町田康の「精神のパンク、表現の文学」


先日、リズールにて作家である町田康氏のトークショーが開催された。

リズール・・・作家の玄月氏がプロデュースする文学バー

「一言も漏らすことなく、町田康の言葉を味わおう」

観客たちの心は一様に染まり、研ぎ澄ませた耳が会場を埋め尽くす。

その空間は静かな熱気で満ちていた。

独特の文体と読者の想像を軽やかに飛び越えていく物語。

この日、町田氏の小説を構成するあらゆる要素が言語化された(終始「聴き手」に徹した玄月氏の力は大きい)。

創作の背景から、物語哲学、パンク論へと次々と展開していくテーマ。

驚きとユーモアが混在し、観客の好奇心を満たしながら穏やかな時間が流れた。

あの不思議、あの熱狂、あの質感。

町田康氏の小説に対する謎に呼応する言葉たち。

終演を迎えた頃、私の中で「町田康の小説の世界」がなんとなく腑に落ちた。

─────これは、そのレポートである。

トークショーは町田康氏の小説『告白』の朗読からはじまった。

自分の中にある確実な「何か」。

※『告白』の朗読後、会場は拍手に包まれる

玄月

この作品が出版されたのはもう10年以上前ですよね。

町田さんの作品には珍しく、三人称の文体。いわゆる普通の小説というか。

聞いていて新鮮でした。

皆さんもちろん読んでいらっしゃると思いますが、デビュー作の『くっすん大黒』(芥川賞候補作品)は町田さんのエキスがたっぷり入っている。「これぞ町田さん」といった独特の文体。『ホサナ』や『生の肯定』に繋がる感じですよね。

『告白』はその中間くらいになりますかね。

町田さんの中でも大きな作品だと思うのですが、このように視点を分けながら三人称という文体で書かれているのは、何か今までと違った意識があったのでしょうか?

町田

この作品は新聞連載だったんです。

一つには『河内十人斬り』という事件がありまして、河内音頭を、と。

今までもずっとそうなのですが、近代文学って近代以前の芸能と断絶していますよね?

『くっすん大黒』は落語の流れですが、いわゆる河内音頭や浪花節といった芸能と文学には隔たりがある。そこが自分の中で納得できない。

大阪で生まれ育った人なら分かると思いますが、夏になると公園に櫓が立っている風景というのは普通ですよね。河内音頭が流れていて、盆踊りを踊っている。

しかし、近代小説の中ではああいったものがなかったことになっている。ある種の風俗として描かれてはいるのだが、魂というか精神の中までは入ってきていないなぁ、と

その試み自体はあまり成功していないかもしれない。でも、そういうものに近づきたいという気持ちはずっとあって。「それを書きたい」とか「それを復活させたい」とか、そういった野望ではなくて、精神性のようなところの近くに行きいというのがある。

玄月

それは書き始めた当初からということですか?

町田

それ以前からですね。

小説を書き始める以前、つまりバンドとか始めた頃。16、7才くらいの時からそういうのはありましたね。

玄月

僕も町田さんと同じく大阪で生まれ育ったわけですが、落語や漫才、吉本新喜劇や松竹新喜劇がずっと生活の中にあった。大抵の大阪の子どもはその中で育ってきて、それらのものが提示されると反応することはできますよね。「これは落語の流れやな」とか「新喜劇やな」とか。

ただ、反応することはできても、それを自分の力で現わすということはなかなかできない。

町田

近代の呪いですよね。

学校で普通に友人と話している。もちろん大阪の人間同士で。

さっきまで「ほんまやなぁ」と喋っていた奴が、ライブになると急に洋風な人間になる。

玄月

大阪のベタなガキが急に洋風になる、とwww

町田

「それってどうなんやろ?」っていうのがずっとあって。

それって「嘘」じゃないですか。つまり、「演劇」ですよね。

玄月

憧れている「何か」になりきろうとしている。

町田

それを演劇として分かってやっているのならいいのですが、どこからが演劇なのか本人も分からないままで。突然ナチュラルに洋風になる。「これって何なんやろ?」ってずっと思っていて。

玄月

違和感がずっとあった、と。

町田

「なんかちょっと嫌やな」と思って。「和風で行こう」というわけではないけど、僕はバンド名とかも英語にしたことがない。

玄月

確かにINU(町田氏を中心に構成されたパンクロックバンド)もそうですよね。

町田

『ミラクルヤング』っていうバンドが唯一英語なんですが。

会場www

玄月

『ミラクルヤング』ってかなり大阪っぽいですよね。

町田

当時、Wヤングっていう漫才師がいたでしょ?

