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読む「れもんらいふデザイン塾」vol.4


今回のゲスト講師はNuméro TOKYOの編集長、田中杏子さん。

ファッションの最先端───ムーブメントを作る側の彼女の住む世界は眩しいほど煌めいていて。

ただそういったラグジュアリーな景色だけでなく、仕事に対する苦悩や失敗も全て笑って話す彼女の姿は内側からキラキラと光に満ちていた。

カクテルの世界では「甘味と酸味のバランスが美味しさを決める」と言われている。

そこにほんの一滴のビターズ(苦味成分)を落とすことによって味に立体感が生まれる。

つまり、苦味は〝奥行き〟を生むのだ。

人生も全く同じなのかもしれない。

苦味の分だけ、人生は味わい深いものとなる。

ただ、それは甘味と酸味の絶妙なバランスがあってこその話。

杏子さんの人生はまさに小説や映画そのもので。

華やかさと危機的状況が螺旋状に訪れる。

ドラマティックな瞬間に立ち会う数々の幸運は、それを引き寄せる彼女の度胸があるからこそ。

動物的な判断力と天才的な行動力。

全ての女性に力を与える力強い〝生〟の言葉、そして内側から溢れるチャーミングさ。

彼女はこう語った。

杏子

Numéro TOKYOで編集長をやっていますが、最初からNuméroの編集長になりたかったわけでもなく、また、なれたわけでもない。

最初は私も一スタイリストで、ファッションが好きで。

一生懸命スタイリングをしていたらVOGUEから声がかかって、そこで編集の仕事を覚えて、スキルを身につけて、そうやってやっているうちにNuméro TOKYOの編集長として声がかかって。

その段階をいかに形にしていくかだと思うんです。

つまり、与えられた仕事をいかに良い出来栄えで仕上げていくのか。

そのレイヤーを重ねていくと、きっと良い結果に辿り着く。

自分は最初からスペシャルな存在だったわけではない。

〝未来〟の自分を作るのは、いかに真摯に〝今〟と向き合ってきたか。

塾生の瞳はいつも以上に輝いていた。

映画のような人生を、小説のように書いてみたい。

(※不躾ながら、以下は敬称略で書き進めます)

 

杏子

もともと私はVOGUE JAPANにいて、ファッション・エディターという編集者をやっていたのですが、2005年にNuméro TOKYOの編集長になって欲しいと声をかけられて。

最初は乗り気じゃなく…というのも、当時私はファッション・ディレクターになりたくて。

〝編集長〟という仕事は私のやりたいことと内容が全く違ったので一度断ったんです。

そこでいくつかのやりとりがあり、「ファッション・ディレクターだったら」ということで了承したんですね。

「じゃあ編集長を誰か探しましょう」ということになり、軽い気持ちで探しはじめたんですね。

Numéroはフランスのファッション誌で───1998年の創刊当時から私はNuméroが大好きで───この雑誌が日本でできるのに適任の編集長が見当たらないんですね。

〝編集長〟というのはかなり大事なポジションなので、相応しくない人がやって、おかしなことになってしまうのも嫌だし。

なかなか見つからなくて、やいのやいの言っていたら「だから、あなた(田中杏子)がやってください」って。

最終的に「やるしかないか」と思って、「そもそも編集長って何をやるんだろう?」っていうところからスタートしました。

杏子はパリコレクションで渡仏した際、本国である仏版Numéroの超大物───編集長バベット・ジアンの元へ挨拶に行った。

そしたらバベットがいて。

「私、田中杏子といいまして、今度日本で創刊されるNuméroの編集長として声をかけられました。よろしくお願いします」って言ったら、チラッとこちらを見て「アタシ、アナタなんか知らないわ。Who are you?(あなた誰?)」って言ったんです。

