概念デザイナーの紡ぐ〝言葉〟。


今年の1月───オランダから講師のイェッセ・ミュルダー氏を招き、4時間に渡る哲学講義『人間は思考する』が行われた。

『人間は思考する』←そのレポート記事はこちら)。

〝考えること〟について考える。

最も自然であり、最も難解であり、最も人間的な行為。

実直に〝思考〟と向き合った貴重な時間であった。

思考すること───。

それは、人間が持つ特有の行為であるにもかかわらず、その〝行為〟について客観的に見つめ直すことを私たち現代人は疎かにしているような気がする。

あたかも当然のものとして、意識に留まることさえなく流されていく。

それほどまでに私たちは日常の営みに忙殺されているのであろうか。

私にはそのほとんどが〝暇を塗り潰すための行為〟に時間を費やしているような気がしてならない。

ほんの4時間の講義が改めて〝生きる意味〟について考えるきっかけとなった。

目の前に広がるモノクロの世界───〝思考〟について考える行為はその殺風景な風景に彩りを与えていく。

〝たった4時間の講義〟は土を耕すにはあまりにも短か過ぎた。

しかし、〝土をいじる〟ということの意味を掴むには大変役立った。

日々の生活を通して、大仰に言えば〝生きていくこと〟を通して、土壌を豊かにしていく術を私たちは学んだのだ。

土壌を豊かにすること───それは、思考を耕し、人生を豊かにすることに繋がる尊い行為。

非常に価値のあるヒトトキであった。

その講義を振り返る意味もあり(または私の個人的な好奇心によって)、主催のShikoku Antohroposophie-Kreis代表である竹下哲生氏に改めてインタビューを行った。

哲学講義以上に、私の興味を惹きつけたのは竹下氏の放つ瑞々しい〝言葉〟たち───。

氏と初めて話したのは電話だった。

相手の姿が見えないにもかかわらず(だからこそなのかもしれないが)、なめらかで整理された言葉の響きに惹かれた。

記事の中で私は氏の言葉をこのように表現している。

彼の言葉には迷いがなかった。

こよなく論理的で、こよなくスムースな。

淀むことがなく、尚且つ彼の口にした言葉たちには多彩な響きが宿されていた。

「頭の中に浮かんだ言葉を口に出して組み立てていく」というよりも、彼が話しはじめる前には既に文章は完成されていた。

ただ、頭の中にある完成されたもの(文章)をそのまま再現しているような。

それらは音楽的ですらあった。

───つまり、美しかった。

私にとって小説以外で〝会ったことのない〟人物のことを書いたのは初めての経験だった。

記事にした『「考えること」について考える』は教養のエチュードの中でも類を見ない注目を浴びた。

氏の話し言葉と同じくらい(若しくはそれ以上に)書き言葉は私を魅了した。

記事を確認して頂く中で、幾通かのメールがポストされた。

その便りを開くことは私にとって甘美な体験であった。

目の前に広がる景色───。

言葉の並ぶ〝フォルム〟としての美しさ、文体の持つ心地良いメロディ。

教養とユーモアが心地良いバランスで散りばめられていて、頭の中で咀嚼する際に適度な歯ごたえが〝読む〟という行為に幸福を与える。

氏は呼吸するように〝言葉〟を吐き、〝言葉〟を書く人なのだろう。

ずっと読んでいたい気分になる。

「いつまでも読んでいたい文章」とはなかなか出会えるものではない。

氏の紡ぐ言葉は、私にとって貴重な出逢いであった。

当たり前のことではあるが、何もベストセラー作家の文章だけが美しいのではない。

世界には、まだ日の当たらぬ場所に圧倒的な深度と熱量を含んだ怪物のよう才能が存在する。

呼応する感性は人それぞれなのかもしれないが、私にとって竹下氏の〝言葉〟は確実に〝特別〟なものであった。

知性と感性の綴れ織り───アート的なオーラをまとった〝言葉〟たち。

教養が纏う、芸術が纏う、空気感。

うっとりするようなその美しさ。

そこには確実に〝シュタイナー的要素〟があるのだろう。

直接的な質問はあえて外したが、今回のインタビューでその辺りの秘密にも足を踏み入れることができた。

今回は竹下氏の〝話し言葉〟と〝書き言葉〟を織り交ぜて構成する。

ロンネフェルトの紅茶でもお召し上がりになって、美しさを纏った響きを味わっていただければと思う。

まずは、『人間は思考する』の講義レポートを読んだ氏の感想から───。

(以下は竹下氏のメールより抜粋)

