Art de Vivre 2~これからの日本を盛り上げるために①~

December 5, 2018

 

Art de Vivre。

 

〝生活の芸術〟〝暮らしの技法〟と訳される当店の看板。

今回はとあるカフェにて開かれ、哲学者とデザイナーが集まり、鼎談(対談)がはじまりました。

テーマは「これからの日本を盛り上げるために」

 

 

トークは3ブロックに分かれて紡がれます。

1ブロック目はオランダ人哲学博士のイェッセ・ミュルダーさんとデザイナーの高橋祐太さん。

通訳は哲学者であり概念デザイナーの竹下哲生さんです。

 

 

そこには〝静寂なる狂気〟が宿されていました。

こよなく静かで、穏やかな言葉の受け渡し───しかしその言葉には迸る焔が垣間見え、辺りを煌々と照らします。

 

 

それでは、対談の様子をお楽しみくださいませ。

 

未来を生み出す思考法とは。

 

 〈高橋祐太〉

 

高橋

今回の鼎談にあたり、「これからの日本を盛り上げるために」というテーマで話を進めていくのですが。

このパートに関しては僕の中で裏テーマがありまして───挑発的な副題なのですが「日本人に足りないものは何か?」という。

イェッセさんは海外の方ですので客観的に日本を見ることができて。

僕たち日本人には獲得できないような視点や考え方で見定めることができるのではないかと思いました。

 

イェッセ

今回、私が日本に来るのは2回目で、トータルで12日間ほど滞在したことになりますが、未だに日本の外にいる感覚です。

高橋さんが仰ったように〝外からの視点〟で日本を見ています。

 

 

第一に言えることは、「日本は非常に近代的な国である」ということ。

近代的な文化文明を持っていて、あらゆるものが機械化され、テクノロジーによって機能している───それは細部の細部に渡るまで。

ところが、そのような近代的な傾向がある一方で───これは前回来日した時から感じていたことなのですが───日本人の人への接し方がヨーロッパのそれと根本的に違うというのを強く感じます。

それはつまり、19世紀の半ばまで日本が〝鎖国〟という形で外の文化と距離をとっていたとこととおそらく関係しています。

 

 

「日本の未来について何か話すことがあるか?」と聞かれるとするならば、この二点について意識的に向き合うことになります。

 

つまり、一方では近代的な───それは時にヨーロッパ以上に。

そしてもう一方では人間の内面が非常に伝統的な───昔のヨーロッパにあったような優しい人間関係を持っているという。

 

 

***

 

 

イェッセ氏は今回の来日の際、関西国際空港に到着した。

空港から新大阪に向かうために特急電車に乗った。

車内はすし詰め状態───韓国人、中国人、もちろん日本人、他にも様々な肌の色の外国人乗客者によって満員の状態。

イェッセ氏と竹下氏は車両の連結部分で身体を小さくして新大阪駅までの時間を過ごすことになる。

 

そこへ車掌が現れた。

彼は信じられないことに、その満員の車両───人が一人入るか入らないかの状況で───特急券を所持しているかの確認をはじめたのだ。

イェッセ氏はこの光景に驚いたという。

 

 

高橋

日本人はマニュアルに従事する傾向がありますよね。

僕の印象ですが、海外だと仕事というのは〝個人の意思決定〟という部分が非常に大きい。

「任されている範囲内ならば自分主導で動いていい」というのが根本にある。

 

イェッセ

そうですね。

西洋人には〝個人主義〟というものが中心にあるわけですが、〝それを意図的に社会的なものに結び付けていかなければならない〟というテーマがあります。

この西洋的な傾向がある地点で日本へ入ってきた。

そのことにより〝社会的欲求〟と〝個人的欲求〟が渦を巻いている。

日本はそのような状況だと思います。

 

もちろん西洋的な人間の在り方というのは当然昔から日本には存在していて。

つまり、全てのものには神、あるいは霊が宿っていて、それらの見えないものと自分を結びつけるということを当然のようにやってきた。

 