「へ?…こわぁぁ(恐怖)」ってww

「あの、一緒にやっていこうと思っている者なんですけど//」「いや、聞いてないから」って。

「え?ヤバイヤバイ…私、この人とやっていけるの?」ってww

フランス人って本当にそんな感じなんですよ。

もともとラ・カシェットという日本の会社がフランスのグループ・アラン・アヤシュという出版社とトップ同士での合意の元、Numéroを日本で出すということが決定した。

グループ・アラン・アヤシュからラ・カシェットが版権を買い、「編集長を誰にしようか」と話の中で、田中杏子が抜擢された。

ところが話はトップ同士での間で進み、本国の編集長バベットの耳には入っていなかったのだ。

幸運なことに、杏子とバベットには共通の知人がいた。

ANTEPRIMA(アンテプリマ)の荻野いづみだ。

彼女は仏版Numéroに広告を出していた上、以前の仕事の関係で杏子とも親交があった。

「いづみさんバベット・ジアンご存知ですか?」って聞いたら「よく知ってるわ、いい人よ」「え?いい人なんですか?」ってww

事情を話したら「私が間に入って紹介してあげるわ」って言ってくれたんです。

フランスでは〝誰から紹介を受けるか〟ということに対しての重要度が高い。

バベットからすれば荻野いづみは広告を出してくれる大切なクライアント。

その彼女が「アコ・タナカを知らないの?今度日本のNuméroの編集長になる子なんだけど、紹介させて」と言えば、さすがのバベットもノーとは言えない。

荻野いづみは杏子のためにバベットとの食事の場をセッティングした。

***

半分汗をかきながら杏子は挨拶に向かった。

到着すると、バベットはタバコの煙をくゆらせながら流し目で「座れば」というストロングスタイル。

ただ、初対面の時とは雰囲気が少し変わっていた。

私が席に着くと「あなたの着ているその服、素敵ね。どこの?」みたいな感じだったの。

そこから、急に「この間のショー見た?」って。

「見た」と答えると「どう思った?」って。

さり気ない様子を装っているが、バベットの心の内は杏子の審美眼を試しているのだ。

〝田中杏子〟がNuméroに相応しい人物なのか。

杏子は正直に答えた。

「私、あんまり好きじゃない」

沈黙が流れた。

それを打ち破ったのはバベットの言葉。

「でしょ?私もすっっっごく好きじゃないの」

杏子は胸を撫で下ろした。

選択は正解だった。

「ああ、よかった。第一関門クリア」みたいなwww

欧米では───特にフランスではそうなのだが、自分の意見をはっきりと主張できなければリスペクトは受けられない。

安心したのも束の間、次の緊張が杏子を襲う。

「ところでアナタ、何やるの?」

「編集長やります」

「ふーん……編集長やるの……編集長ってどういうこと?」

その言い方がすごく感じ悪くてww

「アタシの作っている仏版Numéroの翻訳本を作るんだよね」って言うんですよ。

つまり、内容は仏版と全く同じもの──その日本語版を出す、ということ。

「そういう風に聞いたからアタシ、サインしたんだけど」って。

この時、杏子は機転を利かせ、間合いを詰めてこう言った。

「いやいやいや、あなたが作っている本を私が日本語に訳して出したら、あなたの本売れなくなるわよ?」

日本でも仏版Numéroは販売されている。

もし、杏子が日本語での翻訳本を出すとなると、そちらのみが売れて仏版は売れなくなる。

少し思慮の間があり、バベットは言った。

「確かにそうね」

たたみかけるように杏子は続けた。

「翻訳版なんか出したら、あなたのビジネスを引っ張ることになるから、私は〝私の本〟を出さなくちゃいけないと思ってるの」

するとバベットは答えた。

「それもそうね」

バベットは日本で販売されている自分の本が売れなくなることを懸念した。

彼女もまたビジネスの才に長けている。

当初バベットは「Numéroは世界に一つだけでいい」───つまりは「自分が愛情を注いで育ててきたNuméroを汚されたくない」と考えていたが、理知的な杏子の印象と、信頼できる感性から彼女に対するリスペクトが生まれはじめていたのだ。

