top of page

Art de Vivre 2~これからの日本を盛り上げるために③~


Art de Vivre。

〝生活の芸術〟〝暮らしの技法〟と訳される当店の看板。

今回はとあるカフェにて開かれ、哲学者とデザイナーが集まり、鼎談(対談)がはじまりました。

テーマは「これからの日本を盛り上げるために」

トークは3ブロックに分かれて紡がれます。

最終ブロックは、哲学者であり〝概念デザイナー〟という肩書を持つ竹下哲生さんと、前回に引き続きデザイナー高橋祐太さんをゲストにお迎えし、作家であり、この『教養のエチュード』の編集長でもある嶋津亮太が聴き手を務めます。

「体験し、共感し、創造する人間力を養うには…」というテーマで語ります。

デザイナーの高橋さんはヴィジュアルとしてのデザインを。

竹下さんはヴィジュアルではなく───言葉によって概念をデザインされます。

話のとっかかりは〝言葉の行き違いが起こる理由〟について。

それでは、対談の様子をお楽しみくださいませ。

その前に、少し…

 

竹下哲生=東山魁夷論

東京滞在中に新国立美術館で東山魁夷の展覧会に行ってきました。

その美しい作品の数々を見た時に、僕は竹下哲生さんのことを思い出しました。

東山魁夷は昭和を代表する日本画家です。

魁夷の作品は風景画が多いのですが、一見写実的なようで、よくよく見ると全くそうではありません。

麦畑や、湖畔、山間に霧が溶け込む風景。

「あ、この景色見たことある」と思っても、じっと目を凝らしてみると「これほど美しい世界は現実にはない」ということに気付かされます。

その理由の一つとして挙げられることは、風景からノイズを排除していることです。

ノイズというのは〝美しくないもの〟───つまり、汚れや無駄のことを指します。

魁夷はそれらのノイズを除去して、風景を数段階に分けて単純化させ、紙に写し出しています。

これが、どこかのラインを超えるとデザインのようになります。

いわゆるマーク・ロスコの抽象画から細部のフォルムを浮き立たせた、みたいな感じで。

〈マーク・ロスコの作品〉 

フォルムは抽象的ですが、〝デザインよりも絵画に近い〟という不思議なものとなります。

それが魁夷の作品の美しさを際立てているのですが(もちろんその外にも色んな要素がありますが)、僕はそこにある種の〝怖さ〟を感じます。

つまり、あまりに美しい作品というのは感動と同時に〝恐怖〟も与える。

〈青響〉

竹下さんの言葉は、まさに魁夷の絵のようです。

ノイズを除去して、風景を単純化させていき、最も美しいラインで〝デザインと絵画の合いの子〟に仕立てたように、竹下さんの言葉には独特の幻想的な色調を帯びています。

とても美しいけど、そこにはある種の〝怖さ〟がある。

『緑響く』という作品は誰もが一度は見たことがあるのではないでしょうか?