私の理解する限り、〝神道〟というのは「全てのものは居場所を持っている」という感覚が根底にあります。

居場所を持つからこそ、何かしらの役割を与えられ、その与えられた役割を可能な限りうまくこなしていく、ということに生きる価値を見出しているのではないか、と。

 

それに対し、19~20世紀にかけてのヨーロッパ人が何をしてきたのかというと、〝私は個人として何がしたいのか?〟という問い立てを自分自身にしてきました。

 

 

もちろんこれは何度も繰り返し言われていることなのですが、「日本人は非常に真面目で、勤勉で、休むことよりも働くことが好きだ」という。

実際にその傾向によって、多くの様々なことを成し遂げることに成功し、劇的に短い時間で日本は世界を代表する近代国家になってきました。

 

それは日本が元々持っていた〝内側の要素〟の外側に、ある種、近代的な〝枠組み〟を作ったことによります。

枠組みは近代化したのですが、内側───中身は旧いまま残したのです。

 

それが今でも強く残っていて、先ほどの満員電車の車掌さんの中にも見えてくる。

つまり、システムは西洋的なのですが、中身は〝旧来の日本人〟であるという。

 

高橋

まさにそのことを僕は懸念していて。

〝役割〟という落ち着きどころなのですが、それは〝型〟とも言い換えられます。

日本人は外から与えられた〝型〟に対して、意識的に向き合うことをせずに───何か、さらっと入ってしまった、順応して行った気がします。

 

イェッセ

自分自身をあたかもその〝型〟の裏に隠すような傾向がある。

 

高橋

西洋人は自分自身を問い詰めて、どん詰まりまで行った。

先のない場所まで問い詰めて、一度絶望したんです。

その絶望の中から這い上がり、何かを見つけ出そうともがいた。

そのプロセスの中で西洋人の〝型〟は背骨のように、身体の中心を通るような形を作った。

対照的に日本人の〝型〟は外側にあるような気がします。

西洋と日本はそのような対比があるのではないか、と。

 

イェッセ

非常にすばらしい表現だと思います。

 

高橋

そういった日本特有の個性を前提に、「どのように未来に対して新しい価値を作っていくべきなのか?」というところが論点で。

 

経済市場でいえば、今だとAppleやGoogle、Amazonなどのアメリカ文化から発展していった企業が世界の筆頭にいて。

〝思考〟というよりも〝意志〟のようなものが発露しているように感じます───「私はこうしたい」という。

 

日本人は外側に〝型〟という鎧があったので今までやってくることができたのですが、今はその頑丈だった鎧がどんどん溶けてきて、プリンのようになっていると思うんです。

 

イェッセ

確かに柔らかい鎧なのかもしれません。

 

高橋

そのプリン状態の日本人が、今から新しい価値を作っていくことになる。

その鎧(型)の移ろいの過程をイェッセさんは客観的に見てどう思われるのでしょうか?

 

イェッセ

まさに高橋さんの仰る通り、最後の最後に必要になるのは〝背骨〟だと思います。

もちろん様々な表現がありますがヨーロッパ、あるいはアメリカの人には確かに「背骨がある」ということはできます。

そして、その背骨は〝思考〟、または〝意志〟に由来するものだという気がします。 

 

日本人が〝背骨をつくる〟ことに取り組み始めるとするならば、ヨーロッパやアメリカがかつて「経済的な領域に落ち込んでしまったような体験」を回避できれば非常に面白くなるだろうと思います。

 

実際それは、私が冒頭で話した「外から見ると非常に近代化した、内を見るとまだ柔らかい(非常に伝統的な)部分が残っている」ということを指し示しています。

ヨーロッパに実際行ってみれば分かるのですが、先ほど話した内面の〝伝統的な部分〟というのが全くと言っていいほど見当たりません。

「私たちはきっと繋がっている───もともと繋がりがある」という感覚が本当に無いんですね。

 

