
考えに縛られることなく「徹底的に検証して、実験して、自分で理解をしていく」ということがシュタイナーの立場なので。
「いくつかの質問に対して、それぞれの答えを出す」
それがインタビューの本質ではないことを僕はこの日学びました。
高橋さんとの会話はいつも、全く関係のないところから動き出します。
もちろんこの日もそうで。
僕は今まで気になっていたルドルフ・シュタイナーについて尋ねました。
とても具体的な話───「言葉の概念の違い」から思わぬ方へと展開していきました。
高橋
100年前にシュタイナーが使った言葉に付随する概念と、現代を生きる日本人の僕たちが使っている言葉の概念は全く違います。
例えば、「霊」と聞くと、今の僕たちはポルターガイストや幽霊のようなものをイメージしますよね。
シュタイナーの使っている「霊」は全く関係がありません。
それでは当時のシュタイナーはどういう意識で使っていたのか。
例えば、水は100℃で沸騰しますよね。
そのことを「霊」と呼びました。
海底火山では海水とマグマがぶつかると海水は蒸発します。
あの現象も「霊」なんです。
そのような現象を僕たちは当たり前のものとして受け止めているのですが、当時の人々にとってはそれが理解できなかった。
つまり、水が100℃で沸騰することを知らない。
嶋津
なるほど、科学的な理解ですね。
高橋
それは自然現象として100年前や1000年前にも同じことは起きている。
「水が沸騰する」ということはもちろん昔から分かっていることです。
それをいつか「水は100℃になると蒸発する」ということを人間が発見した。
その瞬間に目の前に起きていた現象が理解できるわけです。
「マグマが流れ込んだから水がパチパチと音を立てて蒸発するんだ」と。
つまり、自然現象として起きていたよく分からないことが、自分の頭の中で一致したという状態のことをシュタイナーは「霊」と呼んだのです。
嶋津
そういうことって今でも当たり前に存在しますよね。
テレビがどうして映るのか分からないし、スマホがどうして動いているのか分からない。
それをプログラミング的な理解ができた瞬間に「霊」ということになるんですね。
高橋
そうなんです。
未開民族の人にスマホを渡すと、いきなり四角い画面に映像が映し出されたのを目にして驚きますよね。
それは自分の頭の中にある理論と目の前にある現象が一致していないんです。
そういう時に「魔法」、ないしは「宗教」が成立する。
スマホの原理、アンテナがあり、CPUが機能して、電波を受信して…ということを知っていると、その現象が理解できる。
「理解できている」という感覚はあるのですが、「感覚というのは物質として存在するのか?」という問題が出てきます。
感覚は物理的に目に見えません。
確かにロジックやメカニズムを理解している意識はある。
ただ、他人がそのように理解しているというのは僕たちの目には見えない。
目に見えないものについて───でも確かに理解しているというものについて、言葉をつける時に「霊」と名付けた。
それが個人的な快不快の領域にあれば「感情」と呼びます。
感情とは個人的なものではなく、誰にでも通じる純粋なメカニズム(科学的な事実)のことを「霊」と言ったのです。
嶋津
その文脈でいくと、高橋さんが仰っていた「クリエイティビティは教育可能なのか?」ということを言語化できるということはまさに「霊」ということですよね?
それがアートであれ「再現可能な状態にする」という。
高橋
現代アートの巨匠でマルセル・デュシャンという芸術家がいますね。
彼は便器に名前を書いた『泉』という作品をつくりましたが、それも要は同じことだと思います。
「便器に名前を書く」ということの根本的な命題。
それが例えば、1000年前に便器に名前を書いたとしても、それはアート作品として認められていたかということはわからない───おそらく、認められていなでしょう。
では、なぜ「便器に名前を書いた」だけの作品がアートとして認識されたか。
それは世界で誰も思いついていないことを発見したというところに価値があった。
アートに関しても文脈があり、その線上の中で最も新しいことをした人に価値が与えられる。
現代芸術はルネサンス、そしてそれ以前の古代芸術から続く延長線上にあります。
各々の時代において芸術家がどういう精神性なのか、どういう意図で作品をつくってきたのかということを把握しながら、それを一つの線上に配置していくことで次のアートを予測することもできる。
まさしくアートにおける「霊」としての認識ですよね。
その時々のアーティストが何を感じ、考え、行動したのかという価値観の認識と霊的な認識というのは同義語なんです。
つまり、「価値観の変遷」と呼ぼうが、「霊的な変遷」と呼ぼうがどちらでもいい。
嶋津
以前、高橋さんにクリエイティブに関していろいろお話をお伺いしました。
ざっくり説明すると「自分が得意とするもの」と「世の中の動き」を掛け合わせながら表現していくべきである、という。
デュシャンの『泉』は「世の中の動き」───アートの文脈を照らし合わせながら「今までになかったものを提示する」という考えのもとに形になったものだということがわかりました。
あの作品以降、アートのパラダイムが新しいものになった。
それは事実ではあるのですが、ただ、世の中にないものを提示し続けているにも関わらず黙殺されているアーティストも山のようにいます。
「ないものをつくる」というだけではなかなか評価に至らない。
霊的な認識に至るためには「世の中の流れ」をつぶさに観察しなければいけないということですね?
