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SUPERSALT─結晶化された思想として─


2018年5月───4年振りにリリースしたアルバム『SUPERSALT』

呂布カルマの神々しい〝声〟による浮遊感。

肉をえぐるような鋭利な言葉。

毒された叡智。

哲学的言葉はシンプルで、その文学的配置は美しく、明確な意志によってデザインされた〝難解〟がこの作品の芸術性を高めている。

矛盾を孕んだ一つの宇宙。

まさに〝天国〟と〝地獄〟が同居するような作品だ。

この場合の〝矛盾〟とは〝要素〟のことであり、〝思考〟のことではない。

〝思考〟───彼の〝哲学〟は至ってシンプルである。

それは〝意図的に〟理解不能かつ、極端かつ、美しく、置き換えられているに過ぎない。

聴き手の相容れない感情が、クロスした瞬間に途轍もない衝撃が生まれる。

ある者は涙し、ある者は快楽に溺れ、ある者は嘔吐する。

 

今回、『SUPERSALT』の作者であるラッパーの呂布カルマ氏にインタビューをした。

彼の鋭利な言葉と重厚な思想の根源───この文章がそれらの〝謎〟を紐解く手助けになるかもしれない。

リリース記念に開催されたトークイベントの模様も掲載可能な範囲内で書き記す(口外禁止のため)。

〝ぶっ飛んだファンタジーはジョージルーカス

俺のバースの中に龍が住む───<メヲミテミナ>〟

SUPERSALT.

まずはアルバムについて。

今作は紛れもないマスターピースだ。

闇のように重いビート───〝闇〟に孕ませたラグジュアリーはそれだけで美しく。

その深い陰翳の中へ呂布カルマの〝神々しい声〟広がっていく。

彼の声には奇妙な〝音響効果〟があり、フロートしながら膨張する性質を持つ。

雲の中で光る雷のようで、それは独特の響きとなり、言葉を届ける。

ビートと絡み合いながら拡がる〝声〟の響きと、心地良いライムが生む律動、そして言葉───。

詩的かつ、映像的なその言語感覚。

楽曲は「建築物から可能な限り〝柱〟を抜き取った」ような構造をしている。

それが〝難解さ〟を生んでいるのだが、ライム(韻)が分断された光景を繋げ、連続的に流れ始めた瞬間、その世界の中へ引きずり込まれる。

足りない〝言葉〟を聴き手の想像力が埋め、物語化する。

ゆえに、聴き手の経験値(ラップではなく人生の)にある種委ねられた要素でもある。

的確かつ深度の高い言葉の文学的配置は、呂布カルマにしか成し得ない業である。

嶋津

満を持しての『SUPERSALT』のリリースですが、この4年という歳月はアルバム作りにおいてどのような時間だったのでしょうか?

カルマ

僕は「アルバムを作ろう」と思って制作するのではなく、「曲が溜まったらその時点で出す」という形でやってきていて。

今回の作品は14曲入っているのですが、「14曲溜まるのに4年近くかかった」という感じですね。

嶋津

以前までの作品と異なる点は?

カルマ

リリックは変わっていないんですけど、生活環境が変わっていて。

前作(『The Cool Core』)と明らかに違う点は〝子どもを持った〟ということ。

それから、前作まではラップ以外の仕事をしながらリリックを書いていました。

〝本職に勤めながら副業的に書いていた〟というのと、今回は4年のうちの後半2年はラップ一本で生活していたのでその差はあるかな、と。

嶋津

因みにお子さんはいつお生まれになったのでしょうか?

カルマ

3年前です。

『The Cool Core』が出て、1、2年経って娘が生まれたくらいに前職をクビになって…

嶋津

クビになったんですか?

カルマ

その時は、製薬会社で配送の仕事をしていたのですが、小さな違反を重ねて長期の免停になってしまい。

一日中トラックに乗っている仕事だったので。

嶋津

配送は車に乗れないと仕事になりませんものね。

カルマ

ちょうどそれが子どもの生まれるタイミングだったので、「これから子どもを育てていくために、定年までトラックに乗るというのは体力的にも難しい。これが良いタイミングだと思う」という感じで、なんとなく妻を言いくるめて転職しました。

それから営業職に移って、塾に勤めるようになりました。

塾で働きはじめて1年くらいの頃に転勤の話が出て、ちょうどラップが忙しくなってきたところだったのでラップ一本に。

週5、6で塾で働くよりも、週末に2日間ライブした方が稼げるくらいになっていたので。

因みにLost Licence Boysという曲で運転免許を失くしたことをラップしている。

レゲエミュージシャンが非合法の薬草を女性に喩えて愛を語るように、呂布カルマは失効した運転免許に〝尊さ〟を見出した。

ビートとリリックが格好良いだけに、その捻じれたユーモアがより一層際立つ。

後に出てくる〝ラッパーは己自身の人生を出すこと〟という彼の思考の片鱗だとも受け取ることができる。

カルマ

2016年までラップ以外に本業がありました。

それ以降、音楽一本になったので、自然とラップの雰囲気も少し変わったかなぁ、と。

嶋津

そういった意味でも〝ラップ〟に対する純度が高いアルバムですね。

カルマ

そうですね。

言い訳が利かなくなった感じはありますね。

嶋津

奥さまは音楽一本でやっていくことに対して背中を押してくれるような状態だったのでしょうか?