自分の行動に対して意味を見出そうとするのはある種、簡単で。

それは〝成功〟という結果によって実感を持つという方法です───「この行動には意味があったんだ」と。

その感覚は主に経済的な領域で分かり易く得ることができます。

 

 

つまり、行為に対して意味を見出すためには〝経済〟という領域があまりにも結果が分かり易い構造と言えるのです。

その理由から、ほとんど全てのものが経済的な方向性を持つようになってくる。

 

 

ところが日本においては〝繋がりがある〟という旧い意識がまだ残っています(もちろん日本でも多くの経済的な活動はあるのですが)。

 

〈イェッセ・ミュルダー〉 

 

例えば、気候変動を例にとってみましょう。

私たちはこの何百年間人類として、様々な経済的な活動に従事してきました。

結果、世界を壊すこと(ダメージを与えること)になりました。

 

つまり、世界にダメージを与えたことが気候変動という形で予期せぬ出来事を招いたのです。

極端な経済活動はそのような結果をもたらしています。

 

 

高橋さんが先ほど表現した、日本人の外側にある柔らかい鎧───そのプリン状態に、なんとか内側から背骨を作ることができたとしたら、おそらく日本ではアメリカやヨーロッパで起きたような形で世界を破壊するという方向にはいかないでしょう。

つまり、「私たちは繋がっている」という感覚を失うことなく、段階を踏みながら少しずつ背骨を形成していくことにより、結果的に何か大きな神殿のような美しいものができる。

そんな気がします。

 

 

もう一度整理します。

 

日本には外から与えられた〝型〟のようなものがあった。

しかし、その〝型〟が今、融解しつつある───つまり、溶けてなくなっている(プリン状態)。

それらがバラバラにならないように留めておくためには、内側に背骨を形成する必要がある。

それが可能ならば、「私たちは繋がっている」という昔の感覚を残しながら、個人主義に向かうことができる。

 

高橋

ヨーロッパ人は〝思考〟で───理で突き詰めることにより───背骨を作っていて。

アメリカ人は本能的な〝意志〟の衝動により───それは半無意識的ではあるが───行動を通して背骨を作ろうとしている。

 

 

昔、『ギャートルズ』という日本のアニメがありました。

そこに骨付き肉が(大きな骨の周りに肉がついている)が出てくるのですが。

 

この骨を縦に置いた時、ヨーロッパ人は上(頭)から、アメリカ人は下(手足)から背骨を形成しているように見えて、そして日本人は肉が最も多く付いている領域である真ん中あたりに位置しているのではないかと思って。

 

イェッセ

なるほど。

 

高橋

上下に位置している人───つまり、ヨーロッパ人やアメリカ人からであれば、真ん中の状況を客観視することができますよね。

でも真ん中の領域にいる僕たち日本人は「いかに背骨を形成することができるのか?」という方法論はだけでなく、「背骨がない」ということすら見えていない。

 

僕はそれが今の日本の死活問題である気がします。

 

まさにこれが本題です。

外からの視点を持つイェッセさんにお聞きしたいのは〝僕たち日本人の背骨の作り方〟です。

 

このまま楽観視しつつ、ゆっくりと文化的に形成されていくのを見ていれば良いのか。

あるいはどこかの地点で意識的に作る必要があるのか。

 

イェッセ

なかなか難しい質問ですね。

それは人によって答えは違うでしょう。

ただ、広い意味では〝意識的に背骨を作る〟ということをしなければいけないと私は思います。

必要なことは、自分の周りに起きている現象をしっかりと見て、そこに問題があれば「その問題は何なのか?」ということに向き合い、考える必要があります。

 

 

先ほどの気候変動の問題を例にとって考えてみましょう。

ヨーロッパ人とアメリカ人の作った背骨の作り方というのは、いわゆる個人的な衝動───分かり易く言えば〝わがまま〟に基づいて背骨を形成したと言えます。

 