魁夷の愛した信濃の蓼科高原にひっそりとある御射鹿池の風景画です。

僕はこの個展を見に行ってはじめて知ったのですが、実際のこの場所には白い馬はいなかったようです。

───つまり、魁夷は存在しない白馬を描いた。

〈緑響く〉

そして魁夷は『白い馬の見える風景』と題し連作を制作します。

どの美しい風景にも白い馬がいる───実際には見えない馬なのですが。

しかし、僕はこう思いました。

「魁夷には〝白い馬〟が見えている」と。

それが実際の風景に見えたのか、心象風景に見えたのかは分かりません。

重要なのは、「魁夷には白馬が見えて、それを描くことで可視化した」ということです。

それは竹下さんの言葉の中にも見ることができます。

つまり、僕たちには見えていなかったものが、竹下さんの言葉を通して見える瞬間がある。

竹下さんにしか見えていなかったものを、〝言葉〟によって可視化させたのです。

問題を作るのではなく、指摘する───目に見えない昼間の星でも、確実にそこに存在しているように───竹下さんは「そこに星がある」と指摘します。

昼間に星の話をする竹下さんは、僕たちを夜の世界へと引きずり込みます。

「ほら、やっぱり星はあったよね」

また、魁夷は東京美術学校卒業後にドイツでの留学経験があります。

※竹下さんも00~04年まで渡独しています。

魁夷が京洛の美を描いた翌年、第二の故郷であるドイツとオーストリアへ旅立ち、そこで風景画を描きます。

その、なんともまろやかな画風に驚かされます。

日本の風景画に感じた、美しさに起因する、ある種の〝毒〟───それが良い意味で直線的な街並みをマイルドに映し出すのです。

僕は、この魁夷のドイツ画を見た時に、腑に落ちるものがありました。

〈窓〉

「竹下さんもおそらく同じなのだ」

日本人にとってノイズを排除した美しいその言葉は、ある種〝毒〟のように響きますが、ドイツ人から見る竹下さんには、あのぬくもり豊かなまろみが味わいとなって表れているのだろう、と想像します。

それはどちらも〝竹下哲生〟であり、日本人の要素とドイツ人の要素が渾然一体となって、僕たちの中にない発想を指し示してくれます。

魁夷が〝白い馬〟という形で僕たちに可視化させてくれたように、竹下さんは言葉でそこに確かにあるけれど皆が気付いていないものを可視化させてくれます。

それをできる人間が、果たして世の中にどれくらいいるでしょう?

つまり、〝ないもの〟を作るのではなく、〝見えていないもの〟を「ここにある」と教えてくれる───それこそ概念デザイナーの本質ではないでしょうか?

そこに価値を見出すことができる人間が増えれば、この国民の心はより豊かになっていくことでしょう。

 

体験し、共感し、創造する人間力を養うには…

〈嶋津亮太〉

嶋津

このテーマを20分で語りきるのは土台無理な話ですがw

ブロック2では高橋さんは、「クリエイティビティは言語化することで教育(再現)可能だ」と仰いました。

最終ブロックではさらに言葉に親和性が高い、と言いますか、言葉そのものを生業にされていらっしゃる竹下さんもゲストに加わりましたので、より核心的な部分に迫ることが期待されます。

言葉についてなのですが、「同じ言葉で話しているのに意思疎通できない───つまり、相手と同じ言葉を使っているにもかかわらず意図が伝わらないということがよくよくある」と竹下さんは仰っていました。

僕たちは誰もが言葉を使っていて、誰もが理解できる言葉を使っても、相手に伝わらないことがよくあります。

竹下

一週間くらい前にテレビを見ていて、とても興味深い話がありました。

それは朝の情報番組の中で〝子育ての悩み〟について送られてきたメールを紹介して、それに対してコメンテーターの芸能人や文化人が意見を言う、というお馴染みの光景です。

僕の目に留まったのは「高校一年生の息子が、ネットで検索をしている」という母親からの相談メールでした。

その検索ワードが〝仕事 人に会わない〟というもので。

要するに「できるだけ人と会わない仕事───例えば、データ入力であったり───に就きたい」ということなんですね。

そして母親である彼女はこう続けます。

「人間というのは〝人間関係〟の中で揉まれることによって成長する。だから、高校生の地点で人間関係を避けていてはダメだ」と。

仕事をしていると色んなところでほぼ同じ内容の話を耳にします。

一見何の変哲もない内容だと思われますが、よくよく観察してみると、この問題は〝質問内容を解決するための言葉〟ではないということに気付きます。

つまり、質問者(この場合、母親)は子どものためを想ってメールを送ったのではなく、「私は、人間は〝人間関係〟で揉まれることによって成長すると理解しています。これで合っていますか?」という確認をしているのです。

そこが問題点です。

つまり、あたかも子育て相談のような顔をしているが、実質は〝自分の承認欲求を満たしたい〟というものなんです。

それが、僕の言っている「話が通じない」ということです。

もちろん、詳しく聞く必要があります。

僕であれば、「人間関係に行き詰まったから、人と関わらない仕事を探している」というのは───ここではあえて、分かり易い表現を用いますが───自閉症的な傾向があるのではないか、と考えます。