高橋
そうですね。
「世の中の流れ」は見えていた方がいい。
でも、現在評価されているアーティストの方々全員が見えているのかといえば全くそうだとは言い切ることはできません。
むしろ、完全な無意識の領域から手探りで採取した作品の方が現代芸術のトップに立っている例が多いと感じます。
嶋津
それは「偶然、世の中に受け入れられた」ということですか?
高橋
場合によってはそうとも言えます。
一つの作品に対して何十億円という価値がつけられることがありますよね。
普通に考えてみるとおかしなことだと思いませんか?
実は、何十億円というのは「絵に対する価値」ということではないんです。
「誰もが理解できる理屈」への価値なのです。
僕たちは提示された価格を「絵に対する価値」だと思うので、「そんな高い値段なんてあり得ない」と言ったりするのですが、実際にはそうではない。
現在であればインターネットが発達し過ぎて「当時の人間はこうだった」という情報があるかもしれませんが、昔はそういうツールはなく情報はすぎになくなってしまいますよね。
絵画や彫刻や音楽に対してなぜ高い値段がつくのかというと、そこに描かれている絵画を一枚見れば、「当時の人たちが何を考え、行動し、どのような価値観で生活を営んでいたのか」ということが全て分かったのです───それが500年前であろうと、3000年前であろうと。
嶋津
情報としての価値がある。
つまり、絵画は当時の情報を詰め込んだカプセルのようなものだった。
高橋
そうです。
まさしく『泉』のデザインがそうですよね。
僕たちからすれば「便器に名前を書く」というデザインは当たり前のことかもしれない。
しかし、昔の王政時代に僕たちが住んでいたとするとそれをアートと呼ぶことはできないはずです。
文化的、あるいは政治的な状況下、複雑な要素の元、判断されるものなのです。
「便器に書かれたサイン」を見て、かなり文化的に自由度が高いことが想像できます。
ある程度の自由な発言が許されている政治や思想においてクリエイティブが保証されている。
あらゆる状況が整った上で、尚且つモノが飽和し、様々なことを考えたり、発言する人種がいて…
デュシャンの『泉』は、それらの背景───様々な条件を満たしてはじめて生まれる作品なのです。
嶋津
芸術───絵画、デザイン、音楽は時代がつくっている。
高橋
まるでカレーを煮込んでいるようなものなんですよ。
カレー鍋がふつふつとして泡が弾けますよね。
僕は時代をそのように見ています。
つまり、鍋の中では小さな爆発が常に起きていて、一つの泡がぷつっと切れたら、またどこかで泡が弾ける。
そのようにして各々がゆるく絡み合いながら煮込まれていく。
ゴッホにしても印象派というムーブメントがなければ存在し得なかった。
そこから振り返ってみると、そもそも印象派のような絵画作品を描くことが許されない時代はあった───たとえ描いていたとしても芸術として認められることはなかった。
時代とアートは常にワンセットなんです。
嶋津
とある画廊の方が「芸術は〝今〟のパラダイムの否定だ」という内容のことを仰っていました。
つまり、〝今〟の否定の連続によって進化が導き出される。
その言葉に僕も共感したのですが、そこへ高橋さんのお話を加えると、否定するだけでは足りなくて、ぐつぐつと煮え立つカレーの中のちょうど泡が弾ける場所にいなければいけないということに気付かされます。
高橋
そうですし、「否定の連続である」という時代状況も一過性のものだと言えますよね。
その話もたかだかここ数百年界隈のことに過ぎないんですよ。
そのような言葉を自由に発することができることを含めて。
嶋津
ぞくっときました。
そのロールさえも一過性。
では、普遍性についてはいかがお考えでしょうか?