〝わがまま〟ではあるが、それによって今起きている問題を意識することに成功しました。

「これは私たちの問題なのだ。向き合って考える必要がある」と。

その段階を経て、次なるフェーズに入ることが可能になりました。

 

おそらく私たちの外側にいる皆さん(日本人)の方が私たちのそういった傾向を客観的に見ることができるでしょう。

───私たちが日本を客観視できるように。

 

高橋

僕たちが今話していることは非常に興味深いのですが、全体的に見ればかなり抽象度の高い話ですよね。

先ほどの車掌さんが満員の中チケットを見に来るという具体的なレベルまで話を落とし込む必要があるような気がします。

 

 

例えば、仕事の際に上司から「これをやっておいてくれ」と言われた場合、「はい、分かりました」と取りかかる前に、一旦そこで立ち止まって〝なぜこの仕事が必要なのか〟を考えてみるという工程を加えるだけで変わってくると思います。

 

「本当にこれは必要な仕事なのか?」

「何のための業務なのか?」

 

普段からそのような考える習慣をつけていくと良いのではないかと思います。

 

イェッセ

私にも似た経験があります。

 

修士課程を取得する前に卒論を書く機会がありまして(学位を取るため)。

そのために納得のいく内容の文章を書かねばなりません。

当然、卒論を書くためにはそれに費やす時間を捻出しなければならない。

ところが、そのことによって〝学生〟の期間が延びることになります。

もちろんそこには必要となる学費が発生し、個人的にも、または国家的にも、経済学的な観点からコストがかかるわけです。

 

そうなると、大学側の意向としては学生に対して「もちろん良い論文を書きたいのは分かるが、なんとか3年以内に学び終えて欲しい」という考えが出てくる。

この問題をどのように解決したのかというと、何名かでグループを作り、グループ全体で卒論を短期間で───実際に10週間という短さで───作成させるのです。

 

もはやそれは「経済的な原理で動いているのではないか?」ということになってきますよね。

大学における〝学び〟というプロセスを経済的な法則性に従わせる結果としてこのような状況が生まれるわけです。

私は哲学科ですので、何か哲学的な課題を見つけてきてそれについて卒論を書くのですが、〝時間が足りない〟という理由によって自分が取り出したテーマと存分に向き合うことができないままに卒論を書き終わらせなくてはいけなくなる。

 

 

ここで大学での〝学び〟について明確な二つの問いが出てきます。

 

「有能なサラリーマンになるために学んでいるのか?」あるいは「自分自身を成長させるために学んでいるのか?」

 

当然、哲学科に来ている連中ですから───大学を出た後に高所得者になることが目的なのではなく───もちろん後者。

つまり、内的な成長を目的に〝学び〟と向き合っている。

 

残念ながら、そうは言っても大学の決めたルールとして〝10週間以内に書かなくてはならない〟という点を疎かにしてはいけない。

ルールはルールとして残し、その与えられた環境の中で内的なものに繋がるような向き合い方を意識的に考える必要があります。

 

〈竹下哲生〉 

 

上司から「これをやっておいてくれ」と言われたからただ単に「分かりました、やります」ということではなく───つまり、「やれ」と言われたことをただ埋めるのではなく。

本当に重要なことは〝意識する〟ということです。

 

「何のためにやっているのか」「どういうつもりでやっているのか」ということを意識することによって、一面的に背骨ができていくという状況を回避してくれるのではないでしょうか?

 

実際にヨーロッパでは〝一面的な背骨の形成〟という背景によって、経済的な原理に支配されています。

その結果として、ヨーロッパが中世以来育んできた〝個人の形成〟という枠組みすらも奪われようとしています。

 

つまり、先ほど高橋さんが仰った「アメリカは〝意志〟の衝動により下から背骨が形成され、ヨーロッパは〝思考〟によって上から、そして日本は真ん中」という話がありましたが、今言ったように全てが経済的な傾向に巻き込まれていくことによってヨーロッパですら〝背骨を作る〟という状況が失われつつあります。

 

それによって何が言えるのかというと、「大学での〝学び〟というのは単なる〝キャリア作り〟」でしかなく、それだけの目的で大学に人が集まるようになってしまう。

 

 

上(思考)から背骨を作るのであれば、まずはその全体像を把握する必要があります。

自分の人生の指針は何なのか?

