Art de Vivre 1


とあるバーにてささやかな対談が開かれました。

その店の名は『Art de Vivre(アールドヴィーヴル)』

───意味は〝生活の芸術〟や〝暮らしの技法〟。

この場所では、生活をアートによって豊かにする、そんなヒントが対話の中から発見されます。

バーテンダーは作家であり、この『教養のエチュード』の編集長でもある嶋津亮太。

そして常連のお客様は哲学者であり概念デザイナーの竹下哲生さん。

それでは対談の様子をお楽しみくださいませ。

哲学って何?

嶋津

竹下さんは哲学者であるわけですが。

無茶な質問だとは分かっていますが、第一回目なのであえて訊きます。

哲学とは何でしょう?

竹下

一応僕は〝哲学者〟ということになっていますが、大学で哲学を学んだわけでもなく、若干僕にとって重荷なのは自分の名前です。

Candle JUNE(キャンドルジュン)という人がいて、彼はキャンドルアーティストとしての肩書があるのですが、あの人がすごいと思うのが名前に職業が入っているということなんですね。

僕がどこかの電気屋で働いていたとして、キャンドルジュンがシーリングライトを買いに来たら笑いが止まらないと思うんですよ。

あるいは小洒落たインテリアショップで働いていたとして、キャンドルジュンがキャンドルを買って帰ったというと。

そういうことを考えると名前に職業が入っているのは超ハードルが高いなと思っていて。

僕の〝哲生〟という名前も哲学に生きるという名を与えられたがために、ハードルを上げてしまっているというところがあって。

嶋津

確かに〝名は体を表す〟と言いますか「哲学者として生まれてきた」という印象にどうしてもなってしまいますよね。

竹下

よく言われます。

「素敵なお名前ですね、誰がつけてくれたんですか?」と。

父は哲学が苦手だったらしく、自分の苦手なものを子どもにやってしまえという。

そういう勢いでやったところがあって。

嶋津

好きなものではなく、苦手なものだったんですか?

〈竹下哲生〉

周りから浮き彫りにしていく言葉の定義。 竹下さんの言葉のコントロールテクニックは実に鮮やかだ。

竹下

元NMB48 の須藤梨々花という人が哲学書を出していて。

ずっと後になって総選挙の時に結婚発表をした人なのですが。

とにかく〝哲学のことに興味を持っているアイドルがいる〟ということがテレビで取り上げられていて。

その本を手に取って読んでみると確かに中身はあるのですが、僕からすると「これって哲学なのかな?」っていう気もするし

例えば〝ミスチルの歌詞は哲学的だ〟という声を聴いて「そうなのかな?」って思ったり。

人によって哲学のイメージはそれぞれあると思うんです。

例えば、最近でいうと大坂なおみというテニスプレーヤーがいますね。

彼女は全米オープンで優勝していわゆる世界No.1トップアスリートという位置づけだと思うのですが。

例えば、彼女の体力を検査をすると、全ての項目において高得点を出すと思うんですね。

握力、脚力、背筋力、柔軟性、体力…

メジャーリーガーの大谷翔平にしてもそうだと思います。

彼らを「テニスプレーヤーとしてすごい」とか「野球選手としてすごい」ということはあっても、「彼らの基礎体力は高いよね、運動神経すごいよね」っていう話にはならない。

結局何かしらのスポーツで、具体的なルールの中でNo.1という位置づけで。

哲学っていうのはさっき言った〝基礎体力〟という部分に当てはまるんですよ。

嶋津

計量化できないってことですか?

竹下

体力だったら数字で比較できますよね?

50mを何秒で走った、とか。

でも、思考の領域なので比較も適切ではないんですね。

頭の良し悪しという話になると、数値化することは非常に難しい。

議論の中でIQという話も出るのですが、あれは問題を出して一定時間内にいくつ解けるかというある種瞬発力の競技なのでやっぱり違う。

嶋津

問題の処理能力の速さと、頭の良さは確かに違いますね。

先ほどの例でいうと、IQの測定は基礎体力を測るものではなく、テニスや野球などのある特定の競技と同じだ、と。

竹下

IQが高く、処理力があって、様々な難しい事象が理解できるということもあるのですが。

実質、人の2倍頭の回転が速いからといって、頭の回転は遅いけど人の2倍長く仕事ができる人と比べれば結局一緒の話になってきますよね。

だからIQの高低っていうのは、ある程度は関係しているのですがそれも違う。

嶋津

ある程度の枠───つまり、ルールを作ると計りやすいけれど哲学は枠が無い状態だということですか?

