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Art de Vivre 1


とあるバーにてささやかな対談が開かれました。

その店の名は『Art de Vivre(アールドヴィーヴル)』

───意味は〝生活の芸術〟や〝暮らしの技法〟。

この場所では、生活をアートによって豊かにする、そんなヒントが対話の中から発見されます。

バーテンダーは作家であり、この『教養のエチュード』の編集長でもある嶋津亮太。

そして常連のお客様は哲学者であり概念デザイナーの竹下哲生さん。

それでは対談の様子をお楽しみくださいませ。

 

哲学って何?

嶋津

竹下さんは哲学者であるわけですが。

無茶な質問だとは分かっていますが、第一回目なのであえて訊きます。

哲学とは何でしょう?

竹下

一応僕は〝哲学者〟ということになっていますが、大学で哲学を学んだわけでもなく、若干僕にとって重荷なのは自分の名前です。

Candle JUNE(キャンドルジュン)という人がいて、彼はキャンドルアーティストとしての肩書があるのですが、あの人がすごいと思うのが名前に職業が入っているということなんですね。

僕がどこかの電気屋で働いていたとして、キャンドルジュンがシーリングライトを買いに来たら笑いが止まらないと思うんですよ。

あるいは小洒落たインテリアショップで働いていたとして、キャンドルジュンがキャンドルを買って帰ったというと。

そういうことを考えると名前に職業が入っているのは超ハードルが高いなと思っていて。

僕の〝哲生〟という名前も哲学に生きるという名を与えられたがために、ハードルを上げてしまっているというところがあって。

嶋津

確かに〝名は体を表す〟と言いますか「哲学者として生まれてきた」という印象にどうしてもなってしまいますよね。

竹下

よく言われます。

「素敵なお名前ですね、誰がつけてくれたんですか?」と。

父は哲学が苦手だったらしく、自分の苦手なものを子どもにやってしまえという。

そういう勢いでやったところがあって。

嶋津

好きなものではなく、苦手なものだったんですか?

〈竹下哲生〉

周りから浮き彫りにしていく言葉の定義。 竹下さんの言葉のコントロールテクニックは実に鮮やかだ。

竹下

元NMB48 の須藤梨々花という人が哲学書を出していて。

ずっと後になって総選挙の時に結婚発表をした人なのですが。

とにかく〝哲学のことに興味を持っているアイドルがいる〟ということがテレビで取り上げられていて。

その本を手に取って読んでみると確かに中身はあるのですが、僕からすると「これって哲学なのかな?」っていう気もするし

例えば〝ミスチルの歌詞は哲学的だ〟という声を聴いて「そうなのかな?」って思ったり。

人によって哲学のイメージはそれぞれあると思うんです。

例えば、最近でいうと大坂なおみというテニスプレーヤーがいますね。

彼女は全米オープンで優勝していわゆる世界No.1トップアスリートという位置づけだと思うのですが。

例えば、彼女の体力を検査をすると、全ての項目において高得点を出すと思うんですね。

握力、脚力、背筋力、柔軟性、体力…

メジャーリーガーの大谷翔平にしてもそうだと思います。

彼らを「テニスプレーヤーとしてすごい」とか「野球選手としてすごい」ということはあっても、「彼らの基礎体力は高いよね、運動神経すごいよね」っていう話にはならない。

結局何かしらのスポーツで、具体的なルールの中でNo.1という位置づけで。

哲学っていうのはさっき言った〝基礎体力〟という部分に当てはまるんですよ。

嶋津

計量化できないってことですか?

竹下

体力だったら数字で比較できますよね?

50mを何秒で走った、とか。

でも、思考の領域なので比較も適切ではないんですね。

頭の良し悪しという話になると、数値化することは非常に難しい。

議論の中でIQという話も出るのですが、あれは問題を出して一定時間内にいくつ解けるかというある種瞬発力の競技なのでやっぱり違う。

嶋津

問題の処理能力の速さと、頭の良さは確かに違いますね。

先ほどの例でいうと、IQの測定は基礎体力を測るものではなく、テニスや野球などのある特定の競技と同じだ、と。

竹下

IQが高く、処理力があって、様々な難しい事象が理解できるということもあるのですが。

実質、人の2倍頭の回転が速いからといって、頭の回転は遅いけど人の2倍長く仕事ができる人と比べれば結局一緒の話になってきますよね。

だからIQの高低っていうのは、ある程度は関係しているのですがそれも違う。

嶋津

ある程度の枠───つまり、ルールを作ると計りやすいけれど哲学は枠が無い状態だということですか?