そのためにはまず、何から着手しなければいけないのか?

それらを自分で判断する必要があります。

 

 

この問題が経済的な原理によって外から〝やるべきこと〟を与えられた状態。

まさに先ほど日本について言及したことが、私たち───ヨーロッパにおいても同じように言えるわけです。

 

日本人だけでなく、私たちもまた〝背骨を作ること〟について意識的に向き合わなければなりません。

それは放っておいてできるものではない、ということです。

 

 

 

 

 

対話から導かれる〝解〟。

 

イェッセ

では、どのようにすれば良いのでしょうか?

 

ヨーロッパ、アメリカ、日本───それぞれに良い側面があると思います。

それらの良い側面を互いに結び付けていき、〝一面的に背骨ができる〟という状況を回避することだと私は思います。

 

ヨーロッパは〝思考〟に基づいて「自分は何がしたいのか」という形で、アメリカにおいては明確な〝意志〟に基づいて「自分は何がしたいのか」という形にあります。

アジア、若しくは日本の領域では、中心にある感覚───〝感情〟の世界で(それは社会性とも言い得るのですが)形成されています。

私たちから見て、少なからず、それは日本の強みであると言えます。

 

ただし、社会的な生活というものが外からの〝型〟という形で役割を与えられている状況───つまり外からの影響に依存している限りは、そこから前進することはできないでしょう。

 

そして同じようなことは日本だけでなく、ヨーロッパ、アメリカにも言えます。

それは先ほど話した、いわゆる〝経済的な力〟によって外から枠組みを与えられている、ということです。

これは決して日本だけの問題ではありません。

 

 

枠組みがあることにより、また、その枠組みが圧迫されることによって私たちは常に意識する必要があります。

つまり「これは私たちが本当にやりたいことではないんだ」───〝枠組みに従いながら生きていくつもりはない〟という意志表明を理性によって行う必要があるということです。

 

実際に日本で想定し得る問題は、生活の速度が速くなり、どこからか自分が追いつけないほどの目まぐるしさになっているということが挙げられます。

それがまさに問題の根本であると考えられます。

 

日本人は自分の居場所を見つけて、自分の役割を全うすることに慣れています。

それが、何もかもが経済的な原理に飲まれていくことになり、あらゆる速度が増していく。

速くなるにつれてあらゆるものが変化していき、自分が元々持っていた〝役割〟が消えつつあります。

そしていつか、その〝役割〟はどこかの地点で完全に消えてしまい、危機的な状況に陥るでしょう。

 

私の知る限り、日本ではたくさんの人が自殺をすると聞いたことがありますが、おそらくそのような要因が関係しているでしょう。

そういった現象を見るにつけ、生活や文化を外からの〝型〟や経済的な枠組みではなく、自分たちの〝意思〟によって意識的に取り組む必要があります。

 

 

※「意思」と「意志」の違い。

前者は日常的な言葉で、後者は高度な心理学用語。

半無意識的な「衝動」として表れている行為が「意志」

思考、ないしは意識を経由し、頭の方向から決断、決定されるもののことを「意思」。

 

 

高橋

日本人が「僕たちが形成したかったのはこんな社会じゃないんだ」と言えるだけで100点だと僕は思っていて。

それが言えることこそ〝背骨〟の確立ではないか、と。

 

今、この状況を見ていると、その流れになるのか、はたまた全てを諦めてしまうのか…この二択だと思っています。

 

イェッセ

もし、そのようなことになってしまえば日本はどうなってしまうのでしょうか?

