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概念デザイナーの紡ぐ〝言葉〟。


今年の1月───オランダから講師のイェッセ・ミュルダー氏を招き、4時間に渡る哲学講義『人間は思考する』が行われた。

『人間は思考する』←そのレポート記事はこちら)。

〝考えること〟について考える。

最も自然であり、最も難解であり、最も人間的な行為。

実直に〝思考〟と向き合った貴重な時間であった。

思考すること───。

それは、人間が持つ特有の行為であるにもかかわらず、その〝行為〟について客観的に見つめ直すことを私たち現代人は疎かにしているような気がする。

あたかも当然のものとして、意識に留まることさえなく流されていく。

それほどまでに私たちは日常の営みに忙殺されているのであろうか。

私にはそのほとんどが〝暇を塗り潰すための行為〟に時間を費やしているような気がしてならない。

ほんの4時間の講義が改めて〝生きる意味〟について考えるきっかけとなった。

目の前に広がるモノクロの世界───〝思考〟について考える行為はその殺風景な風景に彩りを与えていく。

〝たった4時間の講義〟は土を耕すにはあまりにも短か過ぎた。

しかし、〝土をいじる〟ということの意味を掴むには大変役立った。

日々の生活を通して、大仰に言えば〝生きていくこと〟を通して、土壌を豊かにしていく術を私たちは学んだのだ。

土壌を豊かにすること───それは、思考を耕し、人生を豊かにすることに繋がる尊い行為。

非常に価値のあるヒトトキであった。

 

その講義を振り返る意味もあり(または私の個人的な好奇心によって)、主催のShikoku Antohroposophie-Kreis代表である竹下哲生氏に改めてインタビューを行った。

哲学講義以上に、私の興味を惹きつけたのは竹下氏の放つ瑞々しい〝言葉〟たち───。

氏と初めて話したのは電話だった。

相手の姿が見えないにもかかわらず(だからこそなのかもしれないが)、なめらかで整理された言葉の響きに惹かれた。

記事の中で私は氏の言葉をこのように表現している。

彼の言葉には迷いがなかった。

こよなく論理的で、こよなくスムースな。

淀むことがなく、尚且つ彼の口にした言葉たちには多彩な響きが宿されていた。

「頭の中に浮かんだ言葉を口に出して組み立てていく」というよりも、彼が話しはじめる前には既に文章は完成されていた。

ただ、頭の中にある完成されたもの(文章)をそのまま再現しているような。

それらは音楽的ですらあった。

───つまり、美しかった。

私にとって小説以外で〝会ったことのない〟人物のことを書いたのは初めての経験だった。

記事にした『「考えること」について考える』は教養のエチュードの中でも類を見ない注目を浴びた。

氏の話し言葉と同じくらい(若しくはそれ以上に)書き言葉は私を魅了した。

記事を確認して頂く中で、幾通かのメールがポストされた。

その便りを開くことは私にとって甘美な体験であった。

目の前に広がる景色───。

言葉の並ぶ〝フォルム〟としての美しさ、文体の持つ心地良いメロディ。

教養とユーモアが心地良いバランスで散りばめられていて、頭の中で咀嚼する際に適度な歯ごたえが〝読む〟という行為に幸福を与える。

氏は呼吸するように〝言葉〟を吐き、〝言葉〟を書く人なのだろう。

ずっと読んでいたい気分になる。

「いつまでも読んでいたい文章」とはなかなか出会えるものではない。

氏の紡ぐ言葉は、私にとって貴重な出逢いであった。

当たり前のことではあるが、何もベストセラー作家の文章だけが美しいのではない。

世界には、まだ日の当たらぬ場所に圧倒的な深度と熱量を含んだ怪物のよう才能が存在する。

呼応する感性は人それぞれなのかもしれないが、私にとって竹下氏の〝言葉〟は確実に〝特別〟なものであった。

知性と感性の綴れ織り───アート的なオーラをまとった〝言葉〟たち。

教養が纏う、芸術が纏う、空気感。

うっとりするようなその美しさ。

そこには確実に〝シュタイナー的要素〟があるのだろう。

直接的な質問はあえて外したが、今回のインタビューでその辺りの秘密にも足を踏み入れることができた。

今回は竹下氏の〝話し言葉〟と〝書き言葉〟を織り交ぜて構成する。

ロンネフェルトの紅茶でもお召し上がりになって、美しさを纏った響きを味わっていただければと思う。

まずは、『人間は思考する』の講義レポートを読んだ氏の感想から───。

 

(以下は竹下氏のメールより抜粋)