「じゃあ分かった。読み物は全部アナタ(杏子)が作りなさい。その代わり、ファッションページは全部アタシのを使いなさい」

無論、一筋縄ではいかない。

フランスのマーケットと日本のそれでは、女性の好きなモノも違う。

〝かわいい〟という感覚は日本特有のもので、それは必要不可欠な要素だった。

実際バベットの作るファッションページは、地下鉄のホームに立ったモデルの毛皮の中はヌード、という際どいクリエーションだった。

ビビットであり、極度に洗練された彼女の感性だけでは、日本では受け入れられない。

「あなたの感性はすばらしいけど、日本では絶対にウケない。私は私が思う日本のマーケットに合ったモノを作るから、任せて欲しい」

杏子がそう言うとようやく「分かったわ。アタシが100%面倒みてあげる」と受け入れた。

そして「アタシが作るのを手伝ってあげるわ」と続けた。

「どこまでもこの人言ってくるなぁ」と思って。

手伝ってもらうと彼女の好きなものを作ることになる。

結果的にすごくお金がかかることになってしまう。

だけどここは一度首を縦に振って話を終わらせるしかないと思ったの。

「分かった、色々とあなたに力を貸してもらうことになるから今後よろしくね」と言って、一旦その場は収まったんです。

いい感じの別れ方ができました。

フランス人は一筋縄ではいかない。

リスペクトを得るためには〝自分の意見を出さなければいけない〟ということを先に記述した。

そこに付け加えるならば、〝イエスとノーの線引きをきっちりとしておくこと〟が関係性の中で重要になってくる。

とにもかくにも日本はNuméroのインターナショナルエディションの記念すべき第1号となった。

ついに、Numéro TOKYOは創刊に向けて動き始めた。

準備期間は2005年10月から2007年2月までの約1年半。

杏子には創刊のためには十分な準備期間が必要であることを知っていた。

というのも杏子はVOGUE JAPANの創刊にも携わっていた。

98年に入社し、そこから2度創刊の予定が延びた。

延期の理由は〝人が集まらない〟ということ。

全てのスキームは完成していても、「編集者が集まらない」「アートディレクターが来ない」「デザイナーが捕まらない」など、様々な理由で予定通りには進まない。

杏子は〝人を集めるには時間がかかる〟ということを経験として知っていた。

***

2006年6月、編集室を立ち上げた。

その時にNuméro TOKYOのコンセプトを作成した。

どういうものを作っていきたいのか、どういう本にしていきたいのか。

編集部の全員で話し合い、その時に作ったスローガンが…

「毒抜きされたモード紙は、もういらない」

巷に溢れるほとんどのファッション誌は脳を傷つけない。

それらは情報に過ぎず、読んだ後に脳に何も残らない───要はただただ消費されていくもの。

杏子率いる編集チームは、その見えない壁を打ち砕くため〝今〟という時代に一石を投じた。

海外の雑誌って、ページをめくった時にドキッとする瞬間があるんですよ。

「何、この紙面…」

それはダイナミックなアートディレクションだったり、ページネイションだったり、モデルの目つきだったり、写真家の思い入れだったり…

そういうドキッとするものというのは、脳が傷をつけられた状態なんです。

脳に傷がついたものは忘れられないと言われていて…

端的に〝毒〟と言うと、「健康を害するもの」というイメージがあるかもしれません。

ここでの〝毒〟という言葉に内包されている意味は、圧倒的な〝美意識〟───それも、思わず息を吞むほどの。

表情、色彩、情景、構図……美しい写真は毒性を孕んでいます。

消費されていくファッション雑誌が多い中、Numéro TOKYOというのは、もっと〝毒抜き〟のされていない雑誌でありたい。

人の脳を傷つけて、それが何かしらのインスピレーションを与えるきっかけになるような。

創刊号。

記念すべき第1号はケイト・モスが表紙を飾った。

フォトグラファーは世界的に有名なノルウェー人写真家ソルヴェ・スンツボ。

雑誌のランクというのはシンプルに言えば、フォトグラファーのランクなんです。

雑誌のトップに君臨できるかどうかというのは、その雑誌にどのようなクリエイターが関わっているかということが重要で。

VOGUE JAPANにいた時に私はそれをさんざん見てきて───日本のVOGUEもランクは高いんです。