特に最後の部分は、秀逸だったと思います。

自分では納得行かない(腑に落ちない)から、改めて〝自分で〟考えてみたくなる。

そうやって「自分なりの答え」を見つけたと思ったら、また新しい疑問が湧いてくる…という風に哲学は展開していきます。

そして自分の考えを人に話して、その人が理解してくれるのか、或いは「間違っている」と言われるのか。

仮に「間違っている」ならば、それは自分の考えなのか、相手の考えなのか……と哲学的な「対話」が進んでいくんですね。

正に〝ディベート型社会〟ではなく〝ダイアログ型社会〟ですよ。

嶋津

振り返ってみて、講義の感想をお聞かせください。

竹下

これほど多くの方に受け入れられると思っていませんでした。

全く予想していなかったので率直に嬉しいです。

嶋津さんの記事の中で一神教と多神教の違いを述べていたように、日本人というのはどうしても哲学的ではありません。

つまり、根本的に遡り「立ち止まって考えてみましょう」というのが得意ではないんですね。

どちらかというと〝習慣に従う〟という特性があるように思います。

そういった気質を持った〝非哲学的な民族〟です。

それが悪いと言っているわけでなく、日本人の良いところでもあります。

だから今回のイェッセ氏の講義においてもきっと「小難しくて受け入れられないのではないか?」と思っていましたが、予想以上に良い反響がありました。

それは一般参加者からはじまり、それから当然何人か哲学の教授、専門家の方もいらっしゃったのだけども、軒並み非常に良い反応で、想定外でした。

嶋津

講義では受講生たちはめいめいが疑問を抱え込んでいて、異様な空気を感じました。

さらには会場ではたくさんの質問が寄せられていました。

竹下

非常に大きな収穫でした───。

(以下は竹下氏のメールより抜粋)

「真理は一つ」そして「善は一つ」というイェッセの話を聞いて「ん?何かおかしいぞ」と思ったり、或いは「イェッセさんの言うことは間違っている」と思ってくれた人がいたならば、それは僕らにとって嬉しい限りです。

何故なら、それは〝その人が自分の頭で考えている証拠〟だからです。

というのも哲学というのは別に、昔のエラい先生の言った〝正しいこと〟を暗記することではなくて、自分で考えることだからです。

そういった意味でイェッセさんの講演は、明らかに「成功した」と言えると思います。

ところが興味深いことに、殆どの人は〝自分で〟疑問を持ったにも拘らず、その答えを〝外に〟探そうとします。

別の表現を用いるならば、思考という内的なプロセスを、既存の〝知識〟によって誤魔化すことを始めるのです(思考の怠慢)。

それは詰まり東洋は多神教(相対主義)だから、西洋の一神教(絶対主義)はそぐわないと。

実際、こういう意見は東京講演でも有りました。

しかしイェッセは、最初から最後まで徹頭徹尾、人間のことしか話していません。

彼は自然界との対比において人間の話をしたのであって、神については何も語っていないはずなのです(冒頭の僕の挨拶を除けば)。

これが第二部だとするならば、第一部の主題は「思考には二面性が有る」というものでした。

嶋津

講義の中で「水と植物と動物」についての話がありました。

あの話を聴いた後に僕の妻が質問してきたんです。

ガラパゴス諸島にいるイグアナの話なのですが…

そこに住むイグアナはサボテンを食べて暮らしていて、サボテンはイグアナに食べられないように上に伸びて(成長して)いくことで絶滅を回避したという話なのですが。

「これはもしかしてサボテンは〝思考〟を持っているんじゃないの?」って。

僕もうまく答えることが出来なくて…

竹下

シュタイナーはすごく面白いことを言っています。

おおよそ「そのように考えるのはよく分かる」と。

例えば、植物のオジギソウってありますよね?

手で触れたらパッと引くような動きを見せます。

つまり外界の刺激に対して特定の反応を起こす。

その意味において、奥様の話されていたサボテンと同じことです。

「仮にこの存在が意識を持っているというのであれば良い例がある」

シュタイナーはそう語ります。

「それはネズミ捕り器だ」

嶋津

ネズミ捕り器ですか?

竹下

ネズミ捕り器って、ネズミが木の板に乗ると反応してバネが動きますよね?

だからと言って〝ネズミ捕り器に意識がある〟とは誰も考えません。

嶋津

能動的なものではないと、〝意識〟とは呼びにくいということでしょうか?