特に最後の部分は、秀逸だったと思います。

自分では納得行かない(腑に落ちない)から、改めて〝自分で〟考えてみたくなる。

そうやって「自分なりの答え」を見つけたと思ったら、また新しい疑問が湧いてくる…という風に哲学は展開していきます。

そして自分の考えを人に話して、その人が理解してくれるのか、或いは「間違っている」と言われるのか。

仮に「間違っている」ならば、それは自分の考えなのか、相手の考えなのか……と哲学的な「対話」が進んでいくんですね。

正に〝ディベート型社会〟ではなく〝ダイアログ型社会〟ですよ。

嶋津

振り返ってみて、講義の感想をお聞かせください。

竹下

これほど多くの方に受け入れられると思っていませんでした。

全く予想していなかったので率直に嬉しいです。

嶋津さんの記事の中で一神教と多神教の違いを述べていたように、日本人というのはどうしても哲学的ではありません。

つまり、根本的に遡り「立ち止まって考えてみましょう」というのが得意ではないんですね。

どちらかというと〝習慣に従う〟という特性があるように思います。

そういった気質を持った〝非哲学的な民族〟です。

それが悪いと言っているわけでなく、日本人の良いところでもあります。

だから今回のイェッセ氏の講義においてもきっと「小難しくて受け入れられないのではないか?」と思っていましたが、予想以上に良い反響がありました。

それは一般参加者からはじまり、それから当然何人か哲学の教授、専門家の方もいらっしゃったのだけども、軒並み非常に良い反応で、想定外でした。

嶋津

講義では受講生たちはめいめいが疑問を抱え込んでいて、異様な空気を感じました。

さらには会場ではたくさんの質問が寄せられていました。

竹下

非常に大きな収穫でした───。

(以下は竹下氏のメールより抜粋)

「真理は一つ」そして「善は一つ」というイェッセの話を聞いて「ん?何かおかしいぞ」と思ったり、或いは「イェッセさんの言うことは間違っている」と思ってくれた人がいたならば、それは僕らにとって嬉しい限りです。

何故なら、それは〝その人が自分の頭で考えている証拠〟だからです。

というのも哲学というのは別に、昔のエラい先生の言った〝正しいこと〟を暗記することではなくて、自分で考えることだからです。

そういった意味でイェッセさんの講演は、明らかに「成功した」と言えると思います。

ところが興味深いことに、殆どの人は〝自分で〟疑問を持ったにも拘らず、その答えを〝外に〟探そうとします。

別の表現を用いるならば、思考という内的なプロセスを、既存の〝知識〟によって誤魔化すことを始めるのです(思考の怠慢)。

それは詰まり東洋は多神教(相対主義)だから、西洋の一神教(絶対主義)はそぐわないと。

実際、こういう意見は東京講演でも有りました。

しかしイェッセは、最初から最後まで徹頭徹尾、人間のことしか話していません。

彼は自然界との対比において人間の話をしたのであって、神については何も語っていないはずなのです(冒頭の僕の挨拶を除けば)。

これが第二部だとするならば、第一部の主題は「思考には二面性が有る」というものでした。

嶋津

講義の中で「水と植物と動物」についての話がありました。

あの話を聴いた後に僕の妻が質問してきたんです。

ガラパゴス諸島にいるイグアナの話なのですが…

そこに住むイグアナはサボテンを食べて暮らしていて、サボテンはイグアナに食べられないように上に伸びて(成長して)いくことで絶滅を回避したという話なのですが。

「これはもしかしてサボテンは〝思考〟を持っているんじゃないの?」って。

僕もうまく答えることが出来なくて…

竹下

シュタイナーはすごく面白いことを言っています。

おおよそ「そのように考えるのはよく分かる」と。

例えば、植物のオジギソウってありますよね?

手で触れたらパッと引くような動きを見せます。

つまり外界の刺激に対して特定の反応を起こす。

その意味において、奥様の話されていたサボテンと同じことです。

「仮にこの存在が意識を持っているというのであれば良い例がある」

シュタイナーはそう語ります。

「それはネズミ捕り器だ」

嶋津

ネズミ捕り器ですか?

竹下

ネズミ捕り器って、ネズミが木の板に乗ると反応してバネが動きますよね?

だからと言って〝ネズミ捕り器に意識がある〟とは誰も考えません。

嶋津

能動的なものではないと、〝意識〟とは呼びにくいということでしょうか?

竹下

ポイントは〝内的な体験〟があるかどうかだと思います。

誰もがネズミ捕り器だったら、「意識なんてあるわけがない」と思うはずです。

ネズミ捕り器が〝意志を持ってネズミを捕ろうとしている〟のではなく、ネズミの重さでバネがパタンと落ちている───つまり機械的な反応だということは分かるわけですよね?