竹下

そうですね。

比べるものでもないですね。

説明するのも難しく、聞かれても「どうなんだろう?」と。

こう言ってしまうと元も子もないのですが、僕自身哲学をしているつもりもありません。

NHKのAI入門の番組で哲学者の小林康夫さんは「哲学者は研究しない」と話していました。

それを見た時、僕は「この人、分かってるな」って思って。

「何かこの分野で研究している」とか「このことに対して詳しくなりました」っていうのは全て哲学ではない。

哲学というのは生き方そのものなので。

例えば、「5年間研究をしてこの分野に詳しくなりました」というのは、「テニスを練習して上手くなりました」ということと同じなので、基礎体力の話とは全く別の話になってくるんです。

嶋津

なるほど。

枠の有無に関係なく、基礎体力を育てる学問なんですね。

基礎体力があれば、枠のある場所に行っても馬力が違う。

専門分野になった地点で〝哲学〟の本来のニュアンスからは遠のいている。

竹下

「自分で問いを立てれるか」ということだし、もし自分で問いを立てることができれば、あとは答えがなくともずっとその問題と向き合っていけます。

問い続けること自体が答えみたいなところがありますね。

嶋津

〝哲学とは?〟の話がキャンドルジュンへ行き、須藤梨々花へ行き、大坂なおみへ行き…色々ぐるぐると観光しているようで。

竹下さんと話していると「次はどこへ連れて行ってくれるんだろう?」という楽しみがありますね。

竹下

どこに終わりがあるというわけではなく。

概念デザイナーとは?

竹下

〝デザイン〟という概念をどう捉えるか、によりますが。

僕の知り合いにグラフィックデザイナーがいて、その人の話を聴いていて、「僕が思考の領域でやっていることと非常によく似ているな」という感覚がありました。

デザイナーというのはクライアントから発注を受けて「ポスターを作ってくれ」と言われた時に───イラストを入れたりあれしたりこれしたりしてもいいのだけど───シンプルに言うと〝紙面にフォントを配置する〟というのが仕事なんですよ。

そう考えた時に、フォントというのは、あれは〝フォントを作る人〟が作っている。 デザイナーはフォントを作るわけではなく、〝在り物のフォントを紙面の上に並べているだけ〟なんですね。

「それって誰でもできるよね」と思うのですが、実はそれを〝どういう意図で並べるか〟というところに独自のクリエイティビティがある。

例えば、タイトルをこの位置に、日付をこの位置に……それらには全て理由があって、それこそ真っ白な紙に黒のフォントを並べただけで美しさが表現できたりもする。

ただ、ポイントは何なのかというと〝デザイナーはフォントをただ並べただけで、フォントそのものを作ってない〟んです。

僕がやっていることもそれと非常によく似ていて、僕は特別な概念を作っているわけではなく、概念を並べているだけなんです。

何をどの順番で並べて配置するかというだけで、「これは価値があるんです」というのは自分で言うしかない。

正直、自分で概念を作ることが出来たら格好良いだろうと思います。

ただ、それは難しいし、それをやっている人は山ほどいます。

嶋津

作り手側はたくさんいる、と。

アーティストの数は多い。

竹下

そうです。

フォントそのものを作る人は山ほどいるんだけど、僕はそのようなことはしない。

在り物をただ、A4というさほど大きくない紙の上にきれいに並べる。

それを意図的にして「ここに価値があるんですよ」と声にすることで、何かが変わってくるのではないかと思っています。

嶋津

音楽の世界でいうDJ、美術の世界でいうキュレーターのようなポジションですね?

竹下

そうですね。

ある人は「あなたは何にも作ってないよね」って言うかもしれないけど、並べる作業は決して簡単ではない。

概念をデザインする───まぁ、概念を片付けしているんですよ

だから人の頭の中を整理する、つまり頭の中を片付けることが僕の仕事なわけです。

嶋津

確かに評価を受けるのが難しい仕事ですよね。

関係性を指し示したり、効果的に見せるために配置を考えるということは非常にクリエイティブですが。

別のモノと別のモノが繋がる瞬間の感動というのは匂いなどと同じで目には見えない。

「結局アーティスト(モノを作る側)がすごいんでしょ」っていう風になりがちですもんね。

アートとデザインはいつ分かれたのか?