竹下

ポイントは〝内的な体験〟があるかどうかだと思います。

誰もがネズミ捕り器だったら、「意識なんてあるわけがない」と思うはずです。

ネズミ捕り器が〝意志を持ってネズミを捕ろうとしている〟のではなく、ネズミの重さでバネがパタンと落ちている───つまり機械的な反応だということは分かるわけですよね?

同時に、外界からの刺激に対して反応しているということも事実ですよね。

嶋津

おもしろい!

無意識的に「ネズミ捕り器には魂は宿らない───つまり、思考は持たないと考えていました。

〝常識〟というものに侵されていますね。

魂が宿る定義を考えねばならない。

サボテンやネズミ捕り器に〝魂〟を持たせるのが小説家の仕事だったりはしますが。

竹下

まさにそのような質問は東京でもありました。

質問者は「植物にも魂があると思うし、ひょっとしたら鉱物にも魂があると思っている」というような旨のことを話した。

イェッセがどう答えたのかというと、「それはまさに仰る通りで、何を持って魂と呼ぶかによる」と。

「例えば、アリストテレスであれば〝植物にも魂がある〟という表現を使っているのですが、彼が使っている〝植物の魂〟という概念は植物の成長を適切に表現するために使用されている言葉だから、ここで意識があるということとは違うんだ」と話しました。

何を持って〝意識〟とするか、また何を持って〝魂〟とするか、は定義によります。

(以下は竹下氏のメールより抜粋)

即ち思考とは主観的で客観的なものであり、また具体(個人)的であり一般(普遍)的であるということです。

恐らく多くの人は「真理は一つである」という命題を聞いて、イェッセが思考の客観的・普遍的側面ばかりを強調されているように感じられたのだと思いますが、そうではないということは第一部で既に述べられているのです。

そういった意味で彼が一神教的な西洋から来た人間だから、多神教的・相対主義的な日本人には納得がいかないという説明は、第一部の内容を忘れてしまったか、或いは自分にウソをついているということになります。

実際「善はひとつなんて信じられない」というメールを僕に送ってくれた参加者が、その数日後に「自分の中にも『善はひとつ』という考え方が有った、ということに気が付いた」という嬉しいメールをくれました。

そういった意味でイェッセさんの言っていることは、自分に対して正直にさえなれば、きっと納得してくれる事なのです。

嶋津

会場では疑問や質問が量産され、その様子を見て竹下さんは「それは非常に嬉しいことだ」と仰っていました。

やはりディベートではなくダイアローグ───「対話が大切だ」という話に繋がっていくのでしょうか?

竹下

東京公演の後、イェッセと僕と僕の父親で日光に行きました。

東照宮を参拝した後、男三人で温泉に浸かっていたのですが。

その時に父がイェッセに「今、何の勉強をしてるの?」と聞いたんですね。

すると彼は「形而上学」と答えた。

父は70手前の年齢で、いわゆる〝団塊の世代〟の一番下くらいに位置するんですね。

当時、大学の学生運動なんかが盛んな時代で。

〝形而上学〟と聞けば、父の中では〝唯物論と闘っている人たち〟というイメージしか湧いてこないんですよ。

で、「学生運動のあった頃には内ゲバが…」という話に移っていった。

ただ、僕の中ではそういうのってすごく古いんですよ。

〝自分の意見を明確にするために人と闘う〟という方法は。

嶋津

相手を打ち負かすことで自分の意見を正当化させる、という意味でしょうか。

竹下

そうですね。

言い換えれば、「自分はこうだ」ということを貫くために〝摩擦を必要とする〟ということ。

方法として、これってすごく分かり易いんです。

差別的に響くかもしれませんが〝弱い自我〟───外から擦れていないと目覚めない自我。

そういう段階なんですね。

もし本当に自分自身の中で明確な「自分はこうだと思う」という意識があれば、逆にいくらでもそれを人前で消すことができるはずなんですね。

つまり、ガンガン人に言われたとしても「それでも負けず私は主張する」というのではなく、「それをしようがしまいが自分は1mmも動かないから、いかにして自分と違う意見を受け止めていけるか」というのが本当の意味で〝強い自我〟だと思うんですね。