同時に、外界からの刺激に対して反応しているということも事実ですよね。

嶋津

おもしろい!

無意識的に「ネズミ捕り器には魂は宿らない───つまり、思考は持たないと考えていました。

〝常識〟というものに侵されていますね。

魂が宿る定義を考えねばならない。

サボテンやネズミ捕り器に〝魂〟を持たせるのが小説家の仕事だったりはしますが。

竹下

まさにそのような質問は東京でもありました。

質問者は「植物にも魂があると思うし、ひょっとしたら鉱物にも魂があると思っている」というような旨のことを話した。

イェッセがどう答えたのかというと、「それはまさに仰る通りで、何を持って魂と呼ぶかによる」と。

「例えば、アリストテレスであれば〝植物にも魂がある〟という表現を使っているのですが、彼が使っている〝植物の魂〟という概念は植物の成長を適切に表現するために使用されている言葉だから、ここで意識があるということとは違うんだ」と話しました。

何を持って〝意識〟とするか、また何を持って〝魂〟とするか、は定義によります。

(以下は竹下氏のメールより抜粋)

即ち思考とは主観的で客観的なものであり、また具体(個人)的であり一般(普遍)的であるということです。

恐らく多くの人は「真理は一つである」という命題を聞いて、イェッセが思考の客観的・普遍的側面ばかりを強調されているように感じられたのだと思いますが、そうではないということは第一部で既に述べられているのです。

そういった意味で彼が一神教的な西洋から来た人間だから、多神教的・相対主義的な日本人には納得がいかないという説明は、第一部の内容を忘れてしまったか、或いは自分にウソをついているということになります。

実際「善はひとつなんて信じられない」というメールを僕に送ってくれた参加者が、その数日後に「自分の中にも『善はひとつ』という考え方が有った、ということに気が付いた」という嬉しいメールをくれました。

そういった意味でイェッセさんの言っていることは、自分に対して正直にさえなれば、きっと納得してくれる事なのです。

嶋津

会場では疑問や質問が量産され、その様子を見て竹下さんは「それは非常に嬉しいことだ」と仰っていました。

やはりディベートではなくダイアローグ───「対話が大切だ」という話に繋がっていくのでしょうか?

竹下

東京公演の後、イェッセと僕と僕の父親で日光に行きました。

東照宮を参拝した後、男三人で温泉に浸かっていたのですが。

その時に父がイェッセに「今、何の勉強をしてるの?」と聞いたんですね。

すると彼は「形而上学」と答えた。

父は70手前の年齢で、いわゆる〝団塊の世代〟の一番下くらいに位置するんですね。

当時、大学の学生運動なんかが盛んな時代で。

〝形而上学〟と聞けば、父の中では〝唯物論と闘っている人たち〟というイメージしか湧いてこないんですよ。

で、「学生運動のあった頃には内ゲバが…」という話に移っていった。

ただ、僕の中ではそういうのってすごく古いんですよ。

〝自分の意見を明確にするために人と闘う〟という方法は。

嶋津

相手を打ち負かすことで自分の意見を正当化させる、という意味でしょうか。

竹下

そうですね。

言い換えれば、「自分はこうだ」ということを貫くために〝摩擦を必要とする〟ということ。

方法として、これってすごく分かり易いんです。

差別的に響くかもしれませんが〝弱い自我〟───外から擦れていないと目覚めない自我。

そういう段階なんですね。

もし本当に自分自身の中で明確な「自分はこうだと思う」という意識があれば、逆にいくらでもそれを人前で消すことができるはずなんですね。

つまり、ガンガン人に言われたとしても「それでも負けず私は主張する」というのではなく、「それをしようがしまいが自分は1mmも動かないから、いかにして自分と違う意見を受け止めていけるか」というのが本当の意味で〝強い自我〟だと思うんですね。

嶋津

どうやって自分を消すことができるか。

竹下

そういうのがすごく大事で。

僕にとってそれはとても大切なテーマなんです。

僕たち(アントロポゾフィークライス)としては〝シュタイナーが言っているという事は正しい〟っていうのはあるんですね。

ただ、そんなことを人に言ったところで全く意味はないんですよ。

そうではなくて、僕が正しいと思うことは山ほどあるけども、他の人が〝正しい〟と思っていることを聞きたい。

そして、その人が言っていることを真剣に理解しようと努める。

もちろん「僕はこう思いますよ」と発言することもあるけれど、最終的な目的は〝その人を説得できるか〟ではなく、〝自分が変わっていくかもしれない〟という可能性の方なんです。

