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町田康の「精神のパンク、表現の文学」


先日、リズールにて作家である町田康氏のトークショーが開催された。

リズール・・・作家の玄月氏がプロデュースする文学バー

「一言も漏らすことなく、町田康の言葉を味わおう」

観客たちの心は一様に染まり、研ぎ澄ませた耳が会場を埋め尽くす。

その空間は静かな熱気で満ちていた。

独特の文体と読者の想像を軽やかに飛び越えていく物語。

この日、町田氏の小説を構成するあらゆる要素が言語化された(終始「聴き手」に徹した玄月氏の力は大きい)。

創作の背景から、物語哲学、パンク論へと次々と展開していくテーマ。

驚きとユーモアが混在し、観客の好奇心を満たしながら穏やかな時間が流れた。

あの不思議、あの熱狂、あの質感。

町田康氏の小説に対する謎に呼応する言葉たち。

終演を迎えた頃、私の中で「町田康の小説の世界」がなんとなく腑に落ちた。

─────これは、そのレポートである。

トークショーは町田康氏の小説『告白』の朗読からはじまった。

 

自分の中にある確実な「何か」。

※『告白』の朗読後、会場は拍手に包まれる

玄月

この作品が出版されたのはもう10年以上前ですよね。

町田さんの作品には珍しく、三人称の文体。いわゆる普通の小説というか。

聞いていて新鮮でした。

皆さんもちろん読んでいらっしゃると思いますが、デビュー作の『くっすん大黒』(芥川賞候補作品)は町田さんのエキスがたっぷり入っている。「これぞ町田さん」といった独特の文体。『ホサナ』や『生の肯定』に繋がる感じですよね。

『告白』はその中間くらいになりますかね。

町田さんの中でも大きな作品だと思うのですが、このように視点を分けながら三人称という文体で書かれているのは、何か今までと違った意識があったのでしょうか?

町田

この作品は新聞連載だったんです。

一つには『河内十人斬り』という事件がありまして、河内音頭を、と。

今までもずっとそうなのですが、近代文学って近代以前の芸能と断絶していますよね?

『くっすん大黒』は落語の流れですが、いわゆる河内音頭や浪花節といった芸能と文学には隔たりがある。そこが自分の中で納得できない。

大阪で生まれ育った人なら分かると思いますが、夏になると公園に櫓が立っている風景というのは普通ですよね。河内音頭が流れていて、盆踊りを踊っている。

しかし、近代小説の中ではああいったものがなかったことになっている。ある種の風俗として描かれてはいるのだが、魂というか精神の中までは入ってきていないなぁ、と

その試み自体はあまり成功していないかもしれない。でも、そういうものに近づきたいという気持ちはずっとあって。「それを書きたい」とか「それを復活させたい」とか、そういった野望ではなくて、精神性のようなところの近くに行きいというのがある。

玄月

それは書き始めた当初からということですか?

町田

それ以前からですね。

小説を書き始める以前、つまりバンドとか始めた頃。16、7才くらいの時からそういうのはありましたね。

玄月

僕も町田さんと同じく大阪で生まれ育ったわけですが、落語や漫才、吉本新喜劇や松竹新喜劇がずっと生活の中にあった。大抵の大阪の子どもはその中で育ってきて、それらのものが提示されると反応することはできますよね。「これは落語の流れやな」とか「新喜劇やな」とか。

ただ、反応することはできても、それを自分の力で現わすということはなかなかできない。

町田

近代の呪いですよね。

学校で普通に友人と話している。もちろん大阪の人間同士で。

さっきまで「ほんまやなぁ」と喋っていた奴が、ライブになると急に洋風な人間になる。

玄月

大阪のベタなガキが急に洋風になる、とwww

町田

「それってどうなんやろ?」っていうのがずっとあって。

それって「嘘」じゃないですか。つまり、「演劇」ですよね。

玄月

憧れている「何か」になりきろうとしている。

町田

それを演劇として分かってやっているのならいいのですが、どこからが演劇なのか本人も分からないままで。突然ナチュラルに洋風になる。「これって何なんやろ?」ってずっと思っていて。

玄月

違和感がずっとあった、と。

町田

「なんかちょっと嫌やな」と思って。「和風で行こう」というわけではないけど、僕はバンド名とかも英語にしたことがない。

玄月

確かにINU(町田氏を中心に構成されたパンクロックバンド)もそうですよね。

町田

『ミラクルヤング』っていうバンドが唯一英語なんですが。

会場www

玄月

『ミラクルヤング』ってかなり大阪っぽいですよね。

町田

当時、Wヤングっていう漫才師がいたでしょ?

