〝未来〟について語るということ。

July 27, 2018

 

 

僕の住んでいる街で、西野亮廣さんのトークショーが行われました。

僕は司会という役割で関わらせていただきました。
これはそのレポートです。


 

 

 

 

トークショーに向けての準備として、今年の四月『革命のファンファーレを』から読み解く《西野亮廣論》を、
六月のはじめに僕のラジオ番組にゲストで出演してくれたホームレス小谷さんについての《〝語る〟より〝語られる〟生き方》を書きました。


 

どちらの記事も多くの人から感想をいただきました。
この記事が「いいかも」と思ってくださったならぜひ読んでみてください。

 

 

 

 


僕が文章を書く意味は、問題提起と新しい価値観の提示です。
文章を読む前と後では見える景色が異なるような〝メガネ〟のような役割でありたいと思っています。
うまくいく時もあるし、うまくいかないこともあります(当たり前だけど)。
どちらにしても書くことは楽しく、僕にとって尊い営みです。


僕の文章は〝完全主観〟ですので、それそのまま受け入れないようにご注意ください。
悪口があれば是非、僕のところへ。

 

 

 

 

 

『えんとつ町のプペル』の生みの親。

 

 

 

僕のアナウンスで西野さんは登壇しました。

それはそれはあっという間の90分、
───瑞々しい拍手で迎えられ、幾度となく起こる大笑い、聴衆の眼差しを真剣にさせ、最終的に万雷の拍手で会場が包まれる───非常にマジカルな90分でした。

 

 

 

内容は『えんとつ町のプペル』の全貌。
絵本は物語のほんの一部に過ぎなく。
西野さんの頭の中にはガウディの設計したサクラダ・ファミリアみたいに壮大なスペクタクルで、常に未完成のまま建設が進んでいる。

 

 


それを映像やイラストに頼らず、〝しゃべり〟のみで表現しました。
〝地獄八景亡者戯〟よろしく、もはや落語です。

 

 

 

『えんとつ町のプペル』の世界は複合的です。
詳細をここに書いてしまうわけにはいかないので〝ざっくり〟としか表現できませんが。
とにかく物語の構成が堅いです。
物語を建築物と考えると、柱がしっかりとしているので部屋(場面)の数や広さが少々トリッキーでも持ちこたえる。
部屋(場面)から部屋(場面)への導入がなめらかで、さらには互いにリンクし合って建物全体が共鳴している。
構造だけを眺めても十分におもしろい作品です。



その耐久性の強い土台にエンターテイメント要素をふんだんに注ぎます。
笑いもあれば、驚きもあり、込み上げる熱さ、感動的な涙、あらゆる感情を掻き立てる装置を用意しています。


 

 

それだけでも単純に〝すごい〟のですが、西野さんの本当のすごさはここからでした。

 

 

 

 
物語の世界を現実に落とし込んでいく。

 

『えんとつ町のプペル』の物語の設定が、現実に起き始めていることを知ります。
いや、実際には西野さんが仕掛けているのですが。

 


映画という〝虚構の世界〟を作りながら同時に、〝現実の世界〟にも物語が現れてきている。
物語への臨場感を与えるために、虚構だったはずの装置が具現化されていっています。
空想と現実がクロスしていく只中にいることに僕たちは気付きました。

 


ネットが普及し、僕たちは〝オフラインでの現実〟と〝オンラインでの現実〟を行き来できるようになりました。
僕たちの〝所在地〟はオフラインとオンラインの中に同時に存在しています。
それが当たり前になった中、西野さんは〝物語〟の中にも僕たちの所在地を作ろうとしているのです。

 


シナリオ通りに動かされる政治や経済。
胸のざわめきはそんな陰謀論を味わっている感覚に近くて。
空想が現実化しているのか、現実が空想化しているのか。
僕たちは西野さんの描くシナリオの中の世界へすでに足を踏み入れていたのです。




