
2016年の4月から第一期をスタートした〝れもんらいふデザイン塾〟。
れもんらいふ代表、アートディレクターの千原徹也氏のつくる〝学びの場〟。
コンセプトは〝京都と東京のクリエイティブの融合〟。
第一線で活躍する豪華クリエイター陣をゲスト講師に迎え、実在する社会課題をデザインで解決する力を養います。
教科書を開いて学ぶ〝デザイン〟ではなく、講師たちの〝体験・哲学・生き方〟から滲みだすデザイン・思想・言葉たちは実に生々しく、躍動感に溢れています。
「学ぶ」というよりも「体感できる」と表現した方が相応しいかもしれません。
〝超実践型〟の本格的クリエイティブの場。
≪塾長:千原徹也≫
デザインオフィス「株式会社れもんらいふ」代表。広告、ファッションブランディング、CDジャケット、装丁、雑誌エディトリアル、WEB、映像など、デザインするジャンルは様々。京都「れもんらいふデザイン塾」の開催、東京応援ロゴ「キストーキョー」デザインなどグラフィックの世界だけでなく活動の幅を広げている。
れもんらいふ塾は「HR」「一部講義」「二部講義」「懇親会」と四つに分かれています。
「HR」では千原徹也氏が自伝的に、自身の人生を振り返り、
「一部」では千原氏がMCとなってゲスト講師が〝仕事(デザイン)〟について語ります。
「二部」では会場からの質問にゲスト講師が答え、
「懇親会」ではお酒を飲みながら、ゲスト講師と話すも良し、塾生同士で語り合うも良し、クリエイティブな出会いの時間がデザインされています。
───かなり充実した内容です。
今回のゲスト講師はこのお二方。
≪水野良樹≫
1999年2月、小・中・高校と同じ学校に通っていた水野良樹と山下穂尊が、いきものがかりを結成。同年11月、吉岡聖恵がいきものがかりに加入。2006年メジャーデビュー。2017年1月放牧宣言を発表。国内外を問わず、様々なアーティストに楽曲提供をする他、ラジオ、テレビ出演、また雑誌、web連載など幅広い活動を行っている。
≪佐藤詳悟≫
2005年に吉本興業株式会社に入社。
ナインティナインやロンドンブーツ1号2号、COWCOW、ロバートなどのマネージャーを歴任。また、千原ジュニアとの両国国技館でのライブや、キングコング西野とのWEBメディア開発など、テレビ番組、広告、イベント、WEBコンテンツなど幅広くエンターテインメントのプロデュースに関わる。株式会社QREATOR AGENT代表取締役社長も務めている。
この記事はそのレポートです。
内容は「一部」と「二部」にのみ焦点を当てました。
レポートとしては少々〝長い〟ですが、お三方の話が非常に〝聴き応えのある〟ものでしたので、最低限の省略と整理で文章にまとめました(それでも数万字は削りましたが)。
一般的なレポート記事の場合、読みやすさを考慮して今回の1/5~1/10の量しか掲載しないことの方が多いです。
現場で彼らの〝生〟の言葉を聴き、改めて文章に起こしてみると、数々の〝新しい発見〟がありました。
「このキラキラした石はしっかりと形にしておかないと」
彼らの言葉の〝質〟はもちろんのこと、現場の空気感や時間の流れを含めて味わっていただきたいと思いましたので、この≪教養のエチュード≫ではその〝量感〟を「肌で感じながら読む」という形式で制作しました。
ですので、題名はそれそのままに『読む〝れもんらいふデザイン塾〟』。
それではゆっくりと───たっぷりとレモンを搾ったムレスナティーを飲みながら───お楽しみくださいませ。
「ムチャ」を実現する仕事。

<佐藤詳悟>
〝佐藤詳悟〟という名を聞いたことがない人でも彼の企画した仕事は知っているだろう。
COWCOWとあたりまえ体操を作ったり、キングコングの西野亮廣氏と絵本を作ったり、ロバートの秋山竜次氏と『クリエイターズファイル』というキャラクターの動画を制作する───誰もが認めるヒットメーカーだ。
具体的に「どのような仕事なのか?」と尋ねられて彼はこう答えた。
誰かの「こんなのやりたい」を実現していく───無茶を言われてそれを実現していくというような仕事ですね。
数々の企画を立ち上げ、次々とヒット作品に育てあげてきた佐藤氏は、突如吉本興業を辞める。
佐藤
千原ジュニアさんの『5年後ライブ』(『千原ジュニア40歳誕生日LIVE』※5年前からチケットを販売して、その売れ行きなどから企画を組み立てていくライブ、詳細は発表しないままチケットだけ販売するというもの)をやりました。
これは本当に僕が0から立ち上げた企画で、会場は両国国技館、ゲストには明石家さんまさんやダウンタウンの松本人志さんにも登場して頂きました。
ライブは成功。
しかし、その翌日から燃え尽き症候群に陥った。
佐藤
何をする意欲も湧かないんです。
「このままだとヤバイ」と。
で、何気なくPixarやGoogleで働いている日本人に連絡を取りアメリカの西海岸───シリコンバレーへ発ちました。
千原
友人というわけではないですよね。
向こうの日本の方に何て言ったんですか?