娘さんが生まれたとなると色々と理解が必要となりそうですが。

カルマ

いや、渋っていましたね。

妻はプロの少女漫画家なんです。

ただ、彼女ももまだ〝人気作家〟というわけでもない。

僕にしてもそうですがプロではあるが、完全に〝売れている〟というわけではない。

彼女に「お前さ、漫画家として売れるつもりあるんやろ?」と。

「もちろん」と答えますよね。

「俺も売れるつもりある」と。

「じゃあ俺が音楽だけになっても大丈夫よな?」って。

そう言ってごまかした感じはありますね。

嶋津

www

カルマ

「お前がこのままくすぶってるならしんどいかもしれない。だけどお前が売れたら生活は余裕だし、オレが売れてもどちみち余裕よな」って。

嶋津

www

まさにフリースタイルバトルで培った煽り方が現場で生きていますね。

カルマ

そうですね。

結構、無理矢理な理論ですけど。

 

以下は、Loft PlusOne Westで開催されたトークイベントの内容だ(以降、途切れ途切れに挟む)。

ラッパーのMinchanbabyの企画で、ゲストに呂布カルマとSHACHIが迎えられた。

カルマ

4年前のド・アングラにいたところから、前作(『The Cool Core』)で少しずつ人目に触れるようになった。

そこで求められるのはアイドルと同じような対応───いわゆる〝神対応〟というもの。

東京のラッパーの浮かれっぷりにも違和感があって。

当時と今とでは日本語ラップ自体の世間の認知度が変わってきている。

Minchanbaby

全然違うよね。

カルマ

「こんなにも変わるのか」っていうくらい。

ダンジョンもなかったし、戦極MCバトルなどのフリースタイルバトルブームもまだ来ていなかった。

僕は名古屋に住んでいるのですが、そのムーブメントに浮かれている東京のラッパーの人たちを横目に見つつの〝塩っ気〟ですよね。

「気持ち悪いなぁ」っていう。

Minchanbaby

テレビを見てそういう部分を意識するようになった?

カルマ

そうですね。

そこを掘って、はっきり言えるのがHip Hopですから。

それを言わないといけない。

「言わないといけない」という訳でもないですが。

人間、〝スケベ心〟って出るじゃないですか。

「このままいけばオレ、タレントなれるんじゃないか?」みたいな。

そういうのって違うと思うんですよね。

そもそも自分が子どもの頃は、テレビで流れるようなJ-popなどを色々聞いていて、その中でたまたまHip Hopと出会い。

そのHip Hopの〝悪さ〟や〝怖さ〟にカッコイイと思って始めたはずが、「結局タレントみたいなことをやりたいのか」って。

それはちょっと違いますよね。

そういうのを目の当たりにして、あんなに〝反社会〟を売っていた人間がすっかりタレントみたいな姿になっていると思うと残念ですよね。

そういう形で売れるのは意味がない。

〝反社会〟のまま売れるからこそ意味がある。

 

押韻論。

嶋津

トークショーの話題でも挙がっていましたが「フリースタイルでは韻を踏まない」と。

でも、最近結構踏んでますよね?

カルマ

まぁ、本当に軽く踏んでるだけですけど。

嶋津

それって何か心境の変化があったのでしょうか?