 

 

流通の話の中で西野さんがしきりに言う「お客さんのいるところまでデザインする」という言葉。
それは、もはや商品だけではなく。
〝世界〟というシステムまでもデザインしていた。
それはまさに映画の中にいるような感覚でした。



そして、そこにW.ディズニーの倒す方法が埋め込まれている。

 

 

西野さんは言いました。

 

「ディズニーを倒すのはゲームチェンジが行われた瞬間だ」

 

 

 

 
浮世絵の功績。

 

ディズニーを倒す方法として、西野さんは浮世絵の話を聴かせてくれました。

浮世絵が世界的に評価されている理由。

なぜ浮世絵に価値があったのか。
情緒はあるかもしれませんが特別、描写が巧いわけでもありません。
実際に江戸時代の日本において、浮世絵は生活文化に溶け込んだ庶民の楽しみでした。
つまり、〝芸術的な価値は今よりも低かった〟ということです。

 

 

 

価値が見出されたのは、海外に渡った後のこと。
梱包用に使用されていた浮世絵を見た西洋人は、その独特の技法に衝撃を受けました。


 

 

 

 

1800年代の西洋には〝雨〟は目に見えていなかった。

 

ギュスターヴ・カイユボットの『パリの通り、雨』という作品があります。
カイユボットは1800年代後期に活躍した印象派を代表する画家です。

 


この作品は濡れた石畳の上を光が美しく反射する中、傘を差して人々歩く姿が描かれています。
描写の瑞々しさは実に見事ですが、どこか違和感が残りませんか。

 


〝雨がない〟

 

 

日の差し込んだ真昼に傘を差して歩く人々の姿はどこか奇妙で。
傘を差しているのだから、雨は降っているはずなのです。
この答えは簡単で、〝雨がない〟のではなく作者には〝雨が見えなかった〟ということなのです。

 


これはカイユボットに限った話ではなく、当時の西洋人には〝雨が見えていなかった〟のです。

 

 

 

 

こちらは歌川広重の名画、『大はしあたけの夕立』

ゴッホが模写したことでも有名な作品です。
天から地へ向かって複数の細い線が描かれています。

 


もちろん雨です。

 


今の僕たちには当たり前ですが、西洋の人たちにとってこれは目から鱗が落ちるような体験でした。

 


「雨って、形があるんだ」

 

 

 

 

 

僕たちは目に見ているものや耳で聴いているものを頭の中で補完して形にしています。

例えば、ニワトリの鳴き声。
日本では「コケコッコー」ですが、アメリカ人には「クックドゥードゥルドゥー」と聴こえています。

 


実際の鳴き声は一つなのに、僕たちはベースとなっている文化によって聴こえ方が異なっていて。
頭の中で変換して(情報を補って)形にしているのです。

 

 

浮世絵によって雨が描かれました。
浮世絵の最大の価値は、〝人間に雨を見させたこと〟
本当のことを言えばと雨は線ではないことを僕たちは知っています。
ただその表現方法が〝発明〟だったのです。

 

 

今まで見えなかったものが見えた時───雨が見えるようになった瞬間───見え方の世界が変わりました。


それがゲームチェンジの瞬間です。

 

 

 

 

ディズニーを倒すために必要なことは、ディズニーのやり方を真似て数字を伸ばすことではありません。

ゲームチェンジを起こし、〝新しい価値の創造〟によってディズニーが築き上げてきた黄金時代をアップデートすること。

 

 

最新の技術を駆使し、ハイクオリティの作品に仕上げるのがディズニーの映画作りです。
質とブランディングによって価値を上げていく方法です。

 

 

西野さんの映画作りは〝お客さんと共に自分たちで作品を作る〟という方法。
参加型の作品作りにすることによって、一人一人のストーリーを活かす。
※この辺りは革命のファンファーレに詳しく記載されています。

 

 


西野さんは言いました。

 