まずは担任の教師や周りの友人に確認します。

いわゆる「人間関係がスムーズにいく子なのか。内向的でほとんど一言も話さない子なのか」。

これは決して軽視してはいけない問題で、人間関係のストレスでこのような症状が起こる場合は実際にあります。

良い対処法が見つかれば、それをもって子どもにアプローチしていく。

教育的な方面から考えるとそちらが自然です。

ただ、先ほど例に挙げたようなメールを送る母親は得てして、〝自分の考えが正しい〟ということを確認したいだけなんです。

嶋津

問題を見ているベクトルがずれている。

竹下

ずれているどころか、真逆の方向だとも言えます。

ほとんどの人は「自分はこう思います。合っていますよね?」ということを承認してもらうために人と話しています。

嶋津

共感してほしい。

竹下

そうです。

ところが、枠組みだけを見ると、〝子どもの心配をしている〟ように見える。

僕は話を聞いて「この人は子どもの心配をしているんだ」と思って、子どもについての話をします。

しかし母親の本当の欲求はそこではない。

彼女は〝自分の話を聞いて欲しい〟のです。

ここに行き違いが生まれる。

嶋津

恋愛のようですね。

引き留めて欲しいから「別れたい」と言うようなw

表層的な言葉と、真意は違う。

また、母親はそのこと自体に気付いていない可能性もありそうです。

竹下

実際にそういう子っているんです。

現実問題として、人間関係やストレスで〝ほとんど誰とも会わない〟という極度の自閉症の傾向を持っている子もいます。

それは、「そういう人だ」ということを認めてあげる必要があるんですね。

それがちょうど高橋さんがデザインをしていることと、とても共感する感覚があるんです。

嶋津

前回のブロックでは、高橋さんは「デザインを作ることは〝会話〟だ」とお話になっていました。

相手だけに関わらず、時代性や歴史的なコンテクストのコミュニケーションの中で作品はつくられていく───そこに竹下さんは共鳴する、と。

竹下

はい。

コップをデザインする人の多くは、実はコップのことを考えていないんです。

───つまり、自分のことしか考えていない。

「私はコップをこうだと思います」

「私はコップをこうしたい」

「私であれば、このようなコップがあればいいと思います」

いくら提案したところで、それはコップの話ではなく、〝自分の話〟なんです。

本当の意味で「コップって何だろう?」と考えはじめた時に、ようやくそこで〝自分の話〟が消える。

それがある意味、〝デザイン的なものの向き合い方〟だと僕は思っています。

嶋津

非常におもしろいです。

先ほどから静かに頷き、白ワインを飲んでいらっしゃる高橋さん、いかがでしょう?

高橋

動画上で世界中の母親を敵に回す発言を…

竹下

本当ですか!?

そんなつもりないですよ。

一同www

高橋

冗談です。

逆にいうと、〝なぜそんなに承認欲求があるのか〟という話で。

〝ない〟んですよ、自分の中に。

嶋津

高橋さんの中には?