「白菜食うて、歯臭い」「滑って転んでオオイタ県」とか。

それを超える『トリプルヤング』というのを思いついた。いや、「トリプルよりもずっとすごいの」っていうので「ミラクルでいこう」と。その発想自体が大阪というか、洋風じゃないでしょ?

玄月

確かにww

身体が揺れる文体。

玄月

その流れで『くっすん大黒』を書かれたのだと思うのですが、この文体は何処から来ているのでしょうか?今『告白』を朗読されて感じたのは、三人称で一般的な小説という文体にはなっているが、それでもやはり頭の中にはリズムが残っている

『くっすん大黒』で中毒になった人もたくさんいると思うんですよね。

「このリズムなんや?めっちゃおもろいやんけ」っていう。

それはね、町田さんの体内リズムっていうのをきちんと表しているからだと思うんですよね。「よう分からんけど何かおもろい」という理由として。

町田

それまで僕はあまり文章を書いたことがなかったんです。歌詞は書いていましたけど、いわゆる散文を書くという習慣はなかった。

小説を書きはじめた時に一つだけ心がけたことがあるんです。

一言でいうと「ええ格好をせんとこう」と。

文章を書く時って、みんなちょっと自分が一段上になるんですよ。俯瞰で世の中を見る、みたいな。

玄月

確かに小説には「俯瞰して書くもの」というイメージはありますね。

町田

随筆などを書く時もそうで、吉田兼好とか鴨長明のような感じですよね。「俺はちょっと違うで」みたいな。世の中を下にして、「俺はお前らよりちょっと上やで」というような感じ。

それはおもろないんですよ。ある意味、村上春樹的「やれやれ」みたいな感じで。文章を書く時には必ず、「やれやれ」と言っている感じがある。

会場www

町田

みんな笑ってますけど、全員が陥っていることなんですよ。

それで上手な人はいい。突き抜けて上手な人はいいのですが、普通の人がそれを真似すると、ただ根拠なくおもしろくない。あんまり文章を書かない人ほど、文章を書く時に格好をつけてしまうんですよ。

玄月

力んでしまう。

町田

そうなんですよ。

急に「~なものだ」とか。「普段お前そんなんちゃうやんけ!」みたいな。映画の紹介文を書く時なんか「この作品は~で、非常に~である」みたいな感じで評論しようとする。

玄月

はいはいwww

頑張っちゃいますよね。

町田

「俺はちょっと離れたところから言ってます」みたいな。「俺、吉田(兼好)やで」みたいな。

会場www

町田

突然無常感出してきて詠嘆したりね。

「何やそれ、さっきまでお前パチンコ行ってたやないか!」みたいな。

そういうところに対して気を付けようというのはありましたね。

玄月

それは歌詞を書く時から、また歌を歌う時からずっとやってきたことですか?

町田

そうですね、歌う時は洋風を避ける。誰もが無意識の洋風になっているから。

ロックって洋楽のコピーからはじまったじゃないですか。The Rolling StonesにしろBeatlesにしろ。洋風が本物で、日本ではロックというとそれらのコピーという意識が強いんですね。

これは近代文学も同じで、「西洋のノベルみたいなことを俺らもやらなあかんのちゃうか?」と。だから普通のメンタリティでないようなことをやろうとしている。これはもうずっと日本人が平安時代からやってきたことなんですね。

日本人の持つ「憧れ」への劣等感。

町田

今の人たちが西洋文化に憧れているのと同じように、宮廷の文化というものは大陸文化に憧れていた。今でいう「え?君、フランス語知らんの?」みたいな日本語を馬鹿にしたおフランスな人の感覚。「日本語忘れてもうたわぁ~、俺いつも漢文しかやってへんから」みたいな。「お前が喋ってるそれが日本語や!」みたいな。