それこそが僕が最も望むものなんです。

嶋津

ある種、合気道的な立ち回り方ですね。

相手の言葉(考え)を自分の中でどう返していくか、という。

向こうから放たれる言葉と自分自身の思考をいかに同化していくか。

竹下

「自分の考えはこうだ!」と言って論破していくことよりも、お互いに話し合って新たな落としどころを見つけたいですね。

自分の中でも新しい発見があればそれはとても素敵なことですし。

相手を〝僕の考え〟で染めたいわけではない。

結局、〝僕の考え〟とは別の点であったとしても、相手が何かを気付いてくれればそれで良いんですよ。

僕みたいな人間を増やしても意味がないと思っています。

そうではなく、皆一人一人が考えを持つことの方が重要です。

その中において、〝他人の考えを理解できる能力〟というものを少しでも身につけることができればすばらしいのではないかと思っています。

嶋津

おそらくここが今回の取材のパンチラインになるであろうと思います。

そういった考えはいつ頃お持ちになったのでしょうか?

竹下

随分と昔からです。

個人的なことを言うと、僕はドイツへ行きキリスト教を学んだわけですが、そう言う意味では僕はゴリゴリの原理主義者なわけですよ。

で、それは〝僕個人の問題〟なんですね。

社会的な人間として振る舞う時には僕はそれを消さなくちゃならない。

反対に、僕の中の確固たるものがクリアになればなるほど、他人に対してそれを出してはいけない───「良くない」という表現は言い過ぎかもしれませんが、きっと「不適切だろうな」くらいには思っています。

嶋津

確信があるからこそ、〝消す〟ことができる。

竹下

自分の中でどう考えても動かないというようなクリアなものがあれば、の話ですが。

自分の想いを他者へ向けたところで、単なるイタイ人間と思われるのがオチで───〝玄米さえ食べていれば病にかからない〟とか。

嶋津

僕は竹下さんのことがとても不思議に感じます。

ニュートラルなポジショニングといいますか───竹下さんの話を聴いたり、文章を読ませて頂いた時に感じるのは「なんてニュートラルなんだろう」という感覚があって。

求心力の強い思想というものは、その影響力の強さあまり外側から眺めた時に〝歪み〟として映ることもあると思うんです。

それは当然のものとして。

〝一般的な世界〟というものがあると仮定するならば、竹下さんはその世界と〝シュタイナー思想の世界〟を自由に行き来できる人なんだ、と。

非常にナイーブなテーマですが、僕の言いたいことは伝わりますか?

竹下

よく分かります。

僕はその〝濃さ〟にある臭みを取るように努めています。

〝濃い〟というのが表層的に現れているのは、僕は良くないことだと思っているんです。

僕も関係者が集まる人智学の勉強会などではゴリゴリの〝その感じ〟は出すんですよ。

ただ、それって結局お互い同意の上と言いますか、「シュタイナーの勉強しましょう」とか「テキスト読みましょう」とか、その中の話のことなんですよね。

それを外に人に「シュタイナーはすばらしい人で、彼の言ったことに従っていれば全て間違いないんです」なんて言うのは愚かな行為ですよね。

嶋津

そのバランス感覚と言いますか、そのようなニュートラルな点を非常に興味深く思いました。

『小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く』 勝海舟が西郷隆盛を評した言葉だ。

打たれる強さによって響き方が変わる。

竹下氏にはそのような能力がある。

さらには相手の潜在的な力(気付き)をも引き出す不思議な鐘だ。

確固たるものがあるがゆえ、常に相手とのバランスを瞬時に見抜き、最適な位置に立つ。

この場合における〝最適〟というのは「何かが起こるため」の起爆剤となり得る可能性が最も大きくなることを前提とする。

以前、記事の中で私はシュタイナー思想についてこう論じた。

(『「考えること」について考える』より抜粋)

サイエンス(論理)の長所は意思決定を促しやすいという点にある。

論理は他者に対し、説明が安易だからだ。

対照的にアート(感性)は説明が非常に難しい。

しかし、アートの力は実にパワフルで、論理を超えたところまで発想を飛ばすことを可能にする。

時間も空間も短縮し、テレポーテーションのように異次元へと移動することができる。

どちらか一方が勝っているということではなく、アートとサイエンスの両輪が揃って、初めて絶大な効果を発揮する。

サイエンスは演繹的な方法で、アートに論理力を与えることができるし、アートはサイエンスに新たな問いを投げかけることができる。

そこから考えると、竹下さんの語るシュタイナーの思想はアートとサイエンスの両輪を持っている。

対象によって、アートとサイエンスを巧みに演じ分け、新たなヒントを創造する。

既存のコード(メロディ)にノイズを与え、発見を促す。

ノイズという違和感から、新しい何かが生まれる。

その言葉を受けて竹下氏はこう答えた。

(以下は竹下氏のメールより抜粋)