カルマ

余裕ですね。

余裕があるから踏める。

昔は必死に踏んでいた時期もあったんですよ。

音源と同じレベルで踏もうと思って、無理して頑張って踏んでいたんですけど「しんどい」ってなって。

そこから一切踏むのは止めたんです。

そしたら踏まなくても勝てることに気付いて。

最近は結構余裕が出てきたんで弱い相手であれば「ちょっと踏んだろうかな」って───「サービスで踏んだろう」くらいの感じですね。

嶋津

昔とは認知度も違いますしね。

〝呂布カルマだ〟という目で皆が見ている。

カルマ

そうですね。

「踏まない」と思っていた奴がちょっと踏むだけで反応があったりするっていうのもあります。

でも、本当にくだらない韻しかどうせ踏んでいない。

やっぱり良い韻は自分の作品で使いたい。

司会

会場のお客さんから〝呂布さんの韻を踏まないスタンス〟についての質問があります。

カルマ

僕、屈指で踏んでます。

楽曲で踏み過ぎて、フリースタイルで踏まないんですよ。

〝韻〟は楽曲で踏むものだと思っているので、フリースタイルでは無駄な韻は踏まないし、むしろ韻がなければ「リリックは書けない」くらいに思っているので。

Minchanbaby

めちゃくちゃライム固いよね。

俺も縛りがないと書けない。

ある程度「踏みなさい」っていう感じじゃないと。

カルマ

リリックの内容に感情が入り込み過ぎて結果フロウが生まれてしまい、せっかく踏んでいるのに「踏んでいるように聴こえない」というようなラッパーって結構いて。

Minchanはずっと一定のテンションを保ちつつ、ライムを踏み続けるんですよ。

つまり、リリックの内容にラップのテンションが左右されない。

日本語が分からない人だとか、一回でリリックの意味を受け取ることができない人が聴いていても気持ちいいラップなんです。

感情がフラット───Minchanの〝冷酷なまでにマシーン的〟な要素っていうのは結構影響を受けていますね。

〈Minchanbaby 〉

〝バトルは喧嘩 LIVEは確認

俺にとって最も尊いのは作詞作業

この一行 一分一秒 正に今日───<ヤングたかじん>〟

言葉の磨き方。

嶋津

言葉の磨き方ってあったりしますか?

カルマ

特にはありません。

強いて言えば、〝ライミング〟ですね。

〝韻の嵌め方〟と〝チープな言葉を使わない〟こと。

嶋津

ダウンタウンが芸人として世に出てきた時に、王道の設定の中で既存のスタイルのボケから展開させてさらに一つひねったボケで観客を良い意味で裏切っていたんですね。

つまりベタをフリにして───相手の脳ミソの中で「こうボケるだろうな」というイメージをフリにして、そこから一つ飛躍したボケを出す───というテクニカルなボケが新鮮だったと思うんです。

観客のベースにある教養を利用して、それをフリとして活用する。

呂布さんのライミングってそれに近いのかなって思うんです。

カルマ

それは恐縮です。

嶋津

楽曲でも「こう踏むんじゃないかな」っていうのを裏切って別の言葉が飛び込んできたり。

フリースタイルでも「こう返すのが常套だな」という一般的な筋道は一切通らずに、そこにひねりを加えた言葉を放つ。

だから楽曲を作る中で、〝普通ならば踏むであろう言葉〟をまず当てはめて、そこからブラッシュアップしてるのかな───と。

カルマ

ライムってヒップホップのルールが分かっている人からすれば「ここで踏んでくるな」っていうのが分かるじゃないですか。

声が重なったりしていれば特に。

「ライムが2個続いたら、次はもう1個この辺りにくるな」って。

三文字、四文字の韻だったら、言葉は山ほど思い浮かぶわけですよ。

品がない奴はそれを全部使いたがる。

無理矢理にでも全部使って、全部同じ韻にしてしまう。

そうではなくて、たくさん浮かんでいる中から「これ」というのを選び出す。

言うなれば〝どれを捨てるか〟みたいなところですよね。

その中で〝一番おもしろい韻を持ってくる〟っていうのを考えますね。

嶋津

「とりあえず大量に出して、そこから選別する」という感じですか?