ディズニーが〝レストラン〟だとしたら、僕たちがやっているのは〝バーベキュー〟だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

全ては書けません。

長々と書いてきましたが、講演の内容は全て書くことはできません。
興味を持たれた方はチケットを手に入れて、西野さんのいるところまで実際に足を運んでみてください。
喋っているのを聴くだけで、今までにない〝興奮〟を体験できます。

 

 

そして、最後に西野さんのトークショーを聴いて僕が感じたことを。

 

 

 

 

 

未来を語ることの重要性。

 

お話を聴きながら、西野さんの肩書について考えました。

 

芸人?絵本作家?アーティスト?経営者?……

 

肩書で枠を作るなんて野暮だってことは分かっています。
でも僕は文章を書く人間として、対象物をカテゴライズしなくちゃいけない。
読んでいる人へ、分かりやすく、腑に落ちる形に組み立てて届けるために。

 

 

「ミネルヴァのフクロウは迫り来る黄昏に飛び立つ」
 

 

これはヘーゲルの『法の哲学』の序文、末尾の言葉。
ミネルヴァはローマ神話に登場する女神。
フクロウは女神のシンボルであり〝知恵の象徴〟

 

 

 

ミネルヴァのフクロウが黄昏に飛び立つのは、〝哲学〟というのは現実が過去のものになった後に議論されるものだから。
つまり、どんな偉い哲学者でも社会の動きの真っただ中にいる間は傍観者でしかありません。
夕暮れ(動きが治まりかけた)になってはじめて動き出すという性格があります。
それでいうと、評論家や研究者も過去の実例(データ)を分析する人間です。

 

 

 

それでは反対に未来を語る人間はいるのでしょうか。
黄昏を待たずして、未来をクリエイトする者。
それは経営者であり、政治家です。

 

 

未来のビジョンを聴衆の頭の中(若しくは心の中)に鮮やかに描きます。

 

 

そういう意味では西野さんは政治家に近いのかもしれません。
現状を整理し、問題点を挙げ、資源を最大限に活用し、暮らしを最適化する。

 

 

西野さんの動きを見ていると、まさに辣腕の政治家にぴったりです。
やっていること、行動だけをみれば西野さんは政治家です(資金集めを含め)。
でも、彼が政治家ではないことを僕たちは知っています。
ならないであろうことも知っています。

 


政治家が〝政治の仕事をする〟のは、あまりにも当たり前過ぎて恥ずかしくなるからではないでしょうか。
それよりも全く別の角度から世の中を更新するシナリオの方に僕たちも惹かれます。



考えあぐねていた時、西野さんの言葉に耳を傾けながら熱量が上がってくる聴衆の姿が目に入りました。
そして僕は気付きました。


 

 

誤解を恐れずに言います。

 

西野亮廣は宗教家です。

 

僕の宗教の捉え方は戒律だとか信仰だとかだけことではありません。
その場所に力が生まれ、影響力を起こし、結果的にそれが誰かを救うのであれば、それはもはや宗教です。
未来を描き、心を夢中にさせ、人生を豊かにする。そのエネルギーの断片がその人の心を救うのであればこそ。

 

時に不条理をも受け入れてしまう力。

 

「ニシノのことだからまぁしょうがないよね」

 

そう思わせる彼はやはり宗教家です。
少なくとも西野さんの発想や行動やクリエーションや表現は、人を救っています。
実際に観衆の瞳に輝きを与えていく姿を目の当たりにすれば確信に至ります。


 

未来を語ること。


それは人間にのみ与えられた力でした。
まだ形のないものを喋り、観衆の心に描く力。
虚構を信じさせる力、虚構を夢中にさせる力。
そして虚構を現実化する力。

 

西野さんがやっていることは目の前の人を笑わせるだけでありません。
彼が行いは〝その者の人生に希望を与える〟という人間として最も尊いものではないでしょうか。

 

 

 

 

 

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