〈Shikoku Anthroposophie-Kreis HPより〉

竹下

それはとても難しい話です。

例えば、ずっとずっと過去に遡っていってもデザイン的な要素というのはどこにでも存在するんです。

例えば、ポン・デュ・ガール(紀元前19年頃)という橋があります。

フランスがローマに支配されていた時代に作られた水道橋です。

水を運ぶためには水平なものを作らなければいけないので、谷にあたる部分を人口の橋で埋めたわけです。

写真を見て頂けると分かると思うのですが、ただそれだけ(谷を埋めるため)の目的で作った建造物がデザイン的にも美しいということがある、という意味において、おそらくどれほど人類を過去に遡って見てもデザインという行為はあったはずです。

嶋津

確かに、目的以上のことが施されていますね。

竹下

そういう意味では人類は、ずっとデザインをしてきたということもできるのですが、その一方で〝デザイン〟という概念が近代的な意味で使われるようになったのはいつからなのかというと19世紀くらいまで待たないといけない。

それはおそらく大量生産と関わっている。

嶋津

18世紀半ばから19世紀にかけての産業革命以降、ということでしょうか。

そう聴くとかなり最近の話だという印象がありますね。

竹下

僕は過去500年を〝最近〟と呼ぶようにしていて。

大体14~15世紀に人類は大きな一歩───明確な境界線を越えているような感じがしていて、そこで大きく分かれます。

嶋津

ルネサンス以前以降のようなことですか?

竹下

そうですね。

紀元前、以降のような分類として考えて頂いても構わないくらいの大きな変革だと思っています。

嶋津

大きくデザインという意味において変化したのは19世紀。

竹下

分かり易いのは19世紀ですね。

いわゆる大量生産というものが出てきてはじめてデザインというものが必要になってくる。

産業革命はそのさらに1世紀前。

そのあたりでようやく人の考え方に変化が見えてきた。

先ほどのポン・デュ・ガールの話でいうと、「ただ単に水平なものを作ればいいのならば、平らなものを作ればいいじゃないか」ということをやりはじめたんですよ。

そこで「おかしいじゃないか」とデザイン的な動きがはじまった。

嶋津

僕が非常に興味深く思ったのは斧(鍬)の話で。

それまでは職人が斧を作っていたのですが、大量生産以降、それがデザイナーの仕事に変わるという…

竹下

〝手で握るもの〟を作ろうと思ったならば、もともと丸い木を削って、丸い柄にするはずなんです。

それがシンプルな道筋なのですが。

嶋津

自分の手に合いやすいようなものを材料にして作りはじめますよね。

竹下

森に出かけて行って、適度な長さと太さの枝を持って帰る。

それをナイフで削ったら斧の柄になった、というのが自然な行いでした。

ところが大量生産というものが出てくると今度は機械で木の幹を角材として先に伐った方が伐り落とす速さや持ち運びの利便性を考えると効率的ですよね。

そこから角材の角をわざわざ削って斧の柄にするという面倒な工程を踏むようになります。

嶋津

東急ハンズで木材を買ってDIYをする、という。

竹下

そうです。

僕たちにとってそれは全く普通のことで、斧の柄が欲しいなと思ったら東急ハンズに行く。

角材を持ってみたら手が痛い。

じゃあ角を取りましょうかということをやっている。

もともと自然に行けば丸いものがあったはずなのに、一旦四角いものを経由している。

何故かというと、それは木材を人間が伐っていないことによるんです。

機械が伐っているから、全て四角いものになる。

そうなってくると最初に〝人じゃないモノで木を伐り出したのは誰か?〟というと、オランダ人なんですよ。

彼らは風車の力で木を伐った。

嶋津

風のエネルギーを使って?