「白菜食うて、歯臭い」「滑って転んでオオイタ県」とか。

それを超える『トリプルヤング』というのを思いついた。いや、「トリプルよりもずっとすごいの」っていうので「ミラクルでいこう」と。その発想自体が大阪というか、洋風じゃないでしょ?

玄月

確かにww

身体が揺れる文体。

玄月

その流れで『くっすん大黒』を書かれたのだと思うのですが、この文体は何処から来ているのでしょうか?今『告白』を朗読されて感じたのは、三人称で一般的な小説という文体にはなっているが、それでもやはり頭の中にはリズムが残っている

『くっすん大黒』で中毒になった人もたくさんいると思うんですよね。

「このリズムなんや?めっちゃおもろいやんけ」っていう。

それはね、町田さんの体内リズムっていうのをきちんと表しているからだと思うんですよね。「よう分からんけど何かおもろい」という理由として。

町田

それまで僕はあまり文章を書いたことがなかったんです。歌詞は書いていましたけど、いわゆる散文を書くという習慣はなかった。

小説を書きはじめた時に一つだけ心がけたことがあるんです。

一言でいうと「ええ格好をせんとこう」と。

文章を書く時って、みんなちょっと自分が一段上になるんですよ。俯瞰で世の中を見る、みたいな。

玄月

確かに小説には「俯瞰して書くもの」というイメージはありますね。

町田

随筆などを書く時もそうで、吉田兼好とか鴨長明のような感じですよね。「俺はちょっと違うで」みたいな。世の中を下にして、「俺はお前らよりちょっと上やで」というような感じ。

それはおもろないんですよ。ある意味、村上春樹的「やれやれ」みたいな感じで。文章を書く時には必ず、「やれやれ」と言っている感じがある。

会場www

町田

みんな笑ってますけど、全員が陥っていることなんですよ。

それで上手な人はいい。突き抜けて上手な人はいいのですが、普通の人がそれを真似すると、ただ根拠なくおもしろくない。あんまり文章を書かない人ほど、文章を書く時に格好をつけてしまうんですよ。

玄月

力んでしまう。

町田

そうなんですよ。

急に「~なものだ」とか。「普段お前そんなんちゃうやんけ!」みたいな。映画の紹介文を書く時なんか「この作品は~で、非常に~である」みたいな感じで評論しようとする。

玄月

はいはいwww

頑張っちゃいますよね。

町田

「俺はちょっと離れたところから言ってます」みたいな。「俺、吉田(兼好)やで」みたいな。

会場www

町田

突然無常感出してきて詠嘆したりね。

「何やそれ、さっきまでお前パチンコ行ってたやないか!」みたいな。

そういうところに対して気を付けようというのはありましたね。

玄月

それは歌詞を書く時から、また歌を歌う時からずっとやってきたことですか?

町田

そうですね、歌う時は洋風を避ける。誰もが無意識の洋風になっているから。

ロックって洋楽のコピーからはじまったじゃないですか。The Rolling StonesにしろBeatlesにしろ。洋風が本物で、日本ではロックというとそれらのコピーという意識が強いんですね。

これは近代文学も同じで、「西洋のノベルみたいなことを俺らもやらなあかんのちゃうか?」と。だから普通のメンタリティでないようなことをやろうとしている。これはもうずっと日本人が平安時代からやってきたことなんですね。

日本人の持つ「憧れ」への劣等感。

町田

今の人たちが西洋文化に憧れているのと同じように、宮廷の文化というものは大陸文化に憧れていた。今でいう「え?君、フランス語知らんの?」みたいな日本語を馬鹿にしたおフランスな人の感覚。「日本語忘れてもうたわぁ~、俺いつも漢文しかやってへんから」みたいな。「お前が喋ってるそれが日本語や!」みたいな。

会場www

玄月

違う見方をすると町田さんはね、どこかひねくれているところがあると思うんです。

みんながやっているような行動を見て「それちゃうやん」っていうところから、「俺は絶対にやりたくない」って考えているんじゃないかと。

僕ね、町田さんの本はデビューされた時から読んでいて。今回はトークショーということもあり最新の作品を三冊ほど続けて読ませてもらったのですが、特にこの『スピンクの笑顔』を読んで考えが固まった。

町田さんは観察眼が鋭すぎると思うんですよね。

周りをいつも見ている感じがする。多分子どもの頃からずっとそうだったと思うんです。仲間や同級生と遊んでいても常に周りの人間のことを観察して。で、その観察したことで相手の求めることにおもねるのではなく、真逆のことをしたりだとか、あるいは無茶苦茶にぶち壊したりだとか。

ご自身でも「よく見ている」ということを意識されたことはありますか?