変な話、同じVOGUEでも国が違えばランクも異なっていて。

何が違うのかというと、クリエイターのランクで。

どのようなフォトグラファーが撮っているのか、モデルが入っているのか、アートディレクターが関わっているのか。

三流のフォトグラファーを使い、三流のモデルを使う───言葉が悪いですが、あまり認知のされていないクリエイターを起用して創刊させると、

そこから上のランクには絶対に上がれないんです。

後になってトップのクリエイターにいくらお金を積んでオーダーしても、「うーん、これは僕のやる雑誌じゃないね」って切り捨てられるんです。

それが分かっていたので、Numéro TOKYOは最初からトップ・オブ・トップを狙いました。

ただ、それは簡単な道ではない。

そこには色んな難関がまたもや杏子の前に立ちはだかった。

ケイト・モスをブッキングしようと思うと、彼女が首を縦に振るフォトグラファーでなければいけない。

「私を撮るフォトグラファーなら、ランクは五本の指に入っていないと無理よ」

VOGUEのメンバーのひとりでノウハウを知っているフォトエディター(現フォト・ディレクター)が

私の創るNuméro に夢を感じて立ち上げメンバーとして参加してくれたんです。

彼女が奮闘してくれて、表紙のキャスティングは最高のメンバーでスタートをきることができました。

彼女は今でもコアメンバーです。

さらにはNuméro というブランド力もあって、いいクリエイターが集まってきていたのに、

しばらくすると一度確約を取ったフォトグラファーたちから次々とキャンセルの報せが届いた。

創刊前に「ごめん、一緒にやろうと思っていたけどできない」っていう連絡が何人か来て。

「何で?」と聞いたら「言いにくいけど、〇〇誌からストップされたんだ」って。

「日本のNuméroを田中杏子が統括する」

既に業界では知らない者はいなかった。

それを脅威に感じたライバル誌が、Numéro TOKYOを───田中杏子を潰しにかかったのだ。

「日本のNuméro に力を貸すなら、うちでは仕事をさせない」という圧力が各々のクリエイターへかけられた。

そこで手を貸してくれたのがバベット・ジアン。

───そう、フランス本国の〝あの〟一癖も二癖もある編集長。

敵に回ればたまらないが、味方にいるとこんなに心強い相手はいない。

速攻、バベット・ジアンに電話して。

「え?彼らがやってくれないって?みんなアタシの友人よ!」

事情を説明したら、彼女ものすごく怒って。

「何言ってんの!アタシが言ってあげるわ!許せないアイツら!」

もう、ここでは言えないくらいの汚い言葉が飛び交ってww

バベットが連絡をしてくれたおかげで数名のクリエイターが戻って来てくれたんです。

ただ、創刊までの茨の道はこれで終わりではなかった。

新たな難関が行く手を阻む…

 

ここでNuméro TOKYOの特集について。

これまでに田中杏子は様々な企画を立ち上げて来た。

彼女のクリエイティビティの秘密はここにある。

写真家のアラーキー(荒木経惟)に〝エロティシズム〟をテーマにユニークジュエリーと花を艶やかに撮ってもらったり。

女優の沢尻エリカ、ローラのセミヌード。

ヴァンジ美術館で撮影を行った号では、時代の流れの中で強くなっていく〝アート〟と〝ファッション〟の親和性を。

COACHのデザイナーのスチュアート・ヴィヴァースなど、〝リアリティショー〟と題し、様々な世界的有名なクリエイターのリアルライフを。

Instagramからクリエイターを発掘する時代───Gucciのデザイナーであるアレッサンドロ・ミケーレの作った#guccigramという流れを受け、Numéro TOKYOもまた様々なSNSでまだ見ぬクリエイターを次々と発掘し世に出していた。

女優さんに「私のページ作って」って言われた時は、私たちは「心を裸にするか、身体を裸にするか、どっちかにして」っていつも言うんです。

「裸になれなかったら心を裸にして。インタビューで赤裸々に〝何か〟を語って。じゃないとフィーチャーする意味がない」って。

そういう気持ちでいつもページを作っています。

私たちの作った企画がきっかけとなって個展を開いたりだとか、海外の方の目に留まって作品が買われたりとか、そういうことに繋がっていくことは本当に編集者冥利に尽きます。