高橋・竹下

違う。

嶋津

キレイにハモリましたね。

失礼いたしましたww

高橋

母親の中に。

〝ない〟から確かめたい。

竹下

自分で自分を承認していれば、そんなメールを出して人に確認してもらう必要はない。

自分の中で自分を認めてさえいれば、〝相手が見えるはず〟なんですよ。

嶋津

これ、いい話ですね。

撮影に入る前から「1ブロック目のテーマからずっと繋がっている」とお二人はお話になってましたが、まさにその通りで。

今、竹下さんと高橋さんが仰ったこと自体が〝日本の問題点〟でもある。

竹下

そういうことです。

それが全て悪いというわけではなく、誰しも「承認欲求がある」というのは当たり前のことですし、それを適度に満たしてほしいというのはごく普通のことです。

ただ、それをいかにコントロールするか───つまりデザインするか、ということですが、「そこをもう少し意識的にできませんか?」という話です。

それは僕がここ十数年、日本で活動していて絶えず思い続けていることなんです。

つまり、先ほどの例のように、「子どもの悩み相談のような顔をして実は自分の承認欲求を満たしたい」ということが多過ぎて。

僕はどちらかというと、ストレートに考えるタイプなので、それが分からない。

つまり、投げかけられた言葉をそのままの意味として考えた方が生理的に心地良い。

先ほどの母親のような方にお会いして、相談を受けた場合、僕は子どものことを一生懸命考えるんです。

子どもが今よりもより良くなるためには…という。

それについてのアドバイスをした時に、相手(母親)の反応がおかしいことに気付く。

そこで「そうか、この人は自分に自信がないから、自分のことをまだ認めることができていない。そのような問題を抱えているから、子どもに対して向き合うことができないんだ」ということがわかるんです。

そして、そちら側の話───母親が自分自身に向き合えていないテーマに途中で変えるんです。

そうすると、それはもはや教育の話ではないんですね。

嶋津

かなり複雑な構造ですが、誰しもが身に覚えのある感覚ですよね。

複雑なようで、自然といいますか、生活の中にそのような問題が多く溶け込んでいて。

例えば、Instagramでもパフェに焦点を当てているようで、その脇にあるハイブランドの小物が写り込んでいて、発信側の意図としては実はそちらを見て欲しい、という。

この話、以前竹下さんが「日本人は曖昧な表現の方が深く伝わる」と仰っていたこととリンクしていますよね?

僕はそれを日本文化の特質と認識して、とても腑に落ちた記憶があります。

西洋人(特にドイツ人)は形式的な文法で話し、それを言葉通りに受け取り、思考するが、それだと日本人にはなぜか伝わらない。

それよりもあえて曖昧な表現にした方が伝わる深度が高い、と。

つまり、〝不明瞭であることが、質感を伴った時により伝わる〟

内側に〝自分〟を見つけるために。

〈左:竹下哲生、右:高橋祐太〉

高橋

具体的な方法としては、「生活を区切り、自分が意識した時間だけはチャレンジする」ということになります。

世界中70億の人間全員が否定したとしても、自分は「これなんだ」という───「これこそが正しい領域なのだ」というものを見つけることができるか。

1日の間で5分でも10分でもいいので、それを見つけるためのトレーニングをしてみるのが僕はおもしろいと思います。

嶋津

いきなり大きなことをしなくても、自分にできる範囲からはじめていけば良い、と。

高橋

デザインの仕事をする上で、様々なクライアントと出会います。

例えば、こちらが事前に煮詰めたデザインを提案して、相手がそれをこき下ろしたとしましょう。

「最悪だ、全然ダメ」と。

だとしても、そこには何一つストレスはないんです。

なぜならば、自信があるから。

ただ〝自信〟という言葉で片付けてしまうと分かりにくくなるのであまり使いたくはないのですが。

こちらは掘り下げて考えているし、またクライアントが「ダメだ」ということが〝なぜダメなのか〟ということを把握しているので動じない。

むしろ共感して、「そうですよね、ダメですよね」と言える。

嶋津

なるほど。

〝自信〟が客観視することの助力となる。

また、論点はずれるかもしれませんが、そのような評価を受ける立場に置かれた場合、相手の指摘したことを間違って受け取ることも多いですよね。

相手は作品を否定しているのであって、個人の人間性を否定しているわけではない。

これが一緒くたになって自分自身として受け取り、全否定されているように感じる人は多いです。

今、お二人の考えに驚いています。

お互いがおもねったり、迎合したりしているわけでもないのに、核となる瞬間瞬間で共鳴し合っている。

以前、竹下さんを取材させてもらった時に、高橋さんと同じ内容の話をされていたことを思い出しました。

竹下

もし本当に自分自身の中で明確な「自分はこうだと思う」という意識があれば、逆にいくらでもそれを人前で消すことができるはずなんですね。

つまり、ガンガン人に言われたとしても「それでも負けず私は主張する」というのではなく、「それをしようがしまいが自分は1mmも動かないから、いかにして自分と違う意見を受け止めていけるか」というのが本当の意味で〝強い自我〟だと思うんですね。

その〝自信〟のようなものを作るにはどうすれば?