佐藤
「見学させてください」
会場www
佐藤
当時はまだ、日本でFacebookが浸透し始めた頃で。
刺激を求めて行ったのですが、実際行ってみたら予想を遥かに超えて刺激的で。
帰って来て一週間後には会社を辞めていました。
それで、ビジネスモデルなんかをあまり考えずにとりあえず会社を作ろうと思って作ったのがQREATOR AGENT。
千原
僕と知り合ったのは確かその時ですよね。
ヨシモトを辞めたか辞めていないか…というくらいの時だった。
まだ荷物が揃っていない事務所に打ち合わせに行きました。
佐藤
あの時は何も考えずにやっていました。
今は300人くらい文化人の方々に登録してい頂いています。
その方々の営業で、テレビ出演の時に間に入ったり。
そうこうしているうちにAbemaTVやLINEライブなど、ネット動画系のサービスがこぞって始まって。
「制作をして欲しい」と色んな人に言われたんです。
QREATOR AGENTは文化人のエージェントなので、そこで受けてもなぁというので作ったのがFIRE BUG(コンテンツを作る会社)。
『いきものがかり』が活動休止することになり、水野個人の活動を大きくしたいという話があって、そのお手伝いをしはじめました。
会社としては制作したり広告代理店のようなことをやったり、水野のエージェントをやったりということをやっています。
水野
僕は彼が何をやっているのかよく分かんないです。
会場www
佐藤
で、今に至ります。
テレビ番組の制作、企業のマーケティングお手伝い、クリエイターズ、あと水野のマネージメント。
あと30(サーティ)という動画サービスを今作っています。
水野
グループでは区切りをつけ、自分一人の活動をどうやっていこうかと思っていた時にちょうど佐藤がいた。
お願いをしたら相談に乗ってくれました(二人は大学の同級生)。
千原
なるほど。
それはマネージャーという形だけをやっているのですか?
水野
マネージャーって一般の人からするとどのような存在か分からないと思うんですけど、大きく分けるとパターンが二つあって。
日頃のケアやスケジュール管理をしてくれるタイプと、もう一つはマネージャーというよりプロデューサーとして「この人がどんな仕事をしたらいいんだろう」とか「どういう風に成長していけばいいんだろう」というプランを考えてそれを実行していくタイプ。
佐藤にやってもらっているのは後者の方。
僕が「どんな人に会ったら自分に刺激を受けるだろうか」ということを考えてくれて、実際に引き合わせてくれたり。
長期プランを立てて、一つ一つ組み立てていくというようなことを1、2年やってくれています。
千原
この2年でだいぶ曲を書いていますよね?
その仕事は佐藤さんが持ってくるの?
佐藤
実は『いきものがかり』で活動している頃は、外部には一曲も提供していなかったんですね。
だから音楽業界は水野が他のアーティストに曲を書くというイメージが0だった。
芸人さんのマネジメントの場合、短いスパンでイメージを変えることが可能なんです。
例えば、ロンブーの淳さんが「キャスターをやりたい」というのを話していたら、「ニュース番組のコメンテーターをやってみましょう」と営業を持ちかける。すると実際に翌週にはコメンテーターとしてテレビに出演しているという可能性は結構あって。
特に生放送の番組ならそういうことがよくある。
音楽の場合は時間軸が全く違います。
例えば、一曲を作るのに、今(4月)動いているのが7月とか8月のものなんです。
だから、結構早い段階で動かないとダメだなぁというのがあって。
水野と僕で色々と話して、「最初は色んな人たちに曲を書こう」と。
演歌の人から声優の人まで360°全方位のジャンルの方に楽曲を作らせて頂こうと決めました。だから「こちらから書かせてください」とアピールしました。
千原
佐藤さんが営業したっていうこと?