〈マスカラのヴィジュアルでシズル感を表現〉

彼女の作る雑誌は、カクテルのように素材と時代をミックスさせる。

その発想力と企画力に共通するものは〝時間〟に対する感性。

彼女は誰よりも〝今〟を追求する。

時代性や時間の流れを取り入れながら───それは〝過去〟に対するリスペクト。

そして彼女はそれらを〝今(現在)〟と共に〝未来〟を描く。

常に果敢にチャレンジする姿勢を見せるNuméro TOKYOの企画の中から印象的な2つを紹介する。

3.11~『WE LOVE JAPAN』

2011年6月号『WE LOVE JAPAN』(4月末に本屋の棚に並ぶ)。

〝ファッションで日本を応援〟という企画。

この年の3月11日に東日本大震災が起きた。

ちょうどその時、杏子は空港から箱崎へ向かう途中のリムジンバスの中にいた。

パリでのコレクションが終わって、早朝日本に到着したところである。

リムジンバスが勢いよく止まって、車内は大混乱。

私を含め、乗客は最初何が起きたのか分かっていなくて。

そのままリムジンバスの中で何時間か閉じ込められて。

その後、近くのインターチェンジまでゆっくりとバックして…

そこで夜を過ごし、開通の報せが届いた頃には明け方を迎えていた。

箱崎に到着すると、乗客たちは順番にパンと毛布を受け取った。

寒さと未知の怖さに誰もがうろたえた。

Twitterのタイムラインには〝行方不明〟の文字が並んでいた。

津波の映像を見たのは11時くらい。

やっとの思いで家に帰った時にそこで初めて───。

Numéro TOKYOでは巻頭の2ページは〝編集長日記〟と銘打ち、杏子の日常や彼女の視点から興味を惹いたものをピックアップした内容を掲載している。

ショーで出会ったセレブ、おもしろかった映画、新しく発見したレストランなど。

編集長である彼女が今〝何〟に興味を持ち、どのようなアートワークからインスピレーションを得ているのかが分かる人気ページだ。

実はパリコレクションから帰った後、このページを入稿するタイミングだったんです。

パリコレに行くといつもどこかでパーティが開かれていたり、新しいブランドがローンチしたりと、山ほどネタができるので書くことがたくさんあるんですね。

でも、震災のあの状態を見て書けなかった。

大変な想いをしている方がいる中、「パーティおもしろかったよ!」っていうのはなんだかお門違い過ぎる気がして。

いつもの半分───1ページはタダ同然で広告を差し込んだ。

そしてもう1ページは───杏子が体験した震災当日の出来事を。

バスの中で地震に遭い、そこで一夜を過ごしたこと。

映像を見た時の胸の痛み、出てくるのはお悔やみの想いだけで…

そのようなことを私の言葉で赤裸々に書いて。

家族を亡くした方々のことを想うと、それしか書けなくて。

〝この疲弊していく日本をどうすれば回復できるのか?〟という想いで立ち上げたのが「ファッションで日本を応援」という企画でした。

数々のブランドから寄贈してもらい、それを読者に購入してもらうことでその金額全てを寄付するというチャリティー企画に変更した。

丸ごと1号チャリティーオークションという内容だ。

〝今〟まさに起きていることを企画に落とし込んだ。

発刊から数日後、この号を読んだ宮城県のとある女性から一通の手紙が届いた。

手紙の女性は家が半壊し、おしゃれすることも忘れて疲弊する日々を過ごしていたという。

着の身着のまま、家の中の泥を掻き出している時に定期購読のNuméro TOKYOが届いた。

その表紙の美しさを見た彼女はこう思った。

「あ、ダメだダメだ。お化粧しなきゃ」

「大変な状況であるにも関わらず、〝おしゃれをする、きれいにする、着飾る〟ということを忘れてはいけない、そう思いました。ありがとうございます」と書いてありました。

「世の中が自粛モードに入っている中でも、みなさんはいつもと変わらずに〝おしゃれは楽しいことなんだ〟というものをどんどん伝え続けてください」って。

私はこの手紙にものすごく救われて。

実際に被災している方がその想いを伝えて下さるのは有難いなって。

「繋がった」という実感があって、自分自身も救われた企画でした。

それからちょうど数ヵ月経った頃、WWDデジタルの三浦さんという記者の方の文章を読んだんです。

〝多くのファッション雑誌があの震災を何もなかったかのようにページを作っていることに違和感を強く抱いた。その中で唯一、あの状態をちゃんと誌面に残したのはNuméro TOKYOの田中杏子だけだった〟