竹下

そう。

オランダ人は最初、風車が回る力を利用して干拓地の排水をしていたのだけれども、その考えを延長して今度は風車とノコギリを繋げたんですよ。

角材というのはそれ以降でなければ出てこないんです。

だから〝世界最古の角材〟というタイトルだけでも本一冊書けるんですよ。

嶋津

これはとても興味深い視点ですよね。

同一性のある角材の登場によって、デザインをするということに改めて向き合うことになったという。

竹下

そうなってくると人間が自然にやっていたことを機械が仲介することにより、不自然なモノが生まれてくるようになった。

例えば、斧の柄が四角いという妙な状況が出てきて、デザイナーの人がやってきて「これ、丸くしましょうよ」と。

そうするとおもしろいのが、これまではただ単に丸い枝をよくよく考えてみることもなく丸く削っていただけなのですが、「じゃあ本当に手にフィットする丸さって何だろう?」ということを考えはじめるようになるんです。

つまり、丸い枝を使って斧の柄を削っていた時とは違う向き合い方になってくるんですよね。

例えばカーブの曲線についてどのような数学的な関数であれば一番いいのか、ということを研究しはじめる人が出てきたりする。

ある種、自然な人間の向き合い方から一旦離れた時に、離れた距離を埋めるために強制的に思考で穴を埋めようとするんです。

埋めた時に元の場所に戻ってくるのではなくて、〝少しだけ違うところに着地する〟というのが僕にとってのデザインです。

世界初のデザイナーと呼ばれたウィリアム・モリスという人がいます。

彼もまた19世紀の人間で、もう少し正確に言えば〝世界最初の工業デザイナー〟と呼ばれているのですが。

例えば彼の活動を見ていておもしろいのは、「一般的に失われてしまった職人気質をいかに取り戻すのか?」という懐古主義めいた運動をするんですね。

それも確かに間違っていなくて、機械が登場して、山のように安いものができたことによって失われたもの───昔は誰もが自然にやっていたことなのですが───それをもう一度取り戻そう、というムーブメントに繋がっていく。

機械がモノを作る前は職人がモノを作っていたわけだから、当然〝職人〟がデザイナーの元だということになる。

そして実は、その職人というところから一歩外に派生したのがアーティストなんです。

嶋津

〝職人〟からデザイナーとアーティストが生まれた、と。

竹下

そう、でも本人たちにはそのつもりもなかったと思います

今回の『Art de Vivre』の中の〝Art〟という言葉もそうだと思うのですが、これは〝技術〟や〝技法〟と訳されますよね。

フランス語で〝atelier(アトリエ)〟という言葉がありますが、これは〝工房〟という意味です。

つまり、「木を削って家具を作っています」というのも工房(アトリエ)だし、「キャンバスに思い思いの絵を描いています」ということも工房(アトリエ)だということは、出所は全く同じなんですね。

嶋津

今ですと、〝工房〟には職人さん、〝アトリエ〟にはアーティストのイメージが強くありますね。

元は同じだったんですね。

因みに先ほどの角材の話はどこから着想を得たのでしょうか?

竹下

あれは僕が勝手に考えたお話です。

作り話といえば作り話です。

要するに物事を説明するためには時として〝嘘〟ではないですが、自分で想定した物語を作る必要があります。

嶋津

事実を並べて、仮説を立てる───それが物語になる。

ある意味それもキュレーションですよね。

事実を並べて時代の中で物語にしている。

竹下

そうですね。

僕はデザイナーと言いましたが、実はこのような作り話をしている時はこっそり僕はアーティストなんですよね。

落語から見た哲学。

〈嶋津亮太〉

嶋津

僕、落語が好きで、立川談志が僕の中のアイドルなんですね。

そこに『やかん』という演目がありまして。

僕はこの噺が「哲学的だなぁ」と思うんですね。

お馴染みの長屋に何でも知っているご隠居さんがいて、それを若者が質問攻めするというシンプルなネタです。

例えば、「世界で一番大きな動物は?」なんていうある種、挑戦的な質問をするんですね。

竹下さんならどういう風に答えます?