佐藤
そうですね。
お話さえさせて頂ければ話は早く、こちら側としてはやりがいがある仕事でした。
芸人さんの世界では「10件回って1件しか仕事が決まらない」ということがよくあるので。
水野の場合はしっかりと作戦を立てたこともありますが、ほぼ9割以上の方との仕事が決まりました。
「打席に立った分、ヒットは打てた」というような感覚でしたね。
去年は楽曲提供がテーマでしたが「今年は〇〇」とか「来年は△△」、「再来年は□□」とテーマを二人で考えながらやっています。
千原
この2年くらいで何人くらいとお仕事をされたのですか?
佐藤
30~40ですね。
放牧宣言。

<水野良樹>
〝水野良樹〟は国民的人気音楽グループ『いきものがかり』のリーダーだ。
2017年の1月にメジャーデビュー10周年の節目を終え、〝放牧宣言〟と題し、グループでの活動休止を発表した。
以来、〝水野良樹〟個人での活動を精力的に行っている。
その知的な雰囲気と、抜群の言語的感覚(言葉選び)は会場のムードを一息に惹き付ける。
千原
『いきもがかり』をされていた時と、環境は変わりました?
水野
「音楽を仕事にしたい」と思ってこの世界に入ったのですが、実際に〝いきものがかり〟として表舞台に出て行った時に違和感があったんです。
音楽を作っている仕事や音楽について考えている時間よりも、実際にはテレビのプロモーションだったり、ライブだったり。適切な表現ではないかもしれませんが、〝音楽タレント〟的な活動が大きな比重を占めていて。
もちろんそれは有難いことではあるのですが。
「ライブ」「プロモーション」「曲作り」の三つがスケジュールの中に無作為に組み込まれていて。
「自分はソングライターです」って思っていても、そこに集中できない時間が結構あった。
個人の活動になったことでそれが良い意味で改善されました。
〝放牧〟のような形で外に出て、「楽曲提供」という仕事を頂いて、それを頑張って書く。
千原
どれくらいのペースで曲を作っているのですか?
水野
月に2曲か3曲、多い時は4曲の締め切りがあって、それを毎週1曲ずつ作っていく。
そのサイクルで生活をしています。
つまり、「曲を作ることだけに集中すればよい」という感じです。
同じ一つの〝モード〟で走ることができるので、精神的に安定するし、〝つくる〟ということに対しての深度がより深くなっていく。
モードを変える必要がなければ自然とスピードも上がる。
自分の中で見えてくるものも多い。
技術面の問題だけでなく〝刺激の不足〟という面でも。
千原
なるほど。
しっかりと作曲活動に専念できているということですね。
水野
そうですね。
それが自分としては「健全だな」と思います。
3年後に見える姿。

佐藤
マネジメントをさせてもらう時は、〝3年後の未来〟を見ています。
「3年後にこうなっていたい」というところから逆算していくと「今年は何をしようか」というのが見えてくる。
今年やることが決まると、今月すべきことが見える、今月が分かると今週、と。
でもそれは僕が決めているというよりは、二人で話して最終的にやりたいことのために「今週は何をすべきか」ということを決めています。
水野
衝撃だったのが、最初の打ち合わせで本当に3年後のスケジュールを持ってきた。
A3用紙が何枚もあるような大きな紙を持ってきたんですよ。
そこには年表が書かれていて。
例えば「メディアはこんな風に出たい」とか「このようなアーティストに楽曲提供できればいいね」とか、2016年の1月から2018年の1月までバーッと全部書いてあって。
〝水野良樹〟という存在をどういうところに持って行きたいか、という目標を明確に立てている。
「これでいこう」みたいなww
そこから逆算して行動に移していくわけですが。
ただ、大きな目標というのはそんなに簡単に叶わないし、基本的に〝微修正の連続〟。
思った通りにならないことがほとんどだと思うので、それを二週間に一度だったり、毎週だったり定例会議を組む。