カルマ

そうですね。

何回も試して「ここでワンバウンドして、一回跳ね返って、ここに戻ったらおもろいな…」というようなこと。

そのパズルを組み立てるのがおもしろいですよね。

嶋津

呂布さんのリリックの構造に惹かれるんです。

文脈の立て方によって、詞の世界が立体的になる。

───建築物に近い、と言いますか。

俳句は詩的でありながらもはや〝現象〟に近いの〝水の流れ〟とか〝風のざわめき〟のようなものですが、ラップはあえて柱を立てて〝建築〟にする。

韻を〝柱〟だとすれば、「その数が多くて盤石なのに、無駄がない」…という印象です。

カルマ

それがバチッと嵌って、それを口に出してみて「口が気持ち良かったら最高」みたいな。

ただ普通に詩を書くとかだったら、別にそんなことはないと思います。

〝韻〟という縛り、〝ビート〟という制約があって、「ここにこの言葉をどう嵌めるか」というパズルをするのが最高に楽しい。

嶋津

それでは楽曲はその集大成───溢れ返った言葉が淘汰され、結晶化されたもの───まさに〝思考と感性の結晶〟ですね。

カルマ

本当にそうです。

こういう書き方なので「一生書けるな」っていうのはあります。

〝鴨の群れに混ざった白鳥

その身分を偽り活動中───<さよなら>〟

アイドル論。

話はアイドルがラップをすることの是非について───。

カルマ

アイドルとHip Hopって最も遠い距離にある存在だと思うんですよね。

アイドルは〝偶像〟

ファンがその〝偶像〟を好きというのは分かる。

でも、ラッパーというのは自分自身を出すことだと思うんですよ。

アイドルという〝偶像〟ではなく、個人としての〝我〟が出ざるを得ない。

Minchanbaby

俺、かわいかったらラップしなくてもいいと思ってるよ。

カルマ

僕がアイドルならしないですね。

やったとしてもアイドルの時とは全く違ったゴリゴリのことをやると思う。

アイドルでそのままやっていても同じことをラップで表現する意味はあるのか?と。

「サラリーマンやっている奴がサラリーマンのラップをするか?」という話で。

会社では絶対に言えないようなことをラップにしているわけだから。

「そこの線を引けないならばラップをするな」と僕は思う。

だから彼ら(彼女ら)のラップをHip Hopとは認めていない。

〈SHACHI〉

ラップをはじめた時は仕方がないと思うんです。

〝アイドル〟ありきなので〝アイドル〟を引きずってしまうのは当然だと思うのですが、ラップに対して本気になってきたら多分そのままではいられなくなるはずなんですよ。

入口としてのラップというのは良いですが、やっているうちにだんだんHip Hop的なメンタルに侵されていき、「もうHip Hop以外ありえない」ってなっていけばいい。

アイドルとHip Hopって最も遠い距離にある存在だと思うんですよね。

振れ幅としてアイドルの子がヒップホップをやるというのは分かる。

じゃあその「Hip Hopの顔とアイドルの顔が全く違う」というのであればいいですけど、〝ラップアイドル〟みたいなのは…

「ラップとアイドルは合わんぞ」と。

その二つは相容れない組み合わせなんです。

Minchanbaby

「自分でリリックを書いているのか」というのは大きいかな、と。

カルマ

それは絶対にあります。

〝いい奴〟なんて死ぬほどいる。

基本、世の中全員良い奴なんですよ。

だから〝いい奴〟っていうのを判断材料にすると鈍る。

アーティストとしてどうかっていうところをしっかりと見なければいけない。

だとすれば結局「ラップが格好良いのか」なんです。

役者とラッパー。

司会

役者はどうですか?

カルマ

役者は自分を殺して演じることが仕事じゃないですか。

逆ですよね。

ただ、「お前が演じたら、どの役を演じてもお前やな」というタイプもいますが。

司会

ラッパーの人でも役者の仕事をしている人もいますよね。

カルマ

でもモノになっている人はいないですよ。

やっぱりラッパーは〝自分を出すこと〟が仕事なので。

優秀な俳優ってあらゆる役を演じるけれど、例えばトーク番組に出てきた時はかなり〝シャイ〟というタイプが多いじゃないですか。

彼らは〝自分は出せないけど、何かに憑依する〟というのが得意なんだと思うんですよね。

対照的にラッパーは「俺を見ろ!」という感じなので、そこが違う。

嶋津

トークショーの中で〝役者〟と〝ラッパー〟の違いという話もされていました。

役者は自分を消すのに対し、ラッパーは〝かけがえのない存在〟である。

会社勤めするならば〝かけがえのある存在〟でなければなりません。

その人がいなくなってしまえば、代わりになる人がいなくて混乱を来してしまう。

ラッパーはその逆で〝代わりのいない存在〟に───それはつまり〈〝個〟を高めていくこと〉という風に僕は解釈したのですが。

〝かけがえのない存在〟になるためにはどのようにすれば良いのでしょう?

カルマ

本来、誰もが「自分はかけがえのない存在だ」と思っているんです。

「あなたはスペシャルなんだよ。わたしたちの王子様、お姫様なんだよ」

そのようにして両親に育てられてくるわけじゃないですか。

それが成長するにつれて、だんだん身の程を知るようになる。

「あれ?自分は思い上がっていたのかもしれない」と。

基本的には皆、そのようにして枝を打たれていくのですが、そこで打たれずにいることができた人間───親に「あなたはすごいんだよ、天才なんだよ」って言われたまま思い上がり続けることができた人間───というのは本当の天才なんだと思います。

嶋津

呂布さんは枝を打たれた経験とかありました?