竹下

僕だったらシロナガスクジラって言いますよ。

体長30m、それ以上大きな哺乳類動物は存在しない。

あるいはオレゴン州の東部で発見されたオニナラタケというキノコ(カビ)。

この大きさが3km四方だって言うんですね。

シロナガスクジラよりも2ケタ大きいわけですよ。

ここで問題になるのが、これだけ大きい生物に対してクジラと同じ〝ひとつ〟という概念を使っていいのかという…

嶋津

ちょっと落語の話に戻しますね。

ご隠居は「ゾウだ」って答える。

でも竹下さんの仰る通り、クジラが正解なので若者はしてやったりなんです。

ただ、おもしろいのはご隠居は正解が〝クジラ〟だって知っているんですよ。

でも落語の中で、まともなことを言っても仕方がないですよね。

まさに竹下さんが今、カビの話をして一般論からズラして聴き手の好奇心をくすぐったように。

「クジラ」と言えば話が終わってしまうので、ご隠居は「ゾウ」と答える。

すると若者は「ゾウより大きな動物がいますよ」って。

じゃあ隠居はすかさず「いるよ、大きなゾウだ。それより大きなのはもっと大きなゾウ。それよりも大きなのはもっともっと大きなゾウ」

竹下

なるほど。

嶋津

「もっともっと……思考ストップするまで大きなゾウだ。思考ストップは早い方がいい」って。

若者が「クジラがいますよ」って食い下がると、「あれは魚だろ?漁業で扱っているんだから」って。

そういうズラシで進んでいくんです。

例えば、「雷は電気ですか?」と若者が訊くとご隠居さんは「電気じゃない、ランプの頃からあった、もっと言うとロウソクの頃から。エレクトロニクスなんて最近できたもんだろ?」って。

その中で言葉の定義が出てきます。

「勉強とは何ですか?」の問いに「貧乏人の暇つぶし」。

「夢とは何ですか?」には「馬鹿に与えられた夢」。

「上品とは?」には「欲望に対する動きがスローモーな奴のこと」。

という定義の遊び方もおもしろいのですが、ご隠居さんが「太陽はバカだ」って言っていたところが実に良くて。

彼は「あんなの昼間出てきてどうするんだ、眩しくってしょうがない。夜出てこいよ。だから馬鹿だ」って言うんです。

これ、本末転倒なんですけど、その観点っていうのがもしかして哲学の考え方と似ているんじゃないかって。

つまり、常識を改めて見つめ直すという。

落語なので、おかしなことを言っているのですが、でも太陽について「なぜ夜出てこないんだ?」という発想は、枠の外へと思考を飛ばしてくれると思うんです。

Unlearn(アンラーン)という言葉があります。

これはGoogleの企業文化の一つでもあって、〝常識を一度脇に置いて、物事を見直してみること〟という意味があります。

古い学びや価値観をアンラーンする。

落語の『やかん』はまさにそれを意図的にユーモアで展開させていく。

哲学にはそのような面があるのではないか、竹下さんの話を聴いて、落語を通して僕はそう感じました。

竹下

お笑い芸人の友近さんは太陽がくるっとひっくり返ったら月になると思っていたらしくて。

そういうのって僕からしたらミステリーで。

小学生でも習いますよね。

太陽が中心にあって、星たちはその周りを動いていて…いわゆる地動説的なものをイメージしているはずなのに。

どこで配線を間違えたら〝太陽がひっくり返って月になる〟ということになるのかな?と思ったら、その人のその他の世界観が知りたくなる。

少し前にコリン星っていうのがあったじゃないですか?

嶋津

ありましたね。

小倉優子さんが言っていた。

今、彼女は否定されていますけどw

竹下

僕はまだコリン星にロマンを求めていて、先が聴きたいですよね。

確か家は全部お菓子でできていて、家のブロックがチョコレートなんですよ。

あと、湖がゼリーだとか。

それが一つ一つ聞きたくて。

そうなってくると、そういう世界の通貨がどういうものなのかとか、新聞はあるのかとか全部気になってくる。

嶋津

ゆうこりんのお話と先ほどのポン・デュ・ガールのお話を同じ熱量でされるんですね!