「予定はこうだったけど、今こうなっています」「じゃあこっちに変更しようか」みたいな微修正を毎週続けていて。
結果的になんとなく最初の目標に近いところに向かっている。
振り返ってみれば2016年の段階で佐藤が言ってくれたことはほぼ叶っています。
千原
3年後の目標を決めているからこそ、微修正しつつ、なんとなくその方向に進んでいるという。
佐藤
思いもよらないことがたくさん起きますからね。
今日、京都(れもんやいふデザイン塾)に来たのも事前に決めていたから。何も決めずに家を出たら、この場所に着くわけがない。シンプルな話です。
最低でも北か南か西か東かくらい考えておけば、おかしなことにはなりません。「北」って言ってるのに「南」に進むことはないですよね。
千原
自分にフェイントしないですもんね。
佐藤
目的地を決めるだけで、大体叶う。
あとは「〝今日〟という日をちゃんとやっていくかどうか」。
人間の持っている時間っていうのはみんな一緒で、どんな天才でも一年は365日、一日は24時間ですよね。
そこの「時間の濃さ」、つまり「何をすべきか」ということを明確にしていく。
それがふわっとしていると、来年も変わっていないと思うんですよ。
千原
そうですよね。
佐藤
〝運〟っていうのは放ったらかしにしている人にやってくる可能性っててほぼないと思います。
何かしら日々積み重ねていくことで、そういう話が舞い込むようになる。
僕も大学時代は、何か特別な目的があって生きていたわけではありませんでした。
ラッキーなことに就職活動というものがあり、一年くらい自分を見つめ直す時間があった。
そこである程度、「どこに向かうべきか」見えたのでそっちに行けているというのがあるんで。
水野との話でも、まず決めちゃうんですよ。
決めると楽になるというか。

結局人間って脳みそなんですよ。
脳みそが全て決める。
脳みそって色んな刺激で変わっていくと思うんです。
MacでもOSは一緒ですよね、そこにソフトとして色々なものを入れていく。すると変わってくる。それと同じことだと思います。
千原さんにしてもこういうところ(れもんらいふ塾)で色んな人と出会ったりして、刺激を受けてどんどん変化していっているのだと思います。
千原
そうですね。
佐藤
色んな人たちと一緒にやってきて気を付けていたのが、「時間の管理」と「出会い」。
「出会い」というのは「人」だけでなく「仕事」のことも。
脳みそが変わると、アウトプットするものも変わる。
それができている人とできていない人の違いが人としての大きな〝差〟になっている気がします。
千原
例えば、芸人さんでも売れない人もいるじゃないですか。
そういうのって、その辺りに答えがあったりするのですか?
佐藤
そう思いますね。
芸人さんが売れることってまず「ネタが面白い」ことが必要だと思うんですね。
当時は特にテレビに出なければいけない。
可能性としては、基本的に漫才やコントの番組がきっかけとなります。
ならば時間の使い方としては、少なくとも「ネタをおもしろくすること」に時間を使わなければいけない。
にも関わらず、あまりそこに時間を費やしていない人というのは───やはり売れていませんね。
ご飯を食べる時間にしても、芸人さんだけで集まっていると発想も同じものになってくる。
例えばロンブーの淳さんの場合、食事の時は芸人さんと絡まずに意識的に外の人と会っていたりしている。そういう意味で自分に投資しています。そのような人たちはチャンスを掴んでいますね。
『いきものがかり』の作り方。
千原
水野さんは、『いきものがかり』をスタートした時はどんな感じだったんですか?
水野
いきものがかりの原点は三人で話して決めていました。
僕たちが他のグループと違ったことというのは「〝できること〟と〝できないこと〟を分けた」ということ。
できないことを切り捨てていったんです。
それはとても大きくて。
千原
切り捨てていったのは何だったのですか?