例えば「黄金比」という言葉を教科書の中で学んだ記憶があります。
普遍的な美とは存在するのでしょうか?
高橋
僕が黄金比に関して理論立てて話すよりも、実際の僕が普段デザインの領域で行っている
考慮の中の話をした方が事実に即していると思います。
前回、嶋津さんとお話させていただいた時に、以前僕がとある哲学者の方に「話はとてもよくわかりますが、実際に作ることができるか?」と尋ねた話をしましたね。
その時、彼はまさに黄金比の話をしていました。
黄金比は「美しい」と言われますが、それだけではなくそこに意味があるのか、というところが重要です。
例えば、僕はAppleのファンでもあるのですが、Mac、iPhone、iPodなどは全て黄金比でつくられたプロダクトです。
細部に渡って計算されたデザインでした。
当時、iPadが登場した時に、僕の個人的な印象として今までのAppleのプロダクトとは全く異なる印象を抱きました。
「どうしてこんなにも違うのだろう?」
その違和感を解消したくてiPadの色々な部分を計算した。
すると、iPadは黄金比ではなかった。
───Apple史上はじめてのことです。
嶋津
おそらく、そこには絶対的な意図が存在しますよね。
高橋
まさに。
当初、iPadは雑誌を読むことを前提としてつくられたプロダクトでした。
雑誌というメディアが前提だったので、黄金比ではなく、いわゆるスクエアグリットで設計されていた。
つまり、何が言いたいのかというと「黄金比だから全て良い」というわけではないんですね。
嶋津
用途によって機能するデザインは違う。
「美しさ」よりも、黄金比にする意味性の方が重要である、と。
高橋
黄金比はヨーロッパの建築物によく見られる技術なのですが、日本の神社仏閣は基本的には白銀比でつくられています。
黄金比は1:1.618───クレジットカードやタバコの箱に見られます。
それに対して白銀比は1:1.414───A4用紙の比率です。
デザインというのは、「黄金比さえ使っていれば美しい」という単純なものではない。
劇的に生命を宿しているデザインにしたければ黄金比は効果的。
あるいはスイスのタイポグラフィ界の中では大きな流れとして、グリットで描くことも有効でしょう。
嶋津
黄金比だけではなく、様々な流れがあるということですね。
普遍性とは?
嶋津
最近では「ユニバーサルデザイン」という言葉があって、あらゆる文化、国籍、年齢、性別を超えて誰もが理解できるデザインをそう呼びますよね。
少なくとも現段階で僕はそのように捉えているのですが、前提としての僕の認識を訂正することも含めてお話をお聞かせください。
高橋
地球人がユニバーサルデザインをつくり「これぞまさしくユニバーサルだ」と認定したデザインがあったとしましょう。
それを仮に何億光年か彼方にいる宇宙人に「これがユニバーサルデザインだ」と言って見せると、おそらく彼らは「これはガラパゴスだ」と言うに違いありません。
嶋津
ユニバーサルデザインは決められた「枠」───先ほどの例の場合、「地球」という枠の中でしか機能しない、ということですか?
ユニバーサルの定義から考えなければいけませんね。
服のサイズでSMLという分類があります。
身長の高低、横幅、体重…いろいろな要素を平均化してMサイズを設定する。
ただ、「Mサイズは平均ではあるが、そのサイズにぴったりと合う人間はほとんどいない」という話を聞いたことがあります。
それは一番背の高い人と一番背の低い人の平均を考えれば簡単にわかる話なのですが。
つまり、Mサイズはアベレージですが、Mに合う人間はほとんどいない。
高橋
少し整理しますね。
ユニバーサルという概念は「SMLの中からMにしよう」ということではありません。
概念としてもう一つ上のことを指します。
ざっくりとした例えですが、SMLは全て人間の話です。
ゾウ、人間、キリンの中で「人間に合う」というのがユニバーサルです。
嶋津
とてもわかりやすいです。
つまりSML全てを含んだサイズが「ユニバーサルである」ということですね。
そんなもの存在しない───結局、ユニバーサルというのは言葉の上だけで存在しているものということですか?
高橋
服でいうと、身長100㎝くらいの人から200㎝くらいの人まで誰でも着ることができる極太ワンピースのようなものですね。
実際、ユニバーサル書体というのはそういうものです。
嶋津
オリンピックのロゴもユニバーサルデザインなのでしょうか?