そこがすごくおもしろいww

竹下

この人どこまで話を詰めているのだろう?って。

根掘り葉掘り聞きたいですよね。

「どこで破綻するんだろう?」とか「ひょっとしたら本当に破綻しないんじゃないか?」とか。

思考の技法。

嶋津

竹下さんは哲学者ということですから、普段気を付けていること、ヒントなどありましたら教えてください。

『Art de Vivre』ということですので、生活の中のちょっとした技法などがあれば。

竹下

先ほどの立川談志の『やかん』がすごくおもしろいなぁと思って。

ある種それは哲学的だとも言えるんだけど、僕からすれば〝回り道〟ということもできて、ご隠居はわざと自分が間違っている方向に行っているわけですよね。

そうやって、「本当のことって何だろう?」っていう形で間接的にクリアにする方法もあるのだけど、僕だったら直線的に行きますね。

実際やってみれば分かると思うんだけど、真っ直ぐ正解を見つけようと思ってもそう簡単には見つからない。

もちろん思考の訓練としては先ほどのご隠居のような方法もありますが、僕が思うに質問を投げかける立場の方が賢い可能性がある。

「つまり、この人はどれだけ屁理屈で世界観を動かさずにやっているのか」っていうのを見ているという可能性です。

嶋津

思考の訓練をするならば質問側に回るといい、と。

竹下

そうですね、僕はどちらかというと聴き手ですね。

実際にやってみて分かるのが質問して相手の言う事を聴いても、話が成立していない場合が実に多い。

つまり、相手の言葉を聴いていないんですよ。

5年ほど前のことですがテレビ番組でのワンシーンが今でも記憶に残っていて。

それを見た時に「あ、これは僕が毎日やっていることだ」って思ったことがあったんです。

ジャニーズの嵐の番組に女優の忽那汐里さんという方がゲストで出演されていて。

とても美しい方で、当時で20歳くらいでしょうか。

彼女は帰国子女なんですね。

「好きな食べ物を紹介する」というコーナーがあり、彼女はオーストラリアに住んでいたのでウィートビックス(Weet-Bix)というほとんど味のないオートミールのようなものを持ってきたんですね。

それに牛乳を注いで食べる。

その時に彼女はこう言ったんですね。

「これは全然美味しくないんです。ただ、牛乳をかけて食べるとオーストラリアにいたあの頃を思い出してやっぱりこれだなっていう気持ちになるんです」

つまり、「格別美味しいわけではないのだけど、これが私の日常です」という紹介をしたんですね。

嵐のメンバーがそれを食べるんですけど、当然美味しくないから「まぁ、ね」みたいな薄いリアクションなんです。

すると、そばに蜂蜜やジャムといったトッピングが置いてあったのを嵐の一人が見つけて、蜂蜜入れて食べて「うまい、食べてみて」って言ったんです。

忽那汐里さんはその味を知っているから「いや、いいです」って答えたんですね。

そうすると隣の他のメンバーが食べて「うまい、食べてみて」ってまた同じことを繰り返した。

忽那さんはまた「いいです」って…。

その時に画面にテロップで「頑固な20歳」みたいな文字が出て笑いに変えていたんですけど、「あ、これは僕が毎日やっていることだ」と思ったんです。

嶋津

と、言いますと?