そのような旨の言葉が書かれていて。

「ああ、ちゃんと読んでくださっている人がいるんだなぁ」ってすごく嬉しかったんです。

『ユーリ!!! on ICE』

Numéro TOKYOではさらに興味深い企画を立ち上げた。

母体である扶桑社が『ユーリ!!! on ICE』の公式ガイドブックを作成した。

『ユーリ!!! on ICE』とは男性3人のフィギアスケーターが主人公のアニメ。

公式ガイドブックは即予約完売、何刷も重版することになる。

杏子はNuméro TOKYOで『ユーリ!!! on ICE』の表紙を飾ることを企画する。

要はあの3人組が表紙を飾るという設定で、中ページも作ったんですね。

本物のファッションブランドを3人が着こなしている───1人はジョルジオ・アルマーニ、もう1人はヴァレンティノ、そして別の1人はサンローラン。

当時のシーズンの実際のものそれぞれが着ていて、表紙はディオール・オム。

これがファンの間ですごい話題になって、今だかつてないくらい本が売れたんです。

さらにはファンがヴァレンティノのお店に電話して「このキャラクターの履いているスニーカーって本当に売っていますか?買いたいんですけど」という問い合わせがあって。

実際に服もアイテムも売れたんです。

これの光景を目にした時、驚きと共に「新たなモノが売れていく形が見えたな」っていうのを実感しました。

***

誌面って、今デジタルもあるし、それこそSNSもある。

VOGUEにいたのでよく分かるんですけど、VOGUEやハースト、ELLEなど世界的な規模で手を組んでやっているところに比べるとNuméro TOKYOは零細雑誌なんですね。

大きなことを仕掛けられない代わりに、その分他でできないようなディティールを深く掘り下げた内容に注力しています。

私たちが〝おもしろい〟と思って依頼したクリエイターが、海外のアートディレクターの目に留まって、向こうで個展を開いたり。

そうやって繋がっていくことが誇らしいですし、私たちも積極的に新たなクリエイターを発掘することに注力しています。

そういう意味では、クリエイターや業界の人にはよくチェックされている雑誌ですね。

 