美人選挙というか、世の中全般のことを考え過ぎて個人に刺さりにくいデザインになりがちですね。
高橋
「ユニバーサル」というと、とても大きくなるのですが、基本的にデザイナーはそこを求められる職業ですよね。
さすがにユーザーが2、3人というものではダメで。
ある程度ターゲットを広げる必要はある。
嶋津
ある程度ユニバーサルを否定しながらも、その側面は取り入れていかねばならない。
高橋
そうですね。
「ユニバーサル」と繋がっているのが「人間の認知」です。
僕がよく感じるのは、デザインを見た時の僕たちの反応です。
世の中にはいろいろなデザインがあります。
例えば、どこかの片田舎の中小企業と組んでつくったデザインを見た時に、「これは町工場のデザインだ」ということがわかる。
同時に、世界的に評価を受けているデザインを見た時にも「これは世界でトップランクに入っているデザインだ」ということがわかる。
そのデザインの中に「これは町工場のデザインです」あるいは「これは世界のトップランクのデザインです」と書かれているわけでもない。
つまり、僕たちはそれを無意識的に認知しているわけです。
しかも、見た瞬間───0.1秒以内に判断できることなんです。
嶋津
確かに、町工場のデザインと世界トップレベルのデザインを見せられた時、僕たちはたいてい同じような感想を抱きます。
そこに何も書かれていないのに。
高橋さんの中で、「それはなぜなのか?」ということはすでに言語化できているのでしょうか?
高橋
それも突き詰めていけば、先ほど話したデュシャンの『泉』と同じなんです。
つくり手は100%そのことを考えてつくっている。
僕たちが「これは町工場のデザインだ」と感じれば、つくり手は必ず「町工場のデザインだ」ということを考えている。
陳腐ではないユニバーサルとは?
高橋
僕は「物事を限定的に捉えない方がいい」と思っているんですね。
前回、せっかく嶋津さんがAIの話を振ってくださったのですが、僕は空海の話をしてしまいました。
あの本意は、「そもそもAIがやっていることと空海がやっていることは同じだ」ということを言いたかった。
以前、スペインにエル・ブリという世界一予約が取れないレストランがありました(2011年閉店)。
そこでは、半年間営業すると、あとのもう半年はお店を休むんです。
様々な文化的要素と料理を組み合わせる「ガストロノミー」と呼ばれる今までに誰も見たことがないような料理を出すクリエイティブなレストランです。
僕は行ったことがないのですが、その店のドキュメンタリー作品を見た時に驚きました。
同じとは言いませんが、僕がデザインの領域でやっている方法と近い───それを5倍にも10倍にも洗練させてメニューを開発していました。
嶋津
具体的にはどのような手法なのですか?
高橋
おもしろいことに、人って一回目で答えを出そうとするんですね。
例えば、絵を描くことにしても一、二回描いてみてうまくできなかったら「自分は絵の才能がない」と思ってしまう。
僕もそうなのですが、人間って行き急いでいるといいますか、早く答えを出したがる生き物なんですね。
いつでも、答えとセットでほしい。
例えば、嶋津さんが文章を書く時は文章がよく書けているかどうか把握しながら書きたいと感じることはありませんか?
それができるのであれば、とても才能があるのだと思うのですが、ほとんどの人にはそれができない。
つまり、今自分がやっていることが良いのか悪いのか分かっていない。
エル・ブリの場合はそれが「どのような料理を出すか」という点に集約されるわけです。
世界中の人が驚くようなクリエイティブな料理を半年後に出さなければならない。
彼らが料理開発をしている光景を見た時に圧倒されました。
エル・ブリでは冬に店を閉め、翌年の夏に再び店を開けます。
冬になると新たなメニューの開発がはじまるわけです。
そこで印象的なシーンがありました。
オーナーシェフにはたくさんの弟子がいて、「これはどうでしょうか?」と思いついた料理を持ってきます。
シェフは一口食べると「君は何がしたいの?」と言った。
「今は味なんてどうでもいい。うまい、まずいを判断する段階ではない」と。
誰もが「料理って、おいしいかどうかじゃないの?」と思うわけですよ。
しかし彼らは「今はおいしいかどうかではなく、来年出す料理のコンセプトを考える段階だ」と。
それが2月頃の話です。
みんなで集まって毎日コンセプトを考えてアイディアを煮詰めていくんですよ。
普通ならばメニューを考えたくなりますよね。
60~70もつくらなければいけないわけですから、メニューをつくり出すのは早ければ早い方が楽です。
でも彼らは6月までコンセプトをつくっているんです。
そしてオープンの一週間前になってようやくメニューをつくりはじめるのです。
嶋津
すごい。
膨大なアイディアを出して、それが発酵するのを待つわけですか。
高橋
そのメソッドが天才的だと思いました。
嶋津
高橋さんもデザインの領域では同じようなアプローチを取っているのですか?