水野
例えば、演奏の技術に力を注ぐこと。
演奏と一口に言ってもレベルが1から10まであるじゃないですか。
トッププレイヤーは10のレベルにいる。
でも、当時の僕たちって1とか2だったと思うんですね。
演奏で他の人たちに勝とうとすると、1や2から+8レベルを上げなきゃいけないわけです。
これにはとてつもなく労力がかかります。
それにレベルを10まで上げたとしても必ず勝てるとは言い切れない。
短所は切り捨てるんです。
長所だけを伸ばす。
僕たちは楽曲と歌には自信がありました。
そういう〝自信のある部分を重要視する〟という視点を最初から持っていたのが大きかったと思います。
当時は今のようにSNSが発展しているわけではないので、人前に出ようと思ったら一般的にはライブハウスかアマチュアバンドの大会。
僕は神奈川の出身で、地元のインディーズバンドの正攻法というのは「ライブハウスで人気を得てから東京に行く」というパターン。
例えば下北沢とか高円寺などライブハウスが密集した地域でお互いにしのぎを削る。
僕たちがまず決めたのは「そこにはまず行かない」という選択。

地元だと本来自分が持っているコミュニティがありますよね。大学の友達だったり、高校の友達だったり。そこで頑張って一番になるとライブハウスに300人とか集まったりするんですね。
「初ワンマンライブで300人集まったグループ」っていうのは、地元でちょっとした事件になるんですね。すると神奈川の厚木エリアに「300人集める〝変なグループ名のバンド〟がいる」って東京から見に来る人が出てくるんです。
千原
なるほどーw
水野
「当たり前とされていることを、そうじゃないようにする」ということを3人で考えてやっていました。
ライブハウスには〝ライブハウスの文化〟というのがあって、例えば僕たちが初めて出演した厚木のライブハウスはヘビメタの色が強かった。
その名も〝サンダースネーク厚木〟という。
千原
すごいですね。
水野
全員金髪みたいな感じでww
普通のライブハウスよりもステージが高くて、緞帳が幕ではなく電動ャッターが使われている。ガラガラガラガラって。決して大きなライブハウスではありません。
その場所で出演者はみんなアリーナみたいなライブをやるんですよ。
「ありがとーう!」
って。
20人しかいないお客さんの前で。
バンドでご飯を食べていこうと思っている人たちって、その夢しかないので、〝自分たちが他の人間とどう違うか〟っていうことを主張することしか考えていない。
僕たちはとりあえず、〝それをやめよう〟と。
ということでライブハウスでお客さんを集めるのでなく、路上ライブでお客さんを集めました。
そのお客さんを初めてライブハウスへ呼んだ。
そういうところからスタートしていて。
だから「色々考え方を転換していく」っていうのは当時3人ですごく考えていましたね。
千原
そういうタイプのバンドってなかなかいないんじゃないですか?
水野
近くにはなかなかいなかったみたいです。
だから白い目で見られていた感はありますね。
千原
みんな下北とかに行くじゃないですか。
水野
下北のバンドの人たちってみんなうまいじゃないですか。僕たちには「勝てない」と思っていたんですね。
千原
確かにあそこにいる人たちみんな上手いですよね。
「何で売れへんねやろ?」っていう人たちいっぱいいますもんね。
水野
しかも、みなさん九州とか北海道とかから来ている。そういう遠方から来た人たちって峠を越えて来ているので「もう故郷に帰らない」という気持ちなんですよ。
神奈川の連中って小田急線に乗って一時間で帰って来れちゃう。根性がそもそも違う。
会場www
千原
そうですね。
水野
だから、「勝てないなぁ」と。
あと、当時はフェスブームが始まった頃で。
だから、真ん中(王道)が空洞だったんです。
ロッキンジャパンがまだ〝サブカル〟と言われていたくらいの時。
今だとロッキンジャパンと言えば〝メジャー〟だけど当時はまだ〝音楽好きが行く場所〟みたな。
Jポップの認知のされ方がダサいという雰囲気で、〝みんなが聴く音楽〟というものがなくなっていく時でした。
千原
何年頃ですか?
水野
2002~03年ですね。
90年代後半だとまだCDバブルの時。
だんだんとそれに飽きてきて、カウンターとして「違うものをやろう」という風潮だったので、「真ん中空いているなぁ」と。
ここしか僕たち行く道は無かったんです。
「どうも!Jポップでーす!」という感じで参入した。
千原
その目線はすごいですね。
「本当はこれをやりたい」というのはあったんですか?