カルマ

僕は結構打たれていて。

皆と同じように僕も親から「あなたはすごい」と言われて。

でも、学校では全く勉強ができなかったし、スポーツもできなかった。

小・中学校の時って、運動神経が良いか勉強ができるかっていうのが評価軸なんですよね。

それで「ああ、自分は…そうなんだ」って身の程を思い知ったわけです。

義務教育っていうのは〝皆と同じことを競争する場〟じゃないですか。

その期間を終えると、そのレースから抜けることができるんですよね。

つまり、〝得意なこと〟だけをやっていればいい。

僕は芸大に進んだので特にその色は強かった。

そうなると「…あれ?」みたいな。

「オレ、飛び抜けてるやん」

改めて、そこで感じました。

ラップにしても、はじめた当初から周囲では一番巧かったし。

「天才やな」

そう思い上がってフリーターのままラップを続けていたのですが、27、8歳の頃に就職したんですね。

すると仕事が全然できないんですよ。

サラリーマンって社会人としての能力を色々と求められるじゃないですか。

例えば、タスク管理や書類をまとめて出すみたいなことが全然できなくて。

今まで馬鹿にしていたサラリーマンをやっているショボい奴らが当たり前にやっていることを自分はできない。

「ヤバイな」って思いましたね。

〝いつもの遊び方に飽きてきた頃 そろそろ

俺が本当にやりたかった事と この先成すべきこと

この音と言葉でとことんまで───<悪い夢>〟

努力論。

カルマ

〝努力できる〟というのは「努力ができる」という才能だと思うんですよね。

〝努力ができない人〟っていうのは実は結構いるんですよ。

僕もそのうちの一人ですが。

練習すれば誰でもある程度はできるようにはなる。

ただ、どうしたって〝練習ができない人〟っていうのはいるんですよね。

だから「努力が最上」みたいな風潮は良くないことだと思っていて。

嶋津

そういう空気はありますね。

カルマ

「頑張ればできる」と言われても頑張れない人だっているんです。

でも、〝頑張れない人〟でも才能があればブチ抜けるジャンルというのは一部あるんですよね。

その一つが〝ラップ〟だと僕は思っていて。

それで助かっています。

嶋津

ラップをはじめてから楽曲を制作したり、フリースタイルバトルにしても当初から好調だったのですか?

カルマ

そうですね。

ラップに関しては努力したことは一瞬でもないです。

嶋津

それは、「やっているけど努力とは感じない」という解釈でもいいですか?

カルマ

それもあると思います。

もちろんあると思いますが、〝辛いけど頑張った〟みたいなことは一瞬たりともないですね。

純粋に〝楽しいからやっている〟みたいな。

レジェンド(今尚輝きを放つ伝説)なのか、レガシー(時代に取り残された遺産)なのか。

会場からの質問で、ヒップホップ界の某有名アーティストについて意見を求められた。

呂布カルマの思考は彼の言葉と同じように切れ味が鋭い。

思考と言葉は連動している。

鋭利な言葉を吐く人間の思考もまた、先鋭な回路を持つ。

そのことを再確認させられる貴重な瞬間であった。

司会

会場からの質問で「最近の〇〇についてどう思いますか?」という…

カルマ

〇〇は完全にウィニングランですね。

ゴールテープを切った後に流して走っている感じをずっとやっている。

△△(アルバム名)くらいまでは本当に良い。

ピンと張った糸というか、すごい完成度で。

司会

はい。

カルマ

基本的にラッパーってアウトローですよね。

そういった〝社会とは逸脱した人間〟が、ライミングやパフォーマンスの力で発言力を獲得して行くんですけど。

それが社会に認められて、「自分自身に発言力がある」って勘違いしはじめると途端にラップが〝雑〟になっていくんですよ。

そもそもがアウトローなので内容は大抵、滅茶苦茶なんですよ。

それを〝自分そのものに価値がある〟と勘違いしてしまう。

一時期は日本中が〇〇のことを〝日本一のラッパー〟だと認めたと思うんです。

彼は自分の説得力に甘えている部分というのが、僕にはやっぱりあると思う。

ライミングもフロウも甘くなっている。

でもいいんです、新陳代謝なので。

どんどん上の人がいなくなってくれればいいなと思うので、別にそれが悪い事だとは思っていないですが。

司会

年を取るとそういうことになってしまうのでしょうね。

Minchanbaby

それはやっぱり嫌ですよね。

カルマ

だから認められていないラッパー───〝不遇のラッパー〟はいつまでも磨いている。

本来、年を重ねれば重ねるほど語彙(ボキャブラリー)は増えるものだし、言い回しも増える。

声も太くて渋くなるので、遅咲きのラッパーの方が僕は「カッコイイな」と思うんですよね。

Minchanbaby

俺は〝オジサン〟には新しいことに挑戦して欲しいかな。

〝オジサン〟というのは押しなべて皆、評価されていた時期のことをずっとやろうとする。

カルマ

評価されていた時期のことを継続してやれているならまだいいですけど、それさえできていない。

Minchanbaby

俺は新しいことするから、皆どんどん離れていく。

会場www

カルマ

いや、Minchanは50歳くらいで超売れると思いますよ。

地元の名古屋でも、僕の先輩でめちゃくちゃクールなのに評価されていない先輩っていっぱいいるんですよ。

そういう人たちはやはり磨き続けているし、対照的に早くに売れてしまった人は自分の名前と説得力にあぐらをかいている感じはある。

それは自分も気をつけないとなぁとは思いますね。

〝あれしたい これしたい

誰かみたいになりたい

で成り立つ世界とはお別れしたい───<YABO>〟

政治に関して───Coolとは。

呂布カルマのフィルターを通した〝モノの見方〟には独特の深い味わいがある。

それは〝かけがえのない存在〟であるからこその〝オリジナル〟が滲み出ているのだが。

呂布カルマの思考の中に入り込んで〝新しい価値観〟でもって世の中を眺めてみたい。

嶋津

AbemaTVでニュースをラップされていますよね(『NEWS RAP JAPAN』)。

僕、あの番組が好きで毎週楽しみに見ています。

時事ネタを批評するラップにも呂布さんの切れ味が際立っていると思うのですが、そういう意味合いで政治や芸能などの時事ネタを反映させた楽曲をお作りにはならないのでしょうか?