 

高橋

そこがまさに〝死活問題〟と言った点です。

 

イェッセ

もしそうなった時、心理的に健康な状態でいることができるか───つまり、精神病などの問題が起きずに済むのか、という。

 

高橋

今日は短時間でこのようなお話ができてよかったです。

そろそろお時間ですので、最後にイェッセさんから日本の方に向けてメッセージを。

 

イェッセ

今日のような体験が、オランダでの自分の活動にどのような意味があるのかということを改めて意識させてくれます。

異なる文化が交流することによって、お互いにより良い意識の持ち方が発見されます。

「文化が違う」ということを意識するだけで、様々なことが明確になってくる。

そのことにより、私たちは全人類的な価値を獲得できるような気がします。

 

日本だけでなく、人類が様々な文化を持ち、民族ごとにそれらが異なり、どれだけ人間の多様性があるのかということに驚き、体験することにより〝人間の価値〟を実感できます。

その違いを対話に持っていくことができるのであれば、未来は希望に満ちたものに変わると思います。

 

高橋

本日はありがとうございました。

 

 

内側にいると盲目的になることがあります。

それは悪い面だけでなく、良い面も。

個人のアイデンティティが希薄な日本人の未来を懸念する高橋さんに、イェッセさんが「西洋人が失った〝繋がり〟という優しい人間関係がそこにある」と言った言葉が印象的でした。

そして、「そのことについて危惧をしているのは日本人だけでなくヨーロッパ人やアメリカ人にも言えることだ」と続けました。

内側にいると盲目的になり、良さを見落とし、悪い面ばかりが目に付くことが多い(悪い面さえ死角に入ってしまっていることもありますが)。

 

高橋さんとイェッセさんの対話が、互いの難点と、魅力を指し示すことによって、それを融合して〝新たな個人の在り方〟という可能性を見出しました。

 

こういう瞬間が実におもしろい。

メタ的な視点を持つ二人の対話が、さらに新しいフェーズへと議論を展開させていく。

このほんの一時間のやりとりの中で、課題がアップデートされたような。

 

こういう瞬間が実におもしろい。

 

 

次のブロックへと続きます。

 

 

《高橋祐太/Yuta Takahashi》

日本を拠点に活動するアートディレクター兼デザイナー。ブランディング、プロダクトデザイン、グラフィックデザイン、パッケージデザイン、エディトリアルデザイン、ウェブデザインなど、幅広いデザインを手掛ける。シンプルで物事の本質を突いた洗練されたデザインは、世界的に高く評価されている。国際的なデザイン賞を多数受賞。

 

HP:http://yutatakahashi.jp

Instagram:@yutatakahashi.jp

 

 

 

《イェッセ・ミュルダー》

1982年オランダ生まれ 2004-2010年ユトレヒト大学にて哲学専攻 博士号取得

博士論文テーマ「現実と概念:形而上的思考の構造について」研究員・講師として同大学に勤務 現在の研究テーマ「学問的思考に於ける多元論と統一性」

 

 

 

《竹下哲生/Tezuo Takeshita(Shikoku Anthroposophie-Kreis代表)》

1981年に香川県に生まれ、2000年渡独。南ドイツでの酪農実習を経て2002年にキリスト者共同体の自由大学に入学。しかし2004年の体調不良により司祭叙階を断念し帰国。以来、参加者の疑問に答えるという形式の講座(概念デザイン)を日本各地で開催。哲学的・神学的立場から学際的な思考を展開し、得意とする分野は教育・歴史・化学・農業・芸術・西洋近代史・現代文化批評など多岐に亘る。また講演活動の傍ら、翻訳・通訳業も熟す。著書には入間カイとの共著『親の仕事、教師の仕事――教育と社会形成』、訳書にはミヒャエル・デーブスの『三位一体』上下巻やリューダー・ヤッヘンスの『アトピー性皮膚炎の理解』など多数。

 

Please reload