水野
Jポップは大好きでした。
音楽をはじめた10代の頃は「世の中に自分の気持ちを訴えてやろう」とか「世の中の人たちに〝自分は違うんだ〟っていうことを訴えてやろう」というような気持ちもありました。
「個性こそ人間だ」みたいな。
バンドをはじめてみたら、かなり牧歌的なグループに入っちゃっていてwww
歌うのは吉岡聖恵という自分とは全く違う感覚を持った異性じゃないですか。
自分の感情を通したり、自分が思っていることを歌にしたところで自分ではない。
「このグループじゃないや」って思った瞬間もありました。
だけどそこで転換していった。
吉岡だからこそ「自分という存在でしか表現ないこと以外を表現できる」。
例えば、僕が10代の女の子の恋の歌を作ったとしても吉岡が歌えば成立しちゃうじゃないですか。
これがシンガーソングライターとして僕が一人で出ていって「今から10代の女の子の恋の気持ちを歌いたいと思います」って言っても違和感が出ちゃう。
千原
そうですね、「何なんだろうこの人?」ってなりますね。
水野
コントになっちゃうじゃないですかwww
僕じゃない方が成立することも多い。
〝35歳の<水野良樹>という人間を超えた表現をできる〟と考えたらすごい広がったんです。

<千原徹也>
千原
音楽をすること自体が「尖がっていること」であったりする。
「ど真ん中に行こう」という人はなかなか少ないのかもしれませんね。
水野さんと初めてお会いした時に、その「真ん中に行く話」を聴いたんですね。
音楽って「売れる、売れない」のところでみんな悩んでいるわけじゃないですか。
昔なら、バンドブームがあり、メジャーに行くと売れ線のJポップを歌い始めて、それがファンの中で「え?そんな風になっちゃうの?」みたいな。
つまり、音楽で食べていくためのジレンマがあって。
水野さんはそこを越えて「みんなが楽しめる曲を作るんだ」という考え方になっている。
それが『いきものがかり』の人気に繋がっているんだという感じがします。
因みに〝自分が作りたい曲の部分〟と〝お客さんがどう思うかっていう部分〟の比重ってどういう風に考えていますか?
水野
それは最初の頃から比べるとずいぶん変わってきています。
今は目的が「お客さんに喜んでもらう」というところに特化しています。
それが僕のやりたいことになっている。
例えば、「僕がコーラ作りたい」、「お客さんはビール欲しい」その間を考えようという話ではなくなってきていて。
「お客さんはビールが欲しいのか。それじゃあビールを作ろう」みたいな感じになってきています。
とにかく、お客さんに楽しんでもらいたい。
それでも調整することは考えています。
同じビールを出すにしても「もうちょっと辛味があるものをみんなに好きになってもらえるんじゃないか」と思ったら辛い味にしてみたり。
そういうのはあります。
───今たまたまビールという話をしましたが。
ビールを作るじゃないですか、みなさんに飲んで頂けるじゃないですか。
ビールのある場所って居酒屋だったり、カラオケボックスでみんなで飲みながら歌うとか、騒いでいる姿まで想像しているんですね。
騒ぎながらみんなで「いぇーい!」っていう感じで飲むビールもあれば、ホテルのラウンジのような場所で形のいいグラスに入っているビールを綺麗に飲むっていう場面もあるじゃないですか。
同じビールでも場所によって味わい方が違う。
そういうことを全部想像して作っています。
そのイメージに社会が近づいていくことに喜びを感じています。
実はやっていることはメッセージソングと同じで。
メッセージソングって自分のメッセージを聴き手に渡して、それによって社会が変わっていくっていうやり方じゃないですか。
僕の場合はみなさんが欲しいものを提供したいのだけど、その提供しているものによってみなさんの考え方が変わっていくことが理想なんです。
「こんな社会になったらいいな」とか「こんな風な感情になってほしいな」という風にみなさんの感情や社会がそのような状態になっていればいい。
みんなが欲しいものを提供しているけど、結果的にみんなの心が変化している。
ちょっとひねくれてた考えですが。
否定されて気付くアイデンティティ。
千原
「この曲から手ごたえが変わった」とか、そういうのってあります?