高橋

それがまさしく1つ目のブロックに帰ってきます。

ヨーロッパ人は、徹底的に頭で思考することによって哲学が発達した。

アメリカ人はそれを意志の力で行った───まずは行為が先にあり、そこから発見することで培ってきた。

では、日本人はどうなのでしょうか?という。

それらはまさに数百年、数千年という単位で積み重ねてきたことなんですね。

そして、〝今〟の立ち位置から、〝次〟はどうしていくべきなのか?という。

竹下

まさに仰る通りで、僕も大体同じような感覚を持っています。

結局、何が重要なのかというと、平たい言葉でいえば〝正直になる〟ということなんです。

つまり、自分の行為に対して「何か違う」と感じた時に、その「何か違う」と感じた自分を大切にしましょう、という。

これが過酷なんです。

例えば、音楽家がピアノを弾いていたり、あるいは画家が絵を描いていたり、僕が講演をしていたり───それは何でも良いのですが、自分の行為に対して「何か違う」という感覚を受け入れることって、とても難しいんです。

自分のことを徹底的に「何か違う」と向き合い続けて、その違和感を探求し続けて、自分自身に問い続ける。

その体験を通して「これだ」と発見したものには、誰一人として指一本触れることができないはずなんです。

嶋津

高橋さんの仰った、〝世界中70億の人間全員が否定したとしても、自分は「これなんだ」〟という。

竹下

そうです。

向き合うことを試みるか、見て見ぬふりをして通り過ぎるか、というところが大きいと思います。

つまり、〝極端に自分を疑ってみる〟という。

自分の正直さを突き詰めるということはかなり覚悟がいることです。

笑いたくない時に笑い、会いたくない人に会い、嬉しくないのに「楽しかったです」と言う。

これらのことを一切やらずに自分に対して正直に生きようとすれば、それはそれで過酷であることは分かりますよね?

それを徹底的にやろうとすると───もちろん僕もそのプロセスの中にいるのだけど───人に対していくらでも寛容になれる。

嶋津

因みに、お二人の中でイニシエーション(通過儀礼)に入っていく決定的なきっかけのようなものはありましたか?