「シュタイナーの思想はアートとサイエンスの両輪を持っている」という表現は、全く正鵠を射たものです。

何故ならシュタイナーは哲学者を「概念の芸術家」と呼んでいるからです。

そして現代に於いて〝芸術〟が大きく「アート」と「デザイン」に大別されるので、僕は「概念デザイナー」を自負しています。

まあ僕は、アンマリ自分をかっこ良く表現したくないので、こういう言葉は使いませんが(笑)

ここで重要になるワードは紛れもなく〝アート〟と〝デザイン〟

竹下氏は自身のHPに記載した記事の中でこの二つをこう表現している。

(以下はShikoku Antohroposophie-KreisのHP内記事より抜粋)

アートは行き当たりバッタリの創作活動の中で、何処かに漂着すればそれが「ゴール」なのですが、デザインに於いては最初からゴールが決まっています。そしてデザイナーは様々な制約の中で仕事をしますがアーティストの仕事は、そういう社会の「枠組み」そのものを壊すことでもあるのです。

端的に言ってアーティストは「散らかし」て、デザイナーは「片付け」ます。

これは一般に問題提起と問題解決と言われているのですが、兎に角デザインとアートというのは本当に何から何まで正反対です。

「概念デザイナー」として、〝散らかし〟と〝片付け〟───〝問題提起〟と〝問題解決〟を自在に使い分ける芸術的(時として遊戯的)な思考。

竹下氏の過去を掘り下げていく過程で、その糸口が見え隠れする。

 

嶋津

竹下さんの個人のお話でいうと、ドイツへははじめから「司祭になる」というお気持ちで行かれたのでしょうか?

竹下

これはさらに個人的な話になるのですが、僕は目が悪いんですね。

普段は〝普通に振る舞っている〟ので誰も気が付きませんが、ほとんど見えていません。

特に夜に暗い道を歩く時には白杖が必要です。

非常に視野が狭いので、例えば握手の手を出されても、気が付かないということが多々あります。

網膜色素変性症と言いまして、14歳くらいに症状が出始めました。

18歳で自動車免許を取得したのですが、症状が進行し、19歳の頃にはもう運転はできない状態で。

その地点で「明らかにこれはもう一般的な仕事に就くのは不可能だ」ということが見えてくる。

日本の大学に通っていたのですが、辞めてドイツへ行きました。

嶋津

ドイツへはその時に?

竹下

遡るのですが、その2年前───高校生の頃にドイツへ行ったことがあり、その時に親戚の人が「シュタイナー学校に行ったらどう?」と薦めてくれて。

学校が面白くなかったから「それも悪くないな」と思っていたのですが、まさか本当にそうなるとは思っていませんでした。

嶋津

高校時代はどのような学生だったのでしょう?

竹下

当時は何もかもがつまらなかった。

登校拒否というわけではありませんが、学校へ行くことに何一つ面白みを見出せなかった。

嶋津

同級生と話が合わない、ということでしょうか?