「自分が目指すところがやっと分かってきた」みたいな。
水野
デビューする1年ほど前から育成期間として、デビュー曲候補をたくさん作ったり、レコード会社にガンガン教育される時期がありました。それが辛くて辛くて。
当時僕たちを担当していたディレクターがむちゃくちゃ厳しい人で、プライドが折れるくらいキツイことを言われ続けた一年があった。
僕たちとしては「ど真ん中の曲をつくる。そのためには何でもやる」という想いだったのですが、それがぼんやりとしか考えていなかったことにその時気付かされたんです。
相手に提示されると、「え、そんなの嫌だ」って思う自分に初めて気付いた。
歌詞を書いて提出すると、修正されて返ってくる。
そのことに対して「嫌だ」と思う自分がいた。
自分たちの「やりたい」と言っていることが、今まで「ど真ん中だよ」とか「どんな音楽でもやりますよ」とかざっくり考えていたことが、そうではなかった。
それが分かると、本当にやりたいことというのが細かく分かってくるんです。
そんな期間が一年あって。
Sonyでデビューするーティストってアニメのタイアップ曲が多いんですね。
アニメっていうのはアニメファンの方がいるんで、新人でもある程度の枚数が入る。だから新人がその枠を奪い合う。めっちゃビジネス的な戦略なんです。
何曲も何曲も作って、それをコンペして、ダメだダメだってなって。
作るっていってもアニメに寄せたものばっかりだったので、ガンガン自分たちの音楽性から離れていくわけですよ。
その時すごく人間不信に陥って崩れていった人もたくさんいました。
千原
デビュー前って大変ですね。
水野
これがうまく通っていたら人生変わっていたと思うのですが。
「もうダメですよね」ってなったんですよ。
「タイアップ取れないから自分たちの好きなように作りましょう」ってなった。
自分たちの持ち味はバラードだし「ど真ん中のバラード作ろう」と。それで『SAKURA』という曲が生まれた。
「お前、今さら桜ソングかよ」って。
森山直太朗さんが出て、コブクロさんが出て、河口恭吾さんが出て、ケツメイシさんが出て、桜ソングが全部一周終わっている時に「お前たち今さらかよ!」ってww
でも結果的にそれがうまくいった。
Jポップの大きなテーマである〝桜〟を逃げずに、ど真ん中からいったっていうのが僕たちにとってはすごく良かった。
千原
確かに、〝桜〟ってど真ん中ですよね。
水野
また散って、また舞うの?みたいな
会場www
千原
結成した時に、ボーカリストが女性で、彼女を介すことによって曲の幅が広がったという話がありました。
今は彼女をベースに歌詞を考えているんですか?
水野
考えていないですね。
千原
自分の気持ちですか?
水野
自分というよりもお客さんの気持ちですね。
途中で変わってきたのが、吉岡の声に対する認識です。
デビューした当時より今の方が、世間では感覚的に彼女の声が知られています。
例えばもっと有名な方でいうと槇原敬之さんの声って聴いたら一瞬で誰もが「あ、槇原さんだ」って分かるじゃないですか。
国民が認知している。
「知っている声」というのは大きくて。
イメージが先に出来上がっているんで、そのキャンバスに対してどう描くかっていうのが途中から大変な作業になってきた。
質問が導く〝哲学〟。

二部からは質疑応答の時間。
塾生からの質問に真摯に答える二人のゲスト講師。
〝質問内容〟以上の回答を聴くことができるのも、れもんらいふデザイン塾の醍醐味。
二人の哲学に迫る。
《質問》
大量の仕事を抱えているにも関わらず、とてつもないスピードで効率よくこなしています。
マネージャーをはじめてからそういったマネジメント能力が身に付いたのか、それともそれ以前からの能力なのでしょうか?
佐藤
学生の時は何も考えていませんでした。
ただ、「エンタメの仕事をしたいな」とやりたいことははっきりしていました。
就職活動がうまくいって吉本に入れて。
僕、なんとなくクリエイターをやりたかったと思うんですよ。
それこそロバートの秋山さんやロンブーの淳さんなど色々な人にお会いさせてもらって、一緒に仕事するようになって〝クリエイターとしてのプライド〟をボキボキ折られるわけですよ。
そこから「お客さんを楽しませたい」というところにゴールが変わっていった。
自分が直接的にモノを作るっていうところの才能がなかった。
というより「勝てないな」と思い知らされる人たちが周囲にたくさんいた。
「自分が勝てる場所ってどこだろう?」と思って、辿り着いたのが裏方のプロデュースみたいなところだった。
ただ、今でもまだ、それが正解とは思っていなくて。
世の中に一回出したり、動いてみないと、それが良いのか悪いのかっていうのは分からない。

今の時代って手紙を書いて送ることはしない。
電話をして、それよりもLINEなど色んな方法でコミュニケーションをとれる時代ですよね。昔だと10日間かかっていたものが、一時間くらいである程度動きはじめることができるようになった。
つまり、昔の人が11日目で「やっぱり違った」と気付くものが2時間後くらいに気付けるようになったんです。