町田

そうですね。自分としては普通にやっているつもりなんですけどね。

そういう部分はあるのかもしれない。

玄月

周りの人間はやろうと思ってもそこまでできないですよ。

色々見え過ぎてしんどくなることとかがあるんじゃないですか?

町田

犬の考えていることも分からなければ、猫の考えていることも分からない。そうすると、他人の考えていることもやっぱり分からない。そこからはじまっていると思うのですが。文学だって何だって、「ある程度みんなが納得のいくもの」を求めているわけですよね。腑に落ちるという。

でも納得できるということは、結局全て作り物なんですよ。

近代文学から消えた文化の匂い。

私は町田氏が「上方文化が好き」というよりも、生理的嫌悪を解消するためのチョイスの一つとして「上方」を選んでいるような気がしてならない。

それは大衆が無自覚に外の文化に憧憬することへのカウンターとして───。

カッコ善いモノとカッコ悪いモノを明確にした価値基準。

異様なまでに強い外への「憧れ」が、自分たちの文化を下に位置付けたのか。

江戸時代の元禄文化は庶民の生活・心情・思想などが出版物や劇場を通じて表現されていた。

そこに誇りがあったのかは分からない。

ただ、独自の成熟した文化を育んでいたことは確かである。

近代日本は二度、それは開国と敗戦の時、西洋に「憧れ」と「劣等感」を抱いた。

それは今尚続き、その価値観は当然のものとして空気に溶け込んでいる。

中にいるのに、外にいる。

町田氏の特質はここにある。

共同体の中にいるのに、常に客観的な視点を持っている。

新たなパラダイムはいつだって外側から訪れる。

内側にいると気付かない、つまり、あまりに当たり前過ぎてついつい見過ごしてしまう。

新しい文化や様式を作るのは三つのモノと言われる。

「若モノ、余所モノ、馬鹿モノ」

つまり、そのコミュニティに馴染んでいないという共通点だ。

盲点を外すには外側にいることが条件となる。

町田氏は内側にいながら、外側の視点を持っている。

それを玄月氏は「鋭すぎる観察眼」と表現した。

それは日本で生まれ育った日本人が描く「日本」というよりも、ラフカディオ・ハーン、そう小泉八雲のような外からの目で日本を視る。

風俗としての現代日本というだけでなく、文学という方法で現代日本人の持つ無意識を顕在化する形で問題提起する。

町田氏を突き動かしているもの。

私はそれを単なる観察眼だけでなく、町田氏の「苛立ち」にあるように想像した。

町田康の苛立ちの理由。

特定のバイアスがかかった時、町田氏はその力とは反対方向にエネルギーを注ぐことでバランスをとっているように私は思う。

町田氏はそれを「逆張り」と言ったが、それは計算的なものではなく、非常に感覚的なものであるような気がしてならない。

特定の偏りに対する嫌悪感。

大衆が無意識的に「是」とすることの居心地の悪さ。

外(西洋)への憧憬が強過ぎるから、生理的に内側(上方)へと好奇心が働く。

おそらく、日本礼賛という風潮が強くなれば、町田氏の好奇心は何のためらいもなく外側へ向かう気がする。

町田氏の描く上方文化と芸能。

それは「上方」に対して好意を持っているということ以上に、思考停止の状態で無条件に西洋を称賛するムードに苛立ちを覚えているところが大きいのではないか、と

「上方を描きたい」という心の前に、外の文化を無意識に受け入れ、さらには褒め称す大衆の態度に対する「苛立ち」が先にあって。

その「苛立ち」の解消手段としての「文学」、そして選択肢としての「上方文化」、なのではないだろうか。

原因と結果を繋げるのが小説家の力。

町田

簡単な納得というものがありますよね。原因と結果。それを繋げてあげると誰でも分かる。

「相手が自分を殴ったから殴り返した」とか。

原因と結果が直結しているものは分かり易い。

それでは小説にならないので、色々と話題を繋げて複雑にしていくわけです。

例えば酒をやめたら、「何で酒やめたんや?」と聞かれる。

酒を辞めて二年くらい経つのですが、僕もさんざん聞かれました。未だに「何で?」と聞かれる。「知らんがな!」って言いたくなるけど、そんな答えでは誰も納得してくれない。