カルマ

それはないですね。

今後もないと思います。

嶋津

そこには何かお考えが?

カルマ

芸能に関して言えば、シャレ程度のテイストで入れたりすることはありますが。

今回でも『いいとも』が終わったこと(<W.I.J.C>)だとか、客演の曲中でもSMAPの解散に関することとかいじったりしていますが。

ただ、政治はないですね。

政治はおもしろくないですから。

嶋津

僕の中のイメージとして、反体制という点で「ラップと政治って親和性高いのでは?」と思うのですが。

ラッパーが政治を語ることについてどう思われますか?

カルマ

全然いいんですよ、政治をネタにしても。

それがエンターテイメントになっているのであれば。

「金を払いたい」と思うものに昇華できていたら全然良いのですが、僕の聴く限り政治ネタのラップは全ておもしろくない。

そんなもの金を払っても聴きたくないので。

だからアウトですよね。

嶋津

呂布さんの中で大喜利的な意味合いで、「これならおもしろいな」っていうのが出てくれば曲にするかもしれない、と。

カルマ

それはありますね。

〝茶化す〟〝冷やかす〟という意味で政治をいじることはあるかもしれません。

思想みたいなことは政治に引っ掛けなくても出せるじゃないですか。

そこにあえて〝政治のことをモロに歌っています〟という雰囲気を出すのは僕には理解できない。

もちろん結果的に音楽として優れていたら良いのですが、〝政治のことを歌っています〟だけのような曲って本当にくだらないと思っていて。

だから三宅洋平とかECDのこと超嫌いなんですよ。

そういうのって全くおもしろくないし。

「これ、いつ聴くねん」と思う。

〝吟味───<サン=ジェルマン>〟

呂布カルマの持つモノサシ───つまりは、優劣をつける価値観。

世間の大多数から支持を受けているものでも、呂布のモノサシに合わなければ簡単に切り捨てる。

これは思想や哲学の強さの現われである。

───周囲に靡かない〝呂布カルマ〟の価値基準に迫る。

嶋津

呂布さんの中で「カッコイイとするもの」と「ダサいとするもの」の違いを言語化するとどうなるのでしょうか?

ちょっと面倒臭い話だと思いますが。

呂布

難しいですね。

ただ、究極的には全てを〝良し〟ともできるんですよ。

汚い話ですが、例えば「汚物を漏らしてしまった」という話が-になる人と+になる人がいますよね。

漏らしてしまったことで信用を失くす人と、「最高やなww」って明るい空気になる人と。

そういう感じです。

嶋津

〝誰が語るか〟という部分の比重が大きい。

呂布

そうですね。

〝誰が〟ということと、あとは〝言い方〟だと思います。

「どこで、どんな風に漏らしたか」という。

政治にしてもそうなのですが。

本当に才能のある人が政治のことを語ろうと思えば、巧く語れるはずなんです。

ただ、才能がある人は政治なんかを語る前にもっと語るべきことがたくさんあるんですよね。

「そんなもの二の次」というか。

もっともっと〝根源的な〟な語るべきことがある。

だから政治や時事ネタなどの分かり易い───急に浮上したものに手を伸ばすのは、テーマに困っている奴だと思うし、それでおもしろく歌えている人間に僕はまだ会ったことがない。

嶋津

なるほど。

ダサいというのは、〝その人が言っていることがダサい〟というのと〝その人の言い方がダサい〟という二点ですね。

内容ではなく、〝人〟と〝表現〟にある。

カルマ

そうですね。

政治のことを言っていることがダサいのではなくて、〝訴え方〟がダサい。

〝苦情来るジョークから得る教訓───<ずっと変>〟

ギフト=才能。

嶋津

僕は呂布さんの声がすごく好きです。

呂布

これは本当に〝授かりもの〟ですね。

嶋津

僕は呂布さんの〝凄さ〟を分析していて。

もちろんワードセンスなど、キャラクターの持つ独創性とか色々考えたのですが、結局〝声〟なのではないかというところに行き着いたんですね。

この〝声〟だからこそ、響く言葉がある。

呂布

それはありますね。

嶋津

違う人が呂布さんと同じ言葉を口にしても〝違和感〟が残る。

言葉が入ってこないし、他の人であれば届けることができない言葉を意識的に選んでいるのかな?とも想像するのですが。

〝神々しい声〟をされていますね。

呂布

ありがとうございます。

嶋津

バトルのステージなどでも会場の大きなところ───音響効果が大きな場所って呂布さんの声質がより有利に働いているように感じます。

その辺りの自身の〝声〟についてお聞かせいただけますか?