竹下

そうですね。

比べるものでもないですね。

説明するのも難しく、聞かれても「どうなんだろう?」と。

こう言ってしまうと元も子もないのですが、僕自身哲学をしているつもりもありません。

NHKのAI入門の番組で哲学者の小林康夫さんは「哲学者は研究しない」と話していました。

それを見た時、僕は「この人、分かってるな」って思って。

「何かこの分野で研究している」とか「このことに対して詳しくなりました」っていうのは全て哲学ではない。

哲学というのは生き方そのものなので。

例えば、「5年間研究をしてこの分野に詳しくなりました」というのは、「テニスを練習して上手くなりました」ということと同じなので、基礎体力の話とは全く別の話になってくるんです。

嶋津

なるほど。

枠の有無に関係なく、基礎体力を育てる学問なんですね。

基礎体力があれば、枠のある場所に行っても馬力が違う。

専門分野になった地点で〝哲学〟の本来のニュアンスからは遠のいている。

竹下

「自分で問いを立てれるか」ということだし、もし自分で問いを立てることができれば、あとは答えがなくともずっとその問題と向き合っていけます。

問い続けること自体が答えみたいなところがありますね。

嶋津

〝哲学とは?〟の話がキャンドルジュンへ行き、須藤梨々花へ行き、大坂なおみへ行き…色々ぐるぐると観光しているようで。

竹下さんと話していると「次はどこへ連れて行ってくれるんだろう?」という楽しみがありますね。

竹下

どこに終わりがあるというわけではなく。

概念デザイナーとは?

竹下

〝デザイン〟という概念をどう捉えるか、によりますが。

僕の知り合いにグラフィックデザイナーがいて、その人の話を聴いていて、「僕が思考の領域でやっていることと非常によく似ているな」という感覚がありました。

デザイナーというのはクライアントから発注を受けて「ポスターを作ってくれ」と言われた時に───イラストを入れたりあれしたりこれしたりしてもいいのだけど───シンプルに言うと〝紙面にフォントを配置する〟というのが仕事なんですよ。

そう考えた時に、フォントというのは、あれは〝フォントを作る人〟が作っている。 デザイナーはフォントを作るわけではなく、〝在り物のフォントを紙面の上に並べているだけ〟なんですね。

「それって誰でもできるよね」と思うのですが、実はそれを〝どういう意図で並べるか〟というところに独自のクリエイティビティがある。

例えば、タイトルをこの位置に、日付をこの位置に……それらには全て理由があって、それこそ真っ白な紙に黒のフォントを並べただけで美しさが表現できたりもする。

ただ、ポイントは何なのかというと〝デザイナーはフォントをただ並べただけで、フォントそのものを作ってない〟んです。

僕がやっていることもそれと非常によく似ていて、僕は特別な概念を作っているわけではなく、概念を並べているだけなんです。

何をどの順番で並べて配置するかというだけで、「これは価値があるんです」というのは自分で言うしかない。

正直、自分で概念を作ることが出来たら格好良いだろうと思います。

ただ、それは難しいし、それをやっている人は山ほどいます。

嶋津

作り手側はたくさんいる、と。

アーティストの数は多い。

竹下

そうです。

フォントそのものを作る人は山ほどいるんだけど、僕はそのようなことはしない。

在り物をただ、A4というさほど大きくない紙の上にきれいに並べる。

それを意図的にして「ここに価値があるんですよ」と声にすることで、何かが変わってくるのではないかと思っています。

嶋津

音楽の世界でいうDJ、美術の世界でいうキュレーターのようなポジションですね?

竹下

そうですね。

ある人は「あなたは何にも作ってないよね」って言うかもしれないけど、並べる作業は決して簡単ではない。

概念をデザインする───まぁ、概念を片付けしているんですよ

だから人の頭の中を整理する、つまり頭の中を片付けることが僕の仕事なわけです。

嶋津

確かに評価を受けるのが難しい仕事ですよね。

関係性を指し示したり、効果的に見せるために配置を考えるということは非常にクリエイティブですが。

別のモノと別のモノが繋がる瞬間の感動というのは匂いなどと同じで目には見えない。

「結局アーティスト(モノを作る側)がすごいんでしょ」っていう風になりがちですもんね。

アートとデザインはいつ分かれたのか?

