矢野康弘さんは、中枢性羞明(ちゅうすうせいしゅうめい)という難病を患った。
人工的な光───テレビ、スマホ、PC、LEDランプ、車のヘッドライトなどが目に入ると体調不良を起こす病。
まだ、その治療法は見つかっていない。
矢野さんはこれまで、お笑い芸人の登竜門として有名だった劇場『シアターD』を20年間営み(2016年閉館)、若手芸人のサポートをしてきた。
2003年から、自らも『桑田研究会バンド』という名でサザンオールスターズのトリビュートバンドを組み、ミュージシャンとして表舞台で活動してきた。
陰からも、表からもエンターテイメントを支えてきた矢野さん
彼の身に起きた出来事。
矢野さんの言葉を聞いた時、僕は「このことを記事にする義務がある」と感じた。
一人でも多くの人に届いてほしい。
矢野
朝、目が覚めると光に殴られたような感覚がありました。
光が眩しい…〝眩しい〟というのは少し違うのですが、〝眩しい〟としか表現できない。
妻に「何かがおかしい」と。
街の病院で診てもらいましたが、原因は分かりませんでした。
症状が出たのは2017年11月末。
矢野さんの奥さんが手当たり次第病院を探した。
そして、2018年の1月22日。
大雪の日でした。
妻が調べてくれた大きな病院。
難病に詳しい眼科の先生とお茶の水で会いました。
中枢性羞明(ちゅうすうせいしゅうめい)
そこで、僕はこの病気の存在を知りました。
半年前からドライアイの症状が続いて、コンタクトを装着できないほど目が乾いて。
何件か眼科で診てもらったのですが「ドライアイではない」と。
先生曰く、「それが初期症状だ」と。
この難病は眼球そのものには異常が見られず、脳や神経に原因があると言われています。
明確な原因も治療法も分からないままで、この病とうまく付き合っていくしかない。
そして最後に、先生は僕にこう言いました。
「正直な話、治った人も見たことがない」
その日から、僕と妻の闘いがはじまりました。
僕の目の状態ではパソコンは見えないので、妻に「とにかく治せる人を探してほしい」とお願いしました。
Facebookでも自分の病を公表し、「もうステージには立てない」ということを伝えました。
要は西洋医学に見捨てられたわけですから、別の方法を探すしかない。
鍼、整体、催眠療法、脳脊髄液調整法、気功、バイオフィードバック療法、CBDオイル、点滴療法、瘀血(おけつ)除去…
全て試しました。
でも、症状は一向に改善しない。
ここまでくると、あとはだんだんスピリチュアルに頼るしかなくなってくるんですね。
不思議な力を持つと言われる人に会いに行ったり、お寺で護摩の儀式を受けたり、最終的には先祖供養まで。
結局、治らない。
そうしている間に貯金は減っていく。
治療は保険が利かないので全て自費。
高級車が買えるくらいまでつぎ込んでいた。
人間、何もしなくてもお金だけは減っていく。
食事をしたり、家賃や光熱費を支払ったりするだけであっという間にお金はなくなりました。
かと言って、働く方法も場所もない。
「たら、れば」の話になってしまうのですが。
僕は2016年まで『シアターD』という劇場を営んでいました。
100人ほどのキャパしかない小さな劇場ですが、僕はあの場所を大切にしていました。
そこでは、まだ売れる前の若手の芸人さんがイベントに出演していました。
バナナマン、ラーメンズ、バカリズム、おぎやはぎ、スピードワゴン…
今ではテレビや劇場で見ない日はない彼らも、当時はシアターDの舞台に立っていた。
雑誌では「お笑いの登竜門」という紹介していただいたこともあります。
それは僕の力ではなく、出演していた芸人さんが自分たちの力で売れて行ってくれたおかげなのですが。
芸人たちに愛されていたその劇場も、止む無く閉館する。
閉館した理由は近隣トラブルで。
音のクレームに関するもので、劇場なので回避できない問題でした。
1~2年ほど対応を続けていたのですが心が疲れてしまった。
ちょうどサザンのトリビュートバンドである『桑田研究会バンド』がフジロックへ2度目の出演を果たした頃なので、「こちらでいけるかもしれない」という気持ちもありました。
地味ではありますが不自由ない生活を送ることはできていました。
例えば、おかしな話ですが、シアターDが今もあれば僕と妻はここまで困っていません。
20年劇場運営してきたメソッドがあり、社員が仕組みを理解していて、僕がいなくても回していくことができました。
僕に求められるのは大事な決断だけで。
ただ、バンド活動という僕は「自分の身体が資本である仕事」を選んでしまった。
出会いのバトン
矢野
病気になって、落ち込んでばかりでした。
預かり受けた保護犬に心を救われたこともあります。
自分を鼓舞するために、老人ホームをボランティアでまわって歌謡曲を歌うことも。
とにかく落ち込んでいる心をどうにかしなきゃいけなかった。
その中で大きな出会いがありました。
れもんらいふの千原徹也さんが『勝手にサザンDAY』(サザンファンによるサザンオールスターズ結成40周年トリビュートイベント)を開催するということで、参加させてもらいました。
ちょうど僕の中でも「前向きに活動をしなきゃいけない」という気持ちが芽生えていた時期です。
「もしかしたら桑田さんが見てくれるかもしれないよ!」
「サザンDAYまでは、サザンDAYまでは」
周りの人も僕のことをそうやって励ましてくれました。
病気になってからは人工的な光に耐性がないので、テレビも映画も見ることができなかった。
それまでの刺激のない生活が嘘のようで、生きがいを噛みしめながら本番までの日々を送っていました。