呂布

僕にとって〝声〟はコンプレックスだったんです。

「滑舌が悪い」と昔から親に言われていて、人前で話す時にも「もっとはっきり話しなさい」と。

だから「声良くないんだ」って思っていて。

あと、録音されたものを聴いた時に自分の声ってすごく違和感があるじゃないですか。

中学高校の時とか友達とラジオの真似事をしていて、録音されたものを聴いた時に赤面しましたね。

「俺に聴こえている声と全然違う」みたいな。

だから〝声〟はずっとネガティブなものでした。

嶋津

いつからその認識は変わったのでしょうか?

カルマ

大学生の時ですね───妻は同級生で。

僕たちは芸大生だったので教室に寝泊まりして制作をすることがわりと多く。

彼女が寝ている教室に僕が帰って来て友人と話をしていたんです。

そうしたら、「今、話してたのってミシマくんだったんだ。めっちゃいい声だなって思って聴いてたんだ」って言われて。

それで「え!?」ってなって。

当時は彼女ともまだ付き合ってもいない時で、そんなことを言われて驚きました。

声についてそういう風に褒めてもらったのは初めての経験でした。

そこからですかね、認識が変わったのは。

それまではどちらかというとコンプレックスでしたからね。

酒場で「すみません」って店員呼んでも全然気づいてくれないですし。

クラブとかで友人と話している時も「呂布君の声って、自分のところに届く前にストンって落ちるよね」って言われたり。

嶋津

今ではそれをある種の〝ギフト〟だと認識していらっしゃるのですか?

カルマ

そうですね。

声を褒められると、「授かりものやな」って思いますね。

〝経験するまでもない事が大半

フィクションで十分 悲しみは災難

リリックに書いた事以外は

リアルだろうが何の価値も無いな───<メヲミテミナ>〟

宗教=Hip Hop。

嶋津

呂布さんへのディス(disrespect)でよく耳にするのが〝宗教家〟というワードですが。

世界観の強度を現わしているからこそ出る言葉だと思うのですが。

カルマ

色んなラッパーが〝宗教〟というのをディスで言ってきますが、宗教にもならないHip Hopなんて僕はクソだと思っていますからね。

Hip Hopは宗教だと僕は思っている。

以前、別の仕事で上祐史浩さんと話させてもらう機会がありました。

彼は現在、〝宗教学者〟となっていて、宗教家ではなく〝宗教を研究している〟という立ち位置にいて。

『Aleph(旧オウム真理教)』に対抗して『ひかりの輪』というのを立ち上げた。

『ひかりの輪』は宗教団体ではなくて、宗教を勉強する仏教哲学サークルとして運営しているんですね。

その時に色々話を聞きました。

その中で印象に残ったのが、〝宗教〟というものは〝信者に犠牲を強いる〟ということ。

基本的に宗教は神様のための犠牲を強いるんです。

そうすると結構不条理なことが出てくる。

でもそれは〝神様のために我慢するべき〟ことなんです。

彼は「勉強会で宗教のおいしいところだけを学び、自分たちの生活のために〝宗教〟を上手に活用する」という話をしていました。

そっちの方が僕は賢いと思います。

〝宗教〟というのは本来「自分が真っ直ぐに生きるため」というよりも、「神様のために自分を捧げること」なんですよ。

その話を聴いた時に〝Hip Hop〟は〝宗教〟に近いな、と。

不条理なことでも「これがHip Hopだから(我慢する)」みたいなことで納得させる力があります。

嶋津

論理的に破綻している部分も…

カルマ

あります。

それは、明らかにある。

でも「それはHip Hopだよな」と。

これは〝ロックンロール〟にも置き換えることができるのですが。

その言葉を聴いた時に「Hip Hopって宗教だな」って改めて思いました。

僕のことを〝宗教家〟だと揶揄する奴がいますが、「当然の話だよな」と。

逆に〝宗教〟にすらなることができない───自分の価値観を歌っているのに信者(ファン)の一人も獲得できていないお前の方がヤワだよなって思うようになりましたね。

それ以降は〝宗教家〟と言われたりすることに全くダメージを受けない。

むしろOKというか、当然の話だと思っています。

トークショーの中で呂布カルマがこのような発言をしたところが印象的であった。

「ラッパーのファンになる」というのは「そいつそのものを受け入れる」ということなんですよ。

例えば僕が下世話な作品に出演しようが、犯罪をしようが、僕のことを見る目は〝変わらない〟という。

それは矛盾さえも受け入れることが〝信仰〟であるのと同じように、Hip Hopの持つ〝全てを凌駕した力〟に宗教に近い精神性を見出したからなのかもしれない。

〝ラップするのはまだ飽きない

何せ会った事無い自分に毎回

会えるんだぜ こんな事他にない

俺は俺にしかやれない事をやりたい───<メヲミテミナ>〟

嶋津

トークショーの中で〝老害〟ではないですが年齢によるダサさという話が出ていましたが、呂布さんの中で〝自分を一度見直す時期〟っていうのはありました?