「原因と結果はそれほど単純なものではない」

町田氏はそう述べた。

そして原因と結果を簡潔に整理することに対しても「苛立ち」を抱いていた。

生きている実感というものはそんな単純なものではない。

相関関係に説得力を与え、因果関係に導くことが文学の力だ。

その物語の持つ役割を肯定しながらも、町田氏は抗おうとする。

パンクの精神は、その単純な関係性を破壊したい衝動に駆られる。

ドイツ最高峰の画家と呼ばれるゲルハルト・リヒターはこう言った。

〝絵画が不可解な現実を、比喩において

より美しく、より賢く、より途方もなく、より極端に、より直感的に、

そして、より理解不能に描写するだけ、

それはよい絵画なのです〟

不可解な現実を理解不能に描写する。

この言葉と出会った時、私の中で「芸術」というものが腑に落ちた。

幾層もの表現や比喩を重ねることで複雑化していく。

見る者の琴線に触れた瞬間、花が開くように仕掛けをする。

多様な受け取り方ができる作品こそが芸術なのだ、と。

反対に、因果関係が明確なものというのは芸術性が低いのではないかと想像した。

よくできている。

しかし、それはただ「よくできている」に過ぎない。

「文学は人を納得させるものである」という風潮に苛立つ町田氏の言葉に、私の中でリヒターの言葉がリンクした。

生きている実感というものは私たちが考えているよりも複雑なもので、そこには明確な「理由」なんていうものはない。

あらゆる要素を孕んでいる。

町田氏の観点から考えれば、「人間の実感」というのは、ただそれだけで「芸術」なのだ。

それを納得させるために小説家は物語を書く。

機能としての「物語」をある点では肯定し、または利用しながらも、町田氏はそれさえも破壊したい衝動に駆られている。

─────彼のパンク精神にはひたすらに驚かされる。

小説を書く理由は一つ。

町田

よく新聞記者の人に聞かれたりするのですが「何で書いたのか?」という問題で。

物書きだったらみんなそうだと思うのですが、その問いの答えはたった一つなんですよ。

「書きたかったからに決まってるやろ!」という。

では「何で書いたの?」と聞く理由というのは、質問者の中に既に理想の答えがあるわけですよ。

玄月

向こうが求めている答えね。

町田

つまり、「今の社会はこういうものです。この社会に対して自分は良いにしろ悪いにしろ意見を持っている。それを小説の形で表してみました。いかがですか?」と。それが相手の聞きたい理想の答えなんです。

犬の話や猫の話というのは「何で?」が無い。

例えば犬を蹴飛ばしたとしましょう。

犬は悲しみますよね。

人間を蹴飛ばしたら「何で蹴るねん!」となる。

でも犬は、ただただ悲しいだけなんですよ。

蹴飛ばされたことが本当に悲しい。そこには「悲しさ」しかないんですよ。

事実と事実を繋ぐのが物語。

町田

小説家はそこに物語を作り出す。

犬というのはこういうもので…という風に。そうするとハチ公や『タロとジロ』のような南極の物語のようになる。要するに犬の美談ができる。

全ての物語は人間のために犬が犠牲になって、「犬ってなんて可健気で哀そうなんだ」という。犬の話でこのパターン以外ないですよね?

犬が人間をかみ殺して、うまそうに肉を食って腹いっぱいになって…という話は一つもない。所詮、小説家はそんなもんです。それにそんなものを書いても売れないしね。

結局「何で?」というのが無い奴らというのは本当に手も足も出ない。

でもね、最終的には僕たちもそうなんですよ。

どうしたって死ぬわけじゃないですか。この問題に「何で?」の答えはないわけです。答えがないのに一応便宜上の答えを宗教や哲学や文学は作ってきたわけですが。それはその場だけの答えであって、聞いて一瞬だけ納得するのだけど、また「何で?」に戻ってしまう。

そういうことを犬と付き合っている時に考えます。

「物語は虚構の連鎖。

虚構の連鎖で物語はできていく。

そこからはどうしても逃れられない」

これらの言葉を聞き、私は町田氏が「自殺してしまうのではないだろうか」と感じた。

大衆が疑問を持たなくなったことに対する「苛立ち」。

大きな力を憧憬する、無意識を蝕まれた彼らへの「苛立ち」。

だが、人間は「何で?」という疑問を持つ。

執拗に理由を求める人間という生物に対する「苛立ち」。