〈Shikoku Anthroposophie-Kreis HPより〉

竹下

それはとても難しい話です。

例えば、ずっとずっと過去に遡っていってもデザイン的な要素というのはどこにでも存在するんです。

例えば、ポン・デュ・ガール(紀元前19年頃)という橋があります。

フランスがローマに支配されていた時代に作られた水道橋です。

水を運ぶためには水平なものを作らなければいけないので、谷にあたる部分を人口の橋で埋めたわけです。

写真を見て頂けると分かると思うのですが、ただそれだけ(谷を埋めるため)の目的で作った建造物がデザイン的にも美しいということがある、という意味において、おそらくどれほど人類を過去に遡って見てもデザインという行為はあったはずです。

嶋津

確かに、目的以上のことが施されていますね。

竹下

そういう意味では人類は、ずっとデザインをしてきたということもできるのですが、その一方で〝デザイン〟という概念が近代的な意味で使われるようになったのはいつからなのかというと19世紀くらいまで待たないといけない。

それはおそらく大量生産と関わっている。

嶋津

18世紀半ばから19世紀にかけての産業革命以降、ということでしょうか。

そう聴くとかなり最近の話だという印象がありますね。

竹下

僕は過去500年を〝最近〟と呼ぶようにしていて。

大体14~15世紀に人類は大きな一歩───明確な境界線を越えているような感じがしていて、そこで大きく分かれます。

嶋津

ルネサンス以前以降のようなことですか?

竹下

そうですね。

紀元前、以降のような分類として考えて頂いても構わないくらいの大きな変革だと思っています。

嶋津

大きくデザインという意味において変化したのは19世紀。

竹下

分かり易いのは19世紀ですね。

いわゆる大量生産というものが出てきてはじめてデザインというものが必要になってくる。

産業革命はそのさらに1世紀前。

そのあたりでようやく人の考え方に変化が見えてきた。

先ほどのポン・デュ・ガールの話でいうと、「ただ単に水平なものを作ればいいのならば、平らなものを作ればいいじゃないか」ということをやりはじめたんですよ。

そこで「おかしいじゃないか」とデザイン的な動きがはじまった。

嶋津

僕が非常に興味深く思ったのは斧(鍬)の話で。

それまでは職人が斧を作っていたのですが、大量生産以降、それがデザイナーの仕事に変わるという…

竹下

〝手で握るもの〟を作ろうと思ったならば、もともと丸い木を削って、丸い柄にするはずなんです。

それがシンプルな道筋なのですが。

嶋津

自分の手に合いやすいようなものを材料にして作りはじめますよね。

竹下

森に出かけて行って、適度な長さと太さの枝を持って帰る。

それをナイフで削ったら斧の柄になった、というのが自然な行いでした。

ところが大量生産というものが出てくると今度は機械で木の幹を角材として先に伐った方が伐り落とす速さや持ち運びの利便性を考えると効率的ですよね。

そこから角材の角をわざわざ削って斧の柄にするという面倒な工程を踏むようになります。

嶋津

東急ハンズで木材を買ってDIYをする、という。

竹下

そうです。

僕たちにとってそれは全く普通のことで、斧の柄が欲しいなと思ったら東急ハンズに行く。

角材を持ってみたら手が痛い。

じゃあ角を取りましょうかということをやっている。

もともと自然に行けば丸いものがあったはずなのに、一旦四角いものを経由している。

何故かというと、それは木材を人間が伐っていないことによるんです。

機械が伐っているから、全て四角いものになる。

そうなってくると最初に〝人じゃないモノで木を伐り出したのは誰か?〟というと、オランダ人なんですよ。

彼らは風車の力で木を伐った。

嶋津

風のエネルギーを使って?

竹下

そう。

オランダ人は最初、風車が回る力を利用して干拓地の排水をしていたのだけれども、その考えを延長して今度は風車とノコギリを繋げたんですよ。

角材というのはそれ以降でなければ出てこないんです。

だから〝世界最古の角材〟というタイトルだけでも本一冊書けるんですよ。

嶋津

これはとても興味深い視点ですよね。

同一性のある角材の登場によって、デザインをするということに改めて向き合うことになったという。

竹下

そうなってくると人間が自然にやっていたことを機械が仲介することにより、不自然なモノが生まれてくるようになった。

例えば、斧の柄が四角いという妙な状況が出てきて、デザイナーの人がやってきて「これ、丸くしましょうよ」と。

そうするとおもしろいのが、これまではただ単に丸い枝をよくよく考えてみることもなく丸く削っていただけなのですが、「じゃあ本当に手にフィットする丸さって何だろう?」ということを考えはじめるようになるんです。

つまり、丸い枝を使って斧の柄を削っていた時とは違う向き合い方になってくるんですよね。

例えばカーブの曲線についてどのような数学的な関数であれば一番いいのか、ということを研究しはじめる人が出てきたりする。

ある種、自然な人間の向き合い方から一旦離れた時に、離れた距離を埋めるために強制的に思考で穴を埋めようとするんです。

埋めた時に元の場所に戻ってくるのではなくて、〝少しだけ違うところに着地する〟というのが僕にとってのデザインです。

世界初のデザイナーと呼ばれたウィリアム・モリスという人がいます。

彼もまた19世紀の人間で、もう少し正確に言えば〝世界最初の工業デザイナー〟と呼ばれているのですが。

例えば彼の活動を見ていておもしろいのは、「一般的に失われてしまった職人気質をいかに取り戻すのか?」という懐古主義めいた運動をするんですね。

それも確かに間違っていなくて、機械が登場して、山のように安いものができたことによって失われたもの───昔は誰もが自然にやっていたことなのですが───それをもう一度取り戻そう、というムーブメントに繋がっていく。