カルマ

ラップに関してはないですね。

昔格好良かったラッパーがクソダサくなっている奴っていっぱいいるんですよ。

〝才能〟って僕、期間限定のものだと思っているので。

それがどれだけ続くか分からないし、でも僕は自分がまだピークに達しているとは思っていないので、まだ大丈夫だと思っていますが。

明らかに自分で「格好良く乗れていないなぁ」と思ったりすればもしかしたらあるかもしれないけど、その時にラップ以外のことで工夫すればいいと思いますし。

ラップしかなければラップをするしかないですけど、それもみじめですけどね。

嶋津

トークがおもしろいですから〝ご意見番〟という形も想像ができますね。

カルマ

喋ってるだけで稼げるなら文句ないですね。

嶋津

それこそ呂布さんがおっしゃったように、〝個〟を大きくしていけば「呂布カルマは何を言うんだろう?」という空気を成立させることができるのではないでしょうか?

カルマ

そう、それが〝やしきたかじん〟なんですよ。

たかじんさんになれたらいいですよね。

嶋津

あの人、歌手だけどMCしたり、リポーターしたり、芸人みたいなことや評論家みたいなことをやっていて肩書が分かりませんよね。

カルマ

芸人も歌手も関係なく…というあのポジションいいなって。

嶋津

僕は落語家の立川談志が好きなんです。

談志がね「寄席に足を運ぶお客さんは〝落語〟を観に行っている、でも談志のひとり会を観に来る客は〝談志〟を観に来ている」と言っていて。

他の落語会でオレがやっているようなことをしていると「ちゃんとしろ!」とか「なんでやねん!」とか言われるけど、「俺の落語会は俺を見に来ているから、何をしても大丈夫」って。

カルマ

それがベストですね。

嶋津

今日はどうもありがとうございました。

〝俺は若い頃のたかじんになりたい

黒人よりも I wanna be たかじん───<ヤングたかじん>〟

 

このようにしてインタビューは終わった。

インタビューから汲み取ることができるように、呂布カルマは一貫して〝個の強さ〟を語っている。

〝何をするか〟ではなく〝誰がするか〟。

逆に言えば、〝誰がするか〟次第で何をしたとしても全て成立するのだ。

バトルで勝とうが、負けようが。

楽曲を評価されようが、されまいが。

〝個人の強さ〟を大きくしていくこと。

それによって生き方の是非が変わる。

誰よりも、何よりも、彼の〝哲学〟はシンプルである。

『SUPERSALT』

このアルバムの〝凄さ〟は「飽きない」ということだ。

筆者はこの記事を書き上げるために何百回とこのアルバムを聴いた。

聴けば聴くほど味わいが深くなっていく。

それはこの作品の作者の意図した仕掛けにある。

本作は幾層ものレイヤーで構築されている。

最初はビートの美しさと言葉の魅力に惹かれるのだが、数回聴いていると楽曲中のストーリーが見えてくる。

今まで聴き落としていた〝言葉〟が浮き上がってくるように輝きはじめる。

そして新たな味わいを生み出すのだ。

そして呂布カルマの圧倒的な求心力である〝声〟と〝言語感覚〟によって霞んでいた〝ラップの巧さ〟に驚愕する。

〝日本語ラップ〟からガラパゴス化した独自の進化を一体幾人が気付くことができたのだろうか?

反対に言えば、2、3回聴いたくらいではこのアルバムの〝本当の良さ〟は分からないかもしれない。

そして、この複数のレイヤー構造は呂布カルマのキャラクターにも言い得ることができる。

サングラスにオールバックという風貌からストリートの匂いがするが、実は芸大卒という〝文系〟のイメージが後から押し寄せる。

一般的な視聴者は、その単純な二層でしか〝呂布カルマ〟を捉えることができない。

そして彼に対して〝ヤンキー気取りの文系〟というディスを与えるラッパーは的外れだ。

勘違いしているか、もしくは観衆をミスリードするための戦略に過ぎない。

彼の奥にあるもの───彼の核にあるものは紛れもなく〝Hip Hop〟である。

彼はサービスのためのパフォーマンスはするが、根っこの部分でのパフォーマンスは一切しない。

それは〝信仰〟としての〝Hip Hop〟を基に彼自身が構築されているからだ。

芸術家としての彼の一面が全てを難解にする。

〝呂布カルマ〟というラッパーも、文学的な美しさも、ダーティなユーモアも、そして爛れるように熱いロマンティックさも───。

彼は幾重にもベールに包み、限りなく極端に、限りなく美しく、限りなく難解にしてしまう。

〝現実は小説よりも奇でも

俺の頭の中よりは幾らかマシで

幾ら邪魔しても勢いは増して

beatの中にだけ居場所を探してる───<White Heaven>〟

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