会場www

玄月

違う見方をすると町田さんはね、どこかひねくれているところがあると思うんです。

みんながやっているような行動を見て「それちゃうやん」っていうところから、「俺は絶対にやりたくない」って考えているんじゃないかと。

僕ね、町田さんの本はデビューされた時から読んでいて。今回はトークショーということもあり最新の作品を三冊ほど続けて読ませてもらったのですが、特にこの『スピンクの笑顔』を読んで考えが固まった。

町田さんは観察眼が鋭すぎると思うんですよね。

周りをいつも見ている感じがする。多分子どもの頃からずっとそうだったと思うんです。仲間や同級生と遊んでいても常に周りの人間のことを観察して。で、その観察したことで相手の求めることにおもねるのではなく、真逆のことをしたりだとか、あるいは無茶苦茶にぶち壊したりだとか。

ご自身でも「よく見ている」ということを意識されたことはありますか?

町田

そうですね。自分としては普通にやっているつもりなんですけどね。

そういう部分はあるのかもしれない。

玄月

周りの人間はやろうと思ってもそこまでできないですよ。

色々見え過ぎてしんどくなることとかがあるんじゃないですか?

町田

犬の考えていることも分からなければ、猫の考えていることも分からない。そうすると、他人の考えていることもやっぱり分からない。そこからはじまっていると思うのですが。文学だって何だって、「ある程度みんなが納得のいくもの」を求めているわけですよね。腑に落ちるという。

でも納得できるということは、結局全て作り物なんですよ。

 

近代文学から消えた文化の匂い。

私は町田氏が「上方文化が好き」というよりも、生理的嫌悪を解消するためのチョイスの一つとして「上方」を選んでいるような気がしてならない。

それは大衆が無自覚に外の文化に憧憬することへのカウンターとして───。

カッコ善いモノとカッコ悪いモノを明確にした価値基準。

異様なまでに強い外への「憧れ」が、自分たちの文化を下に位置付けたのか。

江戸時代の元禄文化は庶民の生活・心情・思想などが出版物や劇場を通じて表現されていた。

そこに誇りがあったのかは分からない。

ただ、独自の成熟した文化を育んでいたことは確かである。

近代日本は二度、それは開国と敗戦の時、西洋に「憧れ」と「劣等感」を抱いた。

それは今尚続き、その価値観は当然のものとして空気に溶け込んでいる。

中にいるのに、外にいる。

町田氏の特質はここにある。

共同体の中にいるのに、常に客観的な視点を持っている。

新たなパラダイムはいつだって外側から訪れる。

内側にいると気付かない、つまり、あまりに当たり前過ぎてついつい見過ごしてしまう。

新しい文化や様式を作るのは三つのモノと言われる。

「若モノ、余所モノ、馬鹿モノ」

つまり、そのコミュニティに馴染んでいないという共通点だ。

盲点を外すには外側にいることが条件となる。

町田氏は内側にいながら、外側の視点を持っている。

それを玄月氏は「鋭すぎる観察眼」と表現した。

それは日本で生まれ育った日本人が描く「日本」というよりも、ラフカディオ・ハーン、そう小泉八雲のような外からの目で日本を視る。

風俗としての現代日本というだけでなく、文学という方法で現代日本人の持つ無意識を顕在化する形で問題提起する。

町田氏を突き動かしているもの。

私はそれを単なる観察眼だけでなく、町田氏の「苛立ち」にあるように想像した。

町田康の苛立ちの理由。

特定のバイアスがかかった時、町田氏はその力とは反対方向にエネルギーを注ぐことでバランスをとっているように私は思う。

町田氏はそれを「逆張り」と言ったが、それは計算的なものではなく、非常に感覚的なものであるような気がしてならない。

特定の偏りに対する嫌悪感。

大衆が無意識的に「是」とすることの居心地の悪さ。

外(西洋)への憧憬が強過ぎるから、生理的に内側(上方)へと好奇心が働く。

おそらく、日本礼賛という風潮が強くなれば、町田氏の好奇心は何のためらいもなく外側へ向かう気がする。

町田氏の描く上方文化と芸能。

それは「上方」に対して好意を持っているということ以上に、思考停止の状態で無条件に西洋を称賛するムードに苛立ちを覚えているところが大きいのではないか、と

「上方を描きたい」という心の前に、外の文化を無意識に受け入れ、さらには褒め称す大衆の態度に対する「苛立ち」が先にあって。

その「苛立ち」の解消手段としての「文学」、そして選択肢としての「上方文化」、なのではないだろうか。

 