危機。

先ほどの物語の続き…

創刊までに嵐は2度起きた。

1度目は2006年5月頃。

当時、起きたライブドア事件によって銀行がIT企業に対する資金の貸し渋りをはじめたところだった。

発行元はラ・カシェットで、その母体はライブドアと同じ六本木ヒルズにオフィスを構えるIT企業だった。

IT企業への懐疑心から世間では彼らに対し厳しい逆風が流れていた。

背に腹は代えられない、その容赦ない決断によって、ラ・カシェットは切り離された。

物件探しに始まり、新社長を迎え、代々木上原に編集部を構え新たにスタートを切ったんです。

投資家の元へ行き投資の話を持ち掛けて。

さぁ、いよいよ創刊だという一歩手前で「1週間後にNuméro TOKYO事業を丸ごと買い取ってくれるところを探してください」って言われて「えぇっ!?」って。

「お金が回らなくなったのでもう無理なんです」って。

この2度目の嵐は大きすぎて、杏子は最初、相手が何を言っているのか分からなかった。

創刊、1ヵ月前の出来事である。

創刊の準備に奔走している頃、杏子のお腹の中には赤子がいた。

Numéro TOKYOと一緒のように赤ちゃんをお腹の中で育てていました。

創刊が2月27日、そして子どもが生まれたのが3月10日。

ほぼ同時期のことで。

「私、死んじゃうのかな?」っていうくらいピンチでした。

「困ります!」って言っても仕方がないので、ほんの僅かですがまだ時間があったので、それまでになんとか創刊させようと動いたんです。

ケイト・モスの表紙ももうあるし、「あとは刷るだけ」というタイミングなんですね。

それで3㎏痩せました。

お腹に赤ちゃんのいるタイミングで。

産婦人科の先生にすごい叱られて。

「何でこのタイミングで体重落としてんの!」って。

「いや、仕事が大変で…」って言ったら「仕事が大切なの?子供が大切なの?どっちなの?」って。

雑誌も私の赤ちゃんみたいなものだし、この事業を辞めたら私のために集まって来てくれたスタッフ全員を路頭に迷わすことになる。

だから「今、どっちも大変なんです!」ってww

何件か事業を買い取ってくれる可能性のあるところに駆け込んだのですが、どこも「一週間じゃ答えは出せない」って。

まぁ、それも当然の話なんですけど。

その中の扶桑社が手を差し伸べてくれたんです。

「お願いです!」って大きなお腹で事情を説明していると、当時の社長がちょうどラグジュアリーブランドと関係のあるファッション誌を作りたいと思っていたタイミングで。

「じゃあやるか」って一週間で答えを出してくれたんです。

滑り込むようにして杏子はNuméro TOKYOを予定通り創刊することができた。

それは同時に〝継続することの難しさ〟という新たなテーマが誕生した瞬間だった。

今も第一線で活躍し続ける彼女は、最後に皆にこれらの言葉を残した。

創刊から1年くらいは「脳に傷をつけよう」と思ってかなり尖っていたんですよ。

だからその頃のものを見返してみると「わー、頑張ってたね~」って思うようなもので。

でも、同時に尖り過ぎていたので「これは雑誌じゃない」ってよく言われて───「雑誌というより写真集みたいですね」って。

どんどん部数が下がっていくんですよ。

自分の中でも「ヤバイな」っていう気持ちがあって。

尖り過ぎていて売れない。

だから、その後にものすごく分かり易いつくりのものに変えたんです。

部数のことをずっと考えていて、「一般的なものにしないと」って、今思うとお恥ずかしくなるような紙面になっていき。

まさに迷走していたんですよね。

今、ようやく落ち着いてきたんですけど。

「私たちだけがおもしろいよね」っていうマスターベーションになってもダメで。

尖った題材を形にする時に、どのようにすれば人の心に響くのか、分かり易く伝えるにはということを色々と考えて。

そして、それがいかに〝今〟の社会に対して投げかけができているのか、という。

「なぜこの企画が必要なのか?」というところを吟味するんですよね。

「私、ファンになりました」って一人でも多くの人に言ってもらいたい気持ちで。

最初の頃、尖り過ぎて失敗したし、その後ベタにし過ぎて失敗した。

失敗を五段階くらい経て今があって。

迷走中は、正直「今のNuméro TOKYOって超つまんないよね」って言われたこともあったし。

自分でもまた、言われている理由がよく分かったし。

その時はやっぱり自分が「おもしろい」と思って作ってなかったんですよね。

そうすると不思議と紙面もまたおもしろくなくて。

そこは、大切な点だと思います。

 

自身の雑誌の中で数々の人間を〝裸〟にしてきた田中杏子(外側も、もちろん内側も)。

彼女もまた、全てをさらけ出すように皆に生きた言葉を届けてくれた。

忘れてはならないのが、これは彼女の人生の終わりから振り返った話ではない───彼女は今尚、闘っているのだ。

田中杏子の〝人生〟という小説はまだ続く。

《田中杏子》

ミラノに渡りファッションを学んだ後、第一線で活躍するファッション・エディターのもとで、雑誌や広告などに携わる。帰国後はミラノでの経験を活かし、フリーランスのスタイリストとして活動。流行通信やELLE JAPONの契約スタイリストを経て、VOGUE NIPPON創刊時より編集スタッフとして参加。ファッション・エディターとしてのキャリアを重ねるとともに、広告やTV番組の司会、また資生堂「Maquillage」キャンペーンのファッション・ディレクタ−の職を2年間兼務するなど多方面で活躍。2005年11月より Numéro2月に創刊、現在にいたる。編集長としてのみならず、同誌ファッションページのスタイリングや、他ブランドのアドバイザーやディレクションなども行う。

≪塾長:千原徹也≫

デザインオフィス「株式会社れもんらいふ」代表。広告、ファッションブランディング、CDジャケット、装丁、雑誌エディトリアル、WEB、映像など、デザインするジャンルは様々。京都「れもんらいふデザイン塾」の開催、東京応援ロゴ「キストーキョー」デザインなどグラフィックの世界だけでなく活動の幅を広げている。

最近では「勝手にサザンDAY」の発案、運営などデザイン以外のプロジェクトも手掛ける。

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