嶋津

どうやって自分を消すことができるか。

竹下

そういうのがすごく大事で。

僕にとってそれはとても大切なテーマなんです。

僕たち(アントロポゾフィークライス)としては〝シュタイナーが言っているという事は正しい〟っていうのはあるんですね。

ただ、そんなことを人に言ったところで全く意味はないんですよ。

そうではなくて、僕が正しいと思うことは山ほどあるけども、他の人が〝正しい〟と思っていることを聞きたい。

そして、その人が言っていることを真剣に理解しようと努める。

もちろん「僕はこう思いますよ」と発言することもあるけれど、最終的な目的は〝その人を説得できるか〟ではなく、〝自分が変わっていくかもしれない〟という可能性の方なんです。

それこそが僕が最も望むものなんです。

嶋津

ある種、合気道的な立ち回り方ですね。

相手の言葉(考え)を自分の中でどう返していくか、という。

向こうから放たれる言葉と自分自身の思考をいかに同化していくか。

竹下

「自分の考えはこうだ!」と言って論破していくことよりも、お互いに話し合って新たな落としどころを見つけたいですね。

自分の中でも新しい発見があればそれはとても素敵なことですし。

相手を〝僕の考え〟で染めたいわけではない。

結局、〝僕の考え〟とは別の点であったとしても、相手が何かを気付いてくれればそれで良いんですよ。

僕みたいな人間を増やしても意味がないと思っています。

そうではなく、皆一人一人が考えを持つことの方が重要です。

その中において、〝他人の考えを理解できる能力〟というものを少しでも身につけることができればすばらしいのではないかと思っています。

嶋津

おそらくここが今回の取材のパンチラインになるであろうと思います。

そういった考えはいつ頃お持ちになったのでしょうか?

竹下

随分と昔からです。

個人的なことを言うと、僕はドイツへ行きキリスト教を学んだわけですが、そう言う意味では僕はゴリゴリの原理主義者なわけですよ。

で、それは〝僕個人の問題〟なんですね。

社会的な人間として振る舞う時には僕はそれを消さなくちゃならない。

反対に、僕の中の確固たるものがクリアになればなるほど、他人に対してそれを出してはいけない───「良くない」という表現は言い過ぎかもしれませんが、きっと「不適切だろうな」くらいには思っています。

嶋津

確信があるからこそ、〝消す〟ことができる。

竹下

自分の中でどう考えても動かないというようなクリアなものがあれば、の話ですが。

自分の想いを他者へ向けたところで、単なるイタイ人間と思われるのがオチで───〝玄米さえ食べていれば病にかからない〟とか。

嶋津

僕は竹下さんのことがとても不思議に感じます。

ニュートラルなポジショニングといいますか───竹下さんの話を聴いたり、文章を読ませて頂いた時に感じるのは「なんてニュートラルなんだろう」という感覚があって。

求心力の強い思想というものは、その影響力の強さあまり外側から眺めた時に〝歪み〟として映ることもあると思うんです。

それは当然のものとして。

〝一般的な世界〟というものがあると仮定するならば、竹下さんはその世界と〝シュタイナー思想の世界〟を自由に行き来できる人なんだ、と。

非常にナイーブなテーマですが、僕の言いたいことは伝わりますか?

竹下

よく分かります。

僕はその〝濃さ〟にある臭みを取るように努めています。

〝濃い〟というのが表層的に現れているのは、僕は良くないことだと思っているんです。

僕も関係者が集まる人智学の勉強会などではゴリゴリの〝その感じ〟は出すんですよ。

ただ、それって結局お互い同意の上と言いますか、「シュタイナーの勉強しましょう」とか「テキスト読みましょう」とか、その中の話のことなんですよね。

それを外に人に「シュタイナーはすばらしい人で、彼の言ったことに従っていれば全て間違いないんです」なんて言うのは愚かな行為ですよね。

嶋津

そのバランス感覚と言いますか、そのようなニュートラルな点を非常に興味深く思いました。

『小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く』 勝海舟が西郷隆盛を評した言葉だ。

打たれる強さによって響き方が変わる。

竹下氏にはそのような能力がある。

さらには相手の潜在的な力(気付き)をも引き出す不思議な鐘だ。

確固たるものがあるがゆえ、常に相手とのバランスを瞬時に見抜き、最適な位置に立つ。

この場合における〝最適〟というのは「何かが起こるため」の起爆剤となり得る可能性が最も大きくなることを前提とする。

以前、記事の中で私はシュタイナー思想についてこう論じた。

(『「考えること」について考える』より抜粋)

サイエンス(論理)の長所は意思決定を促しやすいという点にある。

論理は他者に対し、説明が安易だからだ。