その感覚がデフォルトとしてあらかじめ設定されていた訳ではないと思うのですが。

どこかで、そこへ向かいはじめたフェーズがあったはずです。

竹下

僕が覚えているのは21歳の頃───ドイツの学校で本を読んでいた時でした。

それは今でももちろん僕にとって大切な本なのですが、そこが重要なのではなく、とある一節に出会った時に「あれ?分からないな」と思ったんです。

そしてもう一度最初から読みました。

その時、自分が〝何が分からなかったのか〟ということが分かった。

それを繰り返していくと、半ページ読むのに9時間かかったんです。

その体験以降、いかなる問題であっても〝思考して解決できないものはない〟ということが分かったんです。

強調したい点は、そのページはもちろん重要ではあったが、それ自体はどうでもよくて「あれ?分からないな」と思ったことが重要なんです。

著者がなぜそれを述べているのかが分からない。

では5ページ前はどのような記述があったか、それを見返して「ああ、そういうことか」…

そのようなことを繰り返しているうちに、だんだん「なぜ著者がこのような表現をしなければならなかったのか」ということが分かってくる。

実はその本の著者は僕の先生だったので、家まで行って直接聞けばすぐに分かることなんです。

それは僕の性格的な部分もあるとは思うのですが「読んだら分かる」というのがあった。

その体験を通して気付きました。

「じっくり考えて答えの出ない問題はない」ということが。

いわゆる〝考えること〟に対する確信、信頼を得たというのが大きかった。

それとほぼ同じことをミステリー作家の森博嗣さんという方が仰ってます。

「小説のアイディアが出てこない時はどうしますか?」と尋ねられた彼は端的に「考えます」と答えた。

「二時間考えて答えが出なければ三時間考えます。

三時間考えて出ければ四時間…

でもまぁ八時間以上考えて答えが出なかったことはないですけどね」

そういう感覚があれば「おそらく大丈夫だろう」と思える───つまり、「時間をかければ解決できない問題はないだろう」という感覚があるかないかです。

嶋津

特に今は、時間の流れ方が速い上に情報量が多い。

ですので〝じっくり考える〝ということを疎かにしている傾向があるように思います。

スマートフォンで検索すればすぐに答えは出る。

それは〝思考力〟ではなく〝検索できる〟というだけのことで。

さらにはGoogleで答えが見つからなければすぐに諦めることができる。

なぜなら、情報だけは溢れているので次の話題を見つけることには事欠かないから。

竹下さんが仰るような〝考える体力〟があれば、問題への向き合い方も変わってくるように思います。

高橋さんは因みにいかがでしょう?

高橋

竹下さんのように〝思考して解決できないことはない〟ということを把握さえしていれば、哲学の本など読まなくていいんですよ。

竹下

本当にそう。

全く読む必要はない。

僕は一応読んでいますが、それは専門家や同業者と共通の話で説明できることが便利なだけですから。

嶋津

今日は短い時間でしたが、お二方とも素晴らしい話をありがとうございました。

 

「言葉は情動を乗せない〝隠蔽のコミュニケーション〟である」

これらの鼎談(対談)が終わり、生物心理学者の岡ノ谷一夫氏のこの言葉を思い出しました。

言葉は歌とは違い、情動を乗せない道具として進化しました。

心を伝えないことで、本心を隠すことを可能にし、他人を操作しやすくなり、また利益を最大化させることに成功しました。

言葉を無機質なものに進化させていったことにより人類は大きな利益を手にしましたが、その反動として今、しわ寄せが起きているように思います。

つまり、情動を消した無機質な言葉の裏側に、本当の意味を忍び込ませる───という。

伝達や思考を深めるための言葉が便利になり過ぎて、使う側も、また受け取る側も言葉に頼りきっているのではないか、と。

発信する側は、受け取り手の理解力にまで意識が働かない。

受信する側は、表面的な部分だけで思考することを止めてしまう。

便利であるが故、その言葉を盾に自分の心と向き合わず、〝言葉にしたこと〟によって理解できた気になってしまう。

竹下さんと高橋さんは、その現状から、もう一つ次のフェーズへとアップデートする必要があるということを注意喚起しました。

思考を浅い領域で止めるのではなく、その奥の、奥の、そのまた奥まで考え続けることで分かることがある。

そして、大切なのは〝コミュニケーション〟だと。

高橋さんはクリエイティビティは〝会話〟だと言い、竹下さんは思考することは〝対話〟だと言いました。

つまり、「言葉はそのためのツールに過ぎず、最も大切なことは自分の考えと相手の考えを尊重し、伝えることだ」と。

まだまだ、議論の余地は十分にあります。

充実した2時間弱の鼎談でした。

 

《竹下哲生/Tezuo Takeshita(Shikoku Anthroposophie-Kreis代表)》

1981年に香川県に生まれ、2000年渡独。南ドイツでの酪農実習を経て2002年にキリスト者共同体の自由大学に入学。しかし2004年の体調不良により司祭叙階を断念し帰国。以来、参加者の疑問に答えるという形式の講座(概念デザイン)を日本各地で開催。哲学的・神学的立場から学際的な思考を展開し、得意とする分野は教育・歴史・化学・農業・芸術・西洋近代史・現代文化批評など多岐に亘る。また講演活動の傍ら、翻訳・通訳業も熟す。著書には入間カイとの共著『親の仕事、教師の仕事――教育と社会形成』、訳書にはミヒャエル・デーブスの『三位一体』上下巻やリューダー・ヤッヘンスの『アトピー性皮膚炎の理解』など多数。

《高橋祐太/Yuta Takahashi》

日本を拠点に活動するアートディレクター兼デザイナー。ブランディング、プロダクトデザイン、グラフィックデザイン、パッケージデザイン、エディトリアルデザイン、ウェブデザインなど、幅広いデザインを手掛ける。シンプルで物事の本質を突いた洗練されたデザインは、世界的に高く評価されている。国際的なデザイン賞を多数受賞。

bottom of page