高橋
近いものはありますが、ただ僕は答えを先に求めてしまう。
二月くらいにコンセプトができ上っていないと怖い。
彼らはそこを耐えて、アイディアが発酵するのを限界まで待つ。
具体的には何をやっているのかというと、半年間かけてボツ案を全て集めているんですね。
だから天才なんです。
嶋津
たとえボツ案でも、可視化させるということが大切なのでしょう。
そこにヒントが隠されているような気がします。
高橋
エル・ブリの人たちはボツ案を集めて、それら全てを写真に収め、メモを書いた紙と一緒に部屋の壁に貼り出すんです。
その数は何百枚、何千枚にも及びます。
半年間かけてアイディアを出し切って、それを眺めながらインスピレーションが降りてくるのを待つ。
───そして、それは実際に降りてくる。
だから「一回目でうまい絵を描きたい」というのは怠惰なんです。
嶋津
おもしろいですね。
陳腐な言葉ですが「近道はない」のですね。
高橋
近道はないですねw
どの業界の人でもトップの人はみんなそうやっています。
嶋津
ボツ案を集めるということは、言ってみれば搾り滓を集めているようなものですよね。
枯葉を集めて腐葉土をつくるようなものなのでしょうか?
高橋
ボツ案とボツ案の間から何かが生まれてくる。
それを見落とさないことが大切です。
それらの隙間から良いアイディアがこぼれ落ちる瞬間があるのですが、それを気付く時と気付かない時があります。
ここでおもしろいのが、世界のトップの人たちが毎日同じ行動様式を持っているのはそこだと気付いたんです。
例えば、メジャーリーガーのイチローさんは毎日カレーを食べていたというのは有名な話ですよね。
あるいは、すきやばし次郎の大将である小野二郎さんは、起床する時間も決まっていれば、電車の改札をくぐる場所も決まっているし、乗る電車の座席の位置も決まっていると言います。
その理由は「それをしなければ細かいところが判断できない」ということなんです。
日々のルーティンがボツ案とボツ案の間にある新しいアイディアに気付かせてくれるという理論です。
嶋津
微差を感じることができる。
ずっと同じことをしているからこそ、ほんのちょっとした揺らぎに気付くことができる。
高橋
人間って自分の価値観や考え方によって判断を下しますよね。
それは間違いを孕んでいる可能性があって。
シュタイナーが建てたゲーテアヌムという建築があるのですが、そこのステンドグラスに彫刻された絵があります。
野原のような場所を人が歩いているのですが、その人の胸に12人分の顔がある。
それは「自分の価値観から離れて、12個のポジションで考えなさい」という意味が込められています。
僕はそれをデザインの領域に転用した。
具体的には、12のメディア。
マニアックなメディアもあれば、ミーハーなメディアもある。
様々な性格や傾向をもつメディアを12個選出して、全てのメディアで自分のデザインが取り上げられることができれば、簡単な話、全てで通用することになります。
メディア自体が人格になっているということです。
嶋津
それは仮想のメディアではなく、実際に現存するメディアをイメージしてお考えになっているのですか?
高橋
100%実際のメディアですね。
嶋津
なるほど。
だから、より洗練されるし、ある意味普遍性を含んだ───良い意味でのユニバーサルを感じるということですね。
高橋
自分の枠内では結局限られているんですね。
そもそも僕がつくった枠なんてただだか30年余り。
保持できる情報量なんて本当にちっぽけなものです。
メディアというポテンシャルを借りてきて───それはメディアという名の世界情勢でも良いのですが───自分が引っ張ってきた人格をインストールして、自分のOSの中に取り込む。
嶋津
12人の別人格の批評家が高橋さんの中に存在しているのですね。
高橋
そうですね。
『Art de Vivre4~枯山水~』へと続きます。
《高橋祐太/Yuta Takahashi》
日本を拠点に活動するアートディレクター兼デザイナー。ブランディング、プロダクトデザイン、グラフィックデザイン、パッケージデザイン、エディトリアルデザイン、ウェブデザインなど、幅広いデザインを手掛ける。シンプルで物事の本質を突いた洗練されたデザインは、世界的に高く評価されている。国際的なデザイン賞を多数受賞。