機械がモノを作る前は職人がモノを作っていたわけだから、当然〝職人〟がデザイナーの元だということになる。

そして実は、その職人というところから一歩外に派生したのがアーティストなんです。

嶋津

〝職人〟からデザイナーとアーティストが生まれた、と。

竹下

そう、でも本人たちにはそのつもりもなかったと思います

今回の『Art de Vivre』の中の〝Art〟という言葉もそうだと思うのですが、これは〝技術〟や〝技法〟と訳されますよね。

フランス語で〝atelier(アトリエ)〟という言葉がありますが、これは〝工房〟という意味です。

つまり、「木を削って家具を作っています」というのも工房(アトリエ)だし、「キャンバスに思い思いの絵を描いています」ということも工房(アトリエ)だということは、出所は全く同じなんですね。

嶋津

今ですと、〝工房〟には職人さん、〝アトリエ〟にはアーティストのイメージが強くありますね。

元は同じだったんですね。

因みに先ほどの角材の話はどこから着想を得たのでしょうか?

竹下

あれは僕が勝手に考えたお話です。

作り話といえば作り話です。

要するに物事を説明するためには時として〝嘘〟ではないですが、自分で想定した物語を作る必要があります。

嶋津

事実を並べて、仮説を立てる───それが物語になる。

ある意味それもキュレーションですよね。

事実を並べて時代の中で物語にしている。

竹下

そうですね。

僕はデザイナーと言いましたが、実はこのような作り話をしている時はこっそり僕はアーティストなんですよね。

落語から見た哲学。

〈嶋津亮太〉

嶋津

僕、落語が好きで、立川談志が僕の中のアイドルなんですね。

そこに『やかん』という演目がありまして。

僕はこの噺が「哲学的だなぁ」と思うんですね。

お馴染みの長屋に何でも知っているご隠居さんがいて、それを若者が質問攻めするというシンプルなネタです。

例えば、「世界で一番大きな動物は?」なんていうある種、挑戦的な質問をするんですね。

竹下さんならどういう風に答えます?

竹下

僕だったらシロナガスクジラって言いますよ。

体長30m、それ以上大きな哺乳類動物は存在しない。

あるいはオレゴン州の東部で発見されたオニナラタケというキノコ(カビ)。

この大きさが3km四方だって言うんですね。

シロナガスクジラよりも2ケタ大きいわけですよ。

ここで問題になるのが、これだけ大きい生物に対してクジラと同じ〝ひとつ〟という概念を使っていいのかという…

嶋津

ちょっと落語の話に戻しますね。

ご隠居は「ゾウだ」って答える。

でも竹下さんの仰る通り、クジラが正解なので若者はしてやったりなんです。

ただ、おもしろいのはご隠居は正解が〝クジラ〟だって知っているんですよ。

でも落語の中で、まともなことを言っても仕方がないですよね。

まさに竹下さんが今、カビの話をして一般論からズラして聴き手の好奇心をくすぐったように。

「クジラ」と言えば話が終わってしまうので、ご隠居は「ゾウ」と答える。

すると若者は「ゾウより大きな動物がいますよ」って。

じゃあ隠居はすかさず「いるよ、大きなゾウだ。それより大きなのはもっと大きなゾウ。それよりも大きなのはもっともっと大きなゾウ」

竹下

なるほど。

嶋津

「もっともっと……思考ストップするまで大きなゾウだ。思考ストップは早い方がいい」って。

若者が「クジラがいますよ」って食い下がると、「あれは魚だろ?漁業で扱っているんだから」って。

そういうズラシで進んでいくんです。

例えば、「雷は電気ですか?」と若者が訊くとご隠居さんは「電気じゃない、ランプの頃からあった、もっと言うとロウソクの頃から。エレクトロニクスなんて最近できたもんだろ?」って。

その中で言葉の定義が出てきます。

「勉強とは何ですか?」の問いに「貧乏人の暇つぶし」。

「夢とは何ですか?」には「馬鹿に与えられた夢」。

「上品とは?」には「欲望に対する動きがスローモーな奴のこと」。

という定義の遊び方もおもしろいのですが、ご隠居さんが「太陽はバカだ」って言っていたところが実に良くて。