竹下

そうですね、話が合わないのが全てというわけではないのですが。

先日も同窓会があったんですが、その時気付いたんですよね。

〝僕は全然友達を見ていなかったんだ〟ということを。

嶋津

興味を持てなかった。

竹下

全くもって他の事を考えていました。

学校で起こるあれこれよりも、僕なりに〝自分にとって重要なこと〟というのに集中していて。

その様子を見てか、親戚が「ドイツに行ってみないか?」と。

「面白そうだな」と思って行ってみた。

すると全然違う価値観がそこにあったんです。

それで「ドイツっておもしろいなぁ」と。

日本の大学とかは嫌だなぁとか思いながらも受験に通ってしまったのでなんだかんだと進学したのですが、当然続くわけもなく…。

目の問題もあり、日本の大学で勉強したところで普通の仕事に就けるわけもない。

そういうのが色々重なり、自分なりに考えをまとめてドイツへ発ちました。

嶋津

ドイツは竹下さんの中で肌が合った。

竹下

今思えばそうかもしれません。

向こうは完全な個人主義で───集団ではなく、個人で行動して構わないんです。

それが僕にとって衝撃で。

つまり、日本では〝まずは礼儀正しく〟───相手とぶつからないように名刺渡して……みたいなステレオタイプの作法がありますよね。

それはそれで悪くはないのですが、向こうはまずは「あなたは何者だ?」という感じで距離を詰めてくるんですね。

そこで、「いかに相手が予想外のことをするか」というのが腕の見せ所だったりするんです。

それは決して相手を傷つけるという意図ではなく、「お前はこう思っているだろうけど、俺はこう反応するよ」みたいな感じのことを日常的に軽やかにやるんですよ。

嶋津

相手が〝想定する枠〟の外側の動きを見せる。

竹下

そうです。

相手がそれに対応すれば「お、コイツ合わせてきたな」という感じで。

そういったコミュニケーションの中で「あ、この人フットワーク軽いなぁ」っていう感じなるとすごく仲良くなるということがあるんです。

嶋津

なるほど。

竹下さんのユーモアはその辺りが原風景となっているのでしょうね。

竹下

そうかもしれません。

「失礼な人」みたいな感じでたまに言われたりしますが。

嶋津

www

僕は竹下さんの文章を読んで「この人は相当おもしろい人だ」と思ったんですよ。

真面目なアートの文脈に時事的なコメントを入れて突然ずらしたり、さらにはさり気なくピリッと毒の利いたことも入れ込んでくる。

それはもちろん笑いの許容に入るんですけどwww

竹下

そうですね。

僕としてはスパイス程度に思っているのですが時々「キツ過ぎます」というお叱りを受けたりすることもありますが…

向こうで感じたのは、率直に「こういう風に生きていいんだ」ということですね。

簡単に言うと、大人だったらネクタイ締めて名刺持って……と、そういうことをやらなくちゃいけないのだろうと漠然と思っていたのですが、ドイツへ来て、「その必要はないんだ」と気付いたことが大きかった。

嶋津

生きる指針を構築する上でドイツは大きな存在だった。

嶋津

学生時代のことですが、具体的にはどのようなことに興味を持たれていたのですか?

竹下

キリスト教とクラシック音楽です。

嶋津

楽器の演奏もされていたのですか?

竹下

ピアノをほんの少し弾くくらいですが。

ゴリゴリのクラシックファンです。

嶋津

クラシック音楽は特別かもしれませんが、芸術全般に関する教養というのは当時から興味があったのでしょうか?

竹下

〝ヨーロッパに対する憧れ〟ではありませんが、その初期衝動というが15歳くらいの時に…

ミケランジェロの『ピエタ』という彫刻をご存知でしょうか?

バチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂に所蔵されているのですが。

あれを見た時に「これだ」と思ったんですよ。

嶋津

非常に興味深いお話です。

それは何の媒体をご覧になってそう感じたのでしょうか?

竹下

おそらく社会科の教科書か何かだったと思います。

面白いことに教科書に図案として出てはいるけれど、授業では『ピエタ』には一言も触れないんですよね。

これはミケランジェロが作った彫刻で、胸のところには彼の名前が掘られていて、サン・ピエトロ大聖堂の入った右のところにありますよ……みたいなことは一つもなく。

その図案を見た瞬間、何だか分からないが「あそこに行かなきゃ」と思ったんです。

嶋津

それは衝動のような?

竹下

ええ。

「ここに正解がある」と思ったんですよ。

嶋津

高校生(16歳)の時にヨーロッパに行かれて、実際に『ピエタ』は見に行かれたのでしょうか?

竹下

ドイツのニュルンベルクにいたのですが、いわゆる〝中世美術館〟みたいなところに入って「ハイハイこれこれ」みたいな感じで。

その時、大人が20人くらいいて、その人たちに説明していたんです。

「この作品にはこういう物語があって」という風に。

その様子を親戚が見ていて、

「あなた、そんなに詳しいのだったら司祭になってみない?」と提案してくれたんですよ。

嶋津

「相手の話を聴いて、そこから何か問題提起ができれば…」と仰っていましたが、そうなると〝相手に伝わる言葉〟をこちらから出さないといけませんよね。

その中でも工夫されていることはありますか?

相手にヒントを与えたり、投げかけの中で気を付けてい点───。

竹下

その人が何を考えているのかを知るためには、〝その人が何を見ているのか〟というところから探っていく必要があります。

時には全くこちらの守備範囲外っていうこともあります。

その時にははっきりと「僕の専門外だから分からない」ということを伝える。

「分かったふりをしない」ということも大事ですが、分からないことがあったとしても〝分からないもの〟として受け入れるようにはしています。

すると何年か経った時に、「あの人あの時にこんなことを言いたかったんだろうなぁ」と気付く瞬間がある。

嶋津

竹下さんは文章でも話し言葉でも比喩が多いですよね。

もちろん相手に伝わりやすい表現を…ということで意識的に使っていらっしゃるのですか?