竹下

忽那さんは最初に「これは美味しくない」って説明しているんです。

決して美味しいものではないし、ジャムを入れたり蜂蜜を入れた味を知っているけど、私は牛乳だけのプレーンの美味しくないものが一番好きなんです、と。

彼女は、それがオーストラリアでの日常を思い出すから好きなんです。

なのに嵐のメンバーはその話を置いておいて、美味しいか美味しくないかっていう話題に変えようとしたんです。

嶋津

両者の中でテーマがズレているんですね。

竹下

彼らは口に入れた瞬間に美味しいと思ったから一緒に食べてみてっていう非常に直接的な反応を指し示していて。

彼女は、それを「知っているからいいです」と断ったにも関わらず、30秒経たないうちに隣の人が全く同じことをやった。

もちろんテレビ的に、ちょっと食べさせて「おいしい」みたいなことをやれば場は和んだことでしょう。

嵐の人がやったことが女優に伝わったという絵が撮れる。

だけど、それをしてしまうと彼女がその前に言った説明が全部嘘だということになる。

彼女は「蜂蜜もジャムも入れないシンプルなウィ―トビックスが好きなんです」っていうことを言っていた。

それを前提に紹介をした。

嶋津

色んな正義がそこにはあって。

嵐の場合は「番組をおもしろくしよう」という方向にベクトルが向いていて。

全員がちょっとずつズレているという。

竹下さんのように引いた位置から関係性を見ると非常におもしろいですね。

竹下

そうそう。

彼らはおそらく人の話を聴かない人ではないんですよ。

最初に食べた時の反応が悪かったものだからそれをイーブンにしようと思ってやったことだとか。

色々あると思うんですよ彼らなりに。

ただ、忽那さんの最初の説明を踏まえた上でも〝テレビ的に面白いコメント〟をすることは全く可能です。

例えば1人目が「あ〜俺、舌がお子ちゃまだから汐里ちゃんの言ってる良さが全然わかんね〜わ〜」そして2人目が「いや、俺は何となく分かるよ。オーストラリアのおふくろの味ってこんなかんじなのかなって。別に美味くはないけど、なんかまた食べたくなるっつ〜か…」。

つまりナチュラルに「ウマイ!」とは言えないけど、分かろうとしている姿勢を見せれば良かったわけです。

ところが彼らは蜂蜜やジャムを混ぜて、自分がナチュラルに「ウマイ!」と言える状況を〝人工的に〟作ったんですよ。

これは以外と複雑な問題です。

つまり嵐のメンバーにとっては蜂蜜を入れることが普通のこと、自然なことなのですが忽那さんにとっては蜂蜜を入れないことが普通のこと、自然なことなんです。

そうなると嵐のメンバーが忽那さんを〝理解する〟ということは、彼らにとって〝ナチュラルな反応〟以上のことをする、ということになるんですね。

ところが、この番組では自分がナチュラルな段階に立ち止まれるために、結果的には忽那さんにとってのナチュラルな状況を否定したわけですよ。

嶋津

ナチュラルな反応以上のこと、というのは?

竹下

よりシンプルに、別の言葉を使えば、「人の話を聴いているか」ということです。

先ほどの話の中の人たちは、話を全く聴いていないんです。

別に彼らが悪いというわけではなく、僕は日常的に似たようなことがよくあります。

これが不思議だなって思っていて。

普段色んな講演会に行って話をするわけですが、どのような話をしても───生活から直接的なものでも、直接的でないものでも───ほとんどの人は自分の延長線上でしか体験していないんです。

僕が話したからそのことに気が付いたということではなく、もともと自分がそうだと思っていたということを「私はそうだと思っていた」という反応しか見せようとしない。

別に自分の枠を壊す必要はないのですが、「どうして自分を変えることに興味がないんだろう?」と思います。

嶋津

変わりたがらない。

変わるのが怖い。

または、そもそも変わるとは思っていない。

様々な理由はあるとは思うのですが、相手の言っていることを都合の良い部分しか聴いていない、という。

納得できる点に共感したいだけなのでしょうか?

竹下

あるいは「あなたがこう仰るのであれば、これはこうじゃないですか?」と投げかけてくれれば「僕はこう思うんですよね」という話に展開して、相手も気が付いていなかった点に移っていくかもしれないんですよ。

それがよく言う〝化学反応〟という話で。

酸素と水素は別人ですが、それが水という全く違うものを生み出しますよね。

どうして会話でそれを楽しもうとしないのかっていう。

嶋津

そこまで考えてみるとかなりおもしろいですね。

 

竹下さんの話にはどれも生活の中に哲学があって。

もっというと、哲学そのものが生活で。

あらゆる物事、現象を竹下さんのフィルターを通して眺めてみると、全く違った景色に映るように思います。

つまり、どの瞬間にも〝考えるきっかけ〟は存在しているのでしょう。

また次のご来店を。

***

竹下哲生:/Tezuo Takeshita(Shikoku Anthroposophie-Kreis代表)

1981年に香川県に生まれ、2000年渡独。南ドイツでの酪農実習を経て2002年にキリスト者共同体の自由大学に入学。しかし2004年の体調不良により司祭叙階を断念し帰国。以来、参加者の疑問に答えるという形式の講座(概念デザイン)を日本各地で開催。哲学的・神学的立場から学際的な思考を展開し、得意とする分野は教育・歴史・化学・農業・芸術・西洋近代史・現代文化批評など多岐に亘る。また講演活動の傍ら、翻訳・通訳業も熟す。著書には入間カイとの共著『親の仕事、教師の仕事――教育と社会形成』、訳書にはミヒャエル・デーブスの『三位一体』上下巻やリューダー・ヤッヘンスの『アトピー性皮膚炎の理解』など多数。

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