僕たちは前座で、太陽がある時間帯でした。
太陽光は僕の目にとって問題ない。
照明さんにサイドと足元のライトは消してもらって。
後ろはライトが光っていましたが、振り向かないようにして。
まさかこの病気になって、数千人もの観客の前で演奏できるとは思っていなかったのですごく嬉しかった。
最高の時間でした。
でも、『勝手にサザンDAY』が終わると、だんだん現実が戻ってくる。
「夢のような時間は終わった」
治らない。
これからの人生を考えなければならない。
行き場のない、おそれ
矢野
健常者の人と話しているとよく言ってくる言葉があって。
「でもね、受け入れるっていうことも必要だよ」
「こうなったことにはきっと意味があるんだよ」
悪気はないし、それしか言いようがないというのは分かります。
でもね、やっぱり納得できない。
こうなったことの意味を自分から意味を見出すことができればいいけれど、僕にはできなかった。
僕にとっては、不条理でしかない。
「もしかして、これは自分が特別あきらめが悪いだけで、他の人は受け入れているのだろうか?」
そう思っていた時、一人の女性に出会いました。
彼女は、高校生の時に原因不明の病気で倒れて後遺症として足が動かなくなり、車イスで生活をしています。
彼女と話した時に、はじめて本当の意味で救われた気がしました。
「受け入れることなんて絶対にない」
彼女はこう言いました。
そして続けました。
「十数年経った今もやっぱり納得がいかない。
青春を失い、人と違う人生になってしまったことを私は今でも受け入れることができない。
もう悔しくて、悔しくて、受け入れる日は一生来ない」
「やっぱりそうだよな」って思えたんです。
それまでは時間が解決してくれるのかと思っていました。
僕は病を患ってまだ2年ほどですが、十数年経った彼女にさえ、受け入れることができないんだ。
みんな「受け入れろ、受け入れろ」って言うけど、やっぱり無理だよって。
彼女のリアルな想いに、強く共感できた。
今までは「治す」ということしか考えていませんでした。
お金をいくら使っても、たとえ破産したとしても「病を治す」ということを言ってきたけれど。
これからはシフトチェンジしなきゃいけないのかもしれない。
「もうオリジナルしかない」
今まではコピーバンドとしてサザンの曲しか歌ってきませんでした。
誰かの言葉やメロディではなく。
自分が思い、自分が考え、自分の場所からしか見えない世界を、人に伝えていくしかない。
劇場として支える側、バンドのボーカルとしてステージに立つ側。
僕はこれまでエンターテインメントしかやってこなかった。
「エンターテイメントをあきらめる」という選択が間違っていたんじゃないかと思ったんです。
「これからは、自分に嘘はつかずに、エンターテイメントで生きていこう」
気が狂ったようにオリジナル曲を書きました。
一日中、作詞作曲をしている状態が何日も続いた。
今まで、そんなことをしたことはないけれど、やるしかない。
今、自分ができることはそれしかない。
年末からの3ヵ月で10曲つくりました。
〈作文45〉
つくったところでどうにもならないかもしれない。
でも、それでもいい。
「音楽が売れる」ということを期待しているのではなく、「自分の一つの表現としてやっていこう」と。
課題となる社会の仕組み
〈ヘルプマークを身につけている矢野さん〉
ヘルプマーク…障害のある方などが災害時や日常生活の中で困ったときに、周囲に自己の障害への理解や支援を求めるためのもの
矢野
僕は子ども頃から目が悪くて、メガネやコンタクトで視力矯正をしていました。
「矯正する」ということは、目の中に光を取り入れるということなので、今はもう僕にはできないんですね。
サングラスを二重にかけていて、視野も狭いのでちょっとした段差にもつまずく。
実は、この病気によって障害者手帳が発行されたのではないのです。
これはおかしな表現かもしれませんが。
僕はもともと〝弱視だったおかげで〟障害者だと国に認めてもらえたけれど、僕と同じ病を抱えているほとんどの方が「障害がある」ということさえ認めてもらえていません。
つまり、ハンデがあるにもかかわらず公的な支援を受けることができないという問題が実際にあるんです。
矢野さんにしか届けることができない人がいる。
失ったからこそ、矢野さんの言葉にも、歌にも特別な響きが宿る。
矢野
この病気自体は日本に数百人ほどしかいません。
でも、原因不明の難病の方はたくさんいる。
その方々から「私も難病を患っていて」というメッセージが届きます。
がんばって活動していれば、そういう方にも届くのかなって。
自分の活動が人にわずかでも勇気を与えることにつながることができれば───何より自分が自立できることができればと思っています。
インタビュー終わりに、何気なく矢野さんの口からこぼれた話が印象的だった。
矢野
僕ね、本当にエンターテイメントがずっと好きで。
照明のあるコンサートは見ることができない。
だから「屋外ライブってないかな?」って奥さんが調べてくれたら学園祭があった。
大学の学祭ってそれほど予算が潤沢にあるわけではない。
照明もなくて、中庭にステージを設置して自然光の下で演奏している。
「これだったら見れる」
プロフェッショナルかどうかよりも、「生演奏に触れることができた」という喜びが強かった。
それが嬉しくて、嬉しくて、都内の学祭をはしごしたこともありました。
その時、「うわぁ楽しい、やっぱりエンタメが好きだ」と改めて思った。
嘘偽りなく、そうなんだ。
矢野さんはアーティストとして生きていく。
そしてこのバトンは001へと続く。