竹下

「例え話が多すぎて分からない」と言われることも結構ありますが。

「もう少し普通に話してください」と。

嶋津

www

比喩って、抽象化と具体化だと思うんですよね。

ある具象を比喩によって抽象化して大きなものにしたり、反対に概念的な大きなものを比喩によって具体化させたり。

竹下さんの頭の中ではそれが連続的に行われている。

僕はその力が欲しいですww

生活の中で意識的にトレーニングされていることなどはあるのでしょうか?

竹下

抽象化⇆具体化ということではないかもしれませんが、例えばテレビでニュースをやっているのを見ていても逐一考えますよね。

「この人は何を言おうとしているのか」

表面的な言葉ではなく、その奥にどういう意識があってその言葉を選んだのか、という。

「Aの表現とBの表現の辻褄があっていないぞ」ということだったり。

「この比喩(表現)を使ったということはおそらくこのような背景があったのではないだろうか?」など。

常に仮説を組み立てながら考えているように思います。

嶋津

仮説と検証を繰り返しているということですね。

ある意味、批評的な視点で見ている。

竹下

〝批評〟という言葉はとても大事ですね。

批判というか、悪く見ないようにはしています。

例えば相手をこきおろしたりする行為───それをすると別のところで頭を使ってしまうようになる。

嶋津

なるほど。

別のベクトルにエネルギーを消費しないようにする。

そういったポジティブな〝批評〟が鮮やかな言葉選びや比喩に繋がる、と考えても良いでしょうか?

竹下

明確にそれに該当するかは分かりませんが。

少なくともその助力にはなっているように思います。

嶋津

メールの中でご自身を〝概念デザイナー〟だと仰っていました。

さらには〝アートは散らかす方で、デザイナーっていうのは片付ける〟という文章に感銘を受けました。

やはり概念を整理していくということを主なテーマにされているのでしょうか?

竹下

実は、それには両方あって───散らかっている人には片付けようとするのだけど、片付いている人には僕は散らかそうとするんですね。

で、〝例え〟というのは、実は散らかしている方なんですよ。

意図的に混乱させてやろうと思ってやっていることもあります。

それこそ先ほどの話題にも挙がった〝原理主義者的な人〟っていうのはそうなんですよ。

頭の中が整い過ぎていて、要するに「これは良い、これは悪い」というのが明瞭な状態なんですね。

「なかなかどちらとも言えない」という事象があるとは思ってもいない。

そういった人を前にすると、何かしらにかこつけて「頭の中をぐちゃぐちゃにしてやろう」と思うんです。

それは決して悪意でやっているわけではなくて、「この人がこれまで考えたことがないテーマを前にした時にどう反応するんだろう?」という好奇心ですよね。

「自分であればもし同じことを言われたらどう感じ、何を思うだろう?」ということを含めて。

先ほど言った〝対話〟ですよね。

純粋な気持ちで言うと、相手の変わるところが見たいんですよ。

嶋津

予定調和ではなくて、今の位置から移動する───現状から何かしらの変化が起きることを望むという。

竹下

僕も相手もね。

そういうのがすごく楽しい。

嶋津

僕が竹下さんに「ユーモアがありますよね」って言ったのってきっとそこですよね?

アート的な───〝散らかす〟ということですよね?

ユーモアにはそのような役割があるのでしょうか?

竹下

そうですね。

先ほど話していたドイツ人とのやりとりの中で、わざと向こうが予想外のことを言うっていうのはまさにそれなんですよ。

当然、お互い大人だから傷つけるようなことはしないという暗黙の了解の下。

つまり、〝デザインされた範囲内〟のことなのですが。

日本で「名刺を差し出す」という行為はそれなんですよね。

〝決まりきった工程を踏めば間違いない〟という。

その枠組みの中で動いていれば失敗しない。

それってとてもデザイン的な方法なのですが、ドイツでは───もちろん握手をしてニコっと笑って…という一通りの礼儀はあるのですが、その時に一般的には想定していないであろうことをあえてやったりする。

そういうことを通していくらでも、「ネクタイ締めてスーツ着ているけども、私はいくらでも動けますよ」ということを相手に見せる。

相手は相手で「お前がそれくらい動けるんだったらこっちはもっと動けるぞ」という感じでお互いに出し合っていたりすると、いわゆる〝化学反応〟が起こる。

「自分にはこのような側面があったんだ」ということをふと気付いたりする。

人と向き合う面白さがそこにはある。

〝勉強をすることは自己破壊だ〟と言った哲学者がいた。

何かを得ること、若しくは何かを失うことで、以前の位置とは違った場所へ行くことができる。

そこから見える風景は異なった色合いを見せる。

得ることも、失うことも、進化するために必要な条件なのだと言える。

嶋津

竹下さんの話す言葉は美しいですね。

何と言いますか、〝文章〟のようにお話になる。

そこに僕は心地良さを感じます。

これはどういう理由が考えられますか?