原因と結果を繋げるのが小説家の力。

町田

簡単な納得というものがありますよね。原因と結果。それを繋げてあげると誰でも分かる。

「相手が自分を殴ったから殴り返した」とか。

原因と結果が直結しているものは分かり易い。

それでは小説にならないので、色々と話題を繋げて複雑にしていくわけです。

例えば酒をやめたら、「何で酒やめたんや?」と聞かれる。

酒を辞めて二年くらい経つのですが、僕もさんざん聞かれました。未だに「何で?」と聞かれる。「知らんがな!」って言いたくなるけど、そんな答えでは誰も納得してくれない。

「原因と結果はそれほど単純なものではない」

町田氏はそう述べた。

そして原因と結果を簡潔に整理することに対しても「苛立ち」を抱いていた。

生きている実感というものはそんな単純なものではない。

相関関係に説得力を与え、因果関係に導くことが文学の力だ。

その物語の持つ役割を肯定しながらも、町田氏は抗おうとする。

パンクの精神は、その単純な関係性を破壊したい衝動に駆られる。

ドイツ最高峰の画家と呼ばれるゲルハルト・リヒターはこう言った。

〝絵画が不可解な現実を、比喩において

より美しく、より賢く、より途方もなく、より極端に、より直感的に、

そして、より理解不能に描写するだけ、

それはよい絵画なのです〟

不可解な現実を理解不能に描写する。

この言葉と出会った時、私の中で「芸術」というものが腑に落ちた。

幾層もの表現や比喩を重ねることで複雑化していく。

見る者の琴線に触れた瞬間、花が開くように仕掛けをする。

多様な受け取り方ができる作品こそが芸術なのだ、と。

反対に、因果関係が明確なものというのは芸術性が低いのではないかと想像した。

よくできている。

しかし、それはただ「よくできている」に過ぎない。

「文学は人を納得させるものである」という風潮に苛立つ町田氏の言葉に、私の中でリヒターの言葉がリンクした。

生きている実感というものは私たちが考えているよりも複雑なもので、そこには明確な「理由」なんていうものはない。

あらゆる要素を孕んでいる。

町田氏の観点から考えれば、「人間の実感」というのは、ただそれだけで「芸術」なのだ。

それを納得させるために小説家は物語を書く。

機能としての「物語」をある点では肯定し、または利用しながらも、町田氏はそれさえも破壊したい衝動に駆られている。

─────彼のパンク精神にはひたすらに驚かされる。

小説を書く理由は一つ。

町田

よく新聞記者の人に聞かれたりするのですが「何で書いたのか?」という問題で。

物書きだったらみんなそうだと思うのですが、その問いの答えはたった一つなんですよ。

「書きたかったからに決まってるやろ!」という。

では「何で書いたの?」と聞く理由というのは、質問者の中に既に理想の答えがあるわけですよ。

玄月

向こうが求めている答えね。

町田

つまり、「今の社会はこういうものです。この社会に対して自分は良いにしろ悪いにしろ意見を持っている。それを小説の形で表してみました。いかがですか?」と。それが相手の聞きたい理想の答えなんです。

犬の話や猫の話というのは「何で?」が無い。

例えば犬を蹴飛ばしたとしましょう。

犬は悲しみますよね。

人間を蹴飛ばしたら「何で蹴るねん!」となる。

でも犬は、ただただ悲しいだけなんですよ。

蹴飛ばされたことが本当に悲しい。そこには「悲しさ」しかないんですよ。

事実と事実を繋ぐのが物語。

町田

小説家はそこに物語を作り出す。

犬というのはこういうもので…という風に。そうするとハチ公や『タロとジロ』のような南極の物語のようになる。要するに犬の美談ができる。

全ての物語は人間のために犬が犠牲になって、「犬ってなんて可健気で哀そうなんだ」という。犬の話でこのパターン以外ないですよね?

犬が人間をかみ