竹下

それは多分なのですが、高2の時に初めてドイツに行った。

それから18、19歳の頃に本格的にドイツで生活をはじめます。

おそらくまだその地点では日本語が完璧ではなかったのだと思います。

もちろん日本語を話すことはできる。

だけど、いわゆる社会に出た時に使用する〝言葉〟はまた違ったものですよね。

社会人として経験を重ねていくことで、社会人が喋るような〝言葉〟を学ぶというプロセスがある。

僕は18歳の時にドイツへ行っているので、そこでガンとドイツ語が入ってきたわけです。

その時に〝ドイツ語的な思考〟というのに先に慣れてしまった。

つまり、社会人的な日本語を覚える前に。

丸4年ドイツにいて、向こうの言葉の発音などもほぼネイティブに近い感覚になったんです。

もちろん知らない単語もあるし、全てが完璧なのかといえばそうではない部分もありますが。

ただ、考え方として完璧にドイツ人だった。

日本語の方がむしろ遠くにあるような感覚です。

実は、そこからドイツ語が抜けるまで7年かかりました。

その7年間はずっとドイツ語で考えたことを頭の中で日本語に翻訳して話していたんです。

その〝一人翻訳〟をやっていたおかげで、話す時にほぼ詰まることがないんです。

嶋津

なるほど。

だからですね、竹下さんがお話になっている言葉は確かに〝翻訳された言葉〟のような響きがあります。

僕が〝文章のようだ〟と言ったのは、本当に頭の中でドイツ的思考で整理し、文字通り日本語の文章に翻訳してから現れるからなのですね。

竹下さんは日本を知ると同時にドイツも知っていらっしゃいます。

両国の特性を知る身としてドイツ人の方が言葉や思考に対する論理性が強い傾向にあるのでしょうか?

竹下

ドイツ語の特質として───主語があって、動詞があって、名詞があって、目的語があって……という感じは分かりますよね?

ドイツ語は、そういう言葉のルールというか形式が非常に法則的なんですよ。

英語しか知らない人には全く想像のつかない話なのですが、逆に言えばドイツ語というのは〝その法則性を身につけてしまえば、あとは楽なんです〟。

英語はその反対だと言われていて。

簡単に「ちょっとパン買って来て」っていうことは言えるのですが、英語の本当の法則性に辿り着くのってかなり大変なんです。

逆に僕はドイツ語に合っていたということもあるのでしょうが、「ドイツ語は最初に泣くけど後で笑う」ということをよく言われるのですが、英語は「最初に笑って最後に泣く」という。

文法からも分かる通り、そういう意味ではドイツ人の気質というのは非常にクリアで論理的なんですね。

逆にその論理的なフォーマットをマスターしてしまえば、さほど難しくない。

〝形式に乗っかっているうちは綺麗な言葉が喋れる〟という。

嶋津

言語に関する講演をされたりすることもあるのですか?

竹下

求められたことはまだないですが。

神学をやっているのでラテン語とかヘブライ語とかギリシャ語とか、サンスクリット語とかアラビア語とか一通り知っています。

本当に喋ることができるのは日本語とドイツ語だけですが、10ヵ国語ほどは学んでいます。

そういう意味では日本語しか知らない人からすると確かに興味深い内容なのかもしれませんね。

嶋津

今でもクライスの方では農業の講義をしたりだとか

依頼があればジャンルを問わず受け付けたりするのですか?

竹下

そうですね、「お役に立てれば」という感じで。

このようにして終始、私の質問攻めでインタビューは終わった。

内容は〝どこからナイフを入れても美味しい味が出る〟という印象だ。

竹下氏の〝言葉〟をいかに調理するか、色々迷った挙句、できるだけその美しさを失わないように〝ほぼそのままの状態〟で繋ぎ合わせた(所々省いた部分はもちろんあるが)。

そのままの〝響き〟───言葉や所作に纏う芸術的なオーラを存分に味わって頂けたのだとすれば本望である。

Shikoku Antohroposophie-Kreisのメンバーは現在21名いる。

四国以外のメンバーは約半数だ。

興味を持たれた方は、気軽に連絡していただきたい。

 

また、Shikoku Antohroposophie-Kreisでは2018年8月25日26日に大阪にある中之島公会堂にて『アントロポゾフィー的瞑想 青の静かな 「争い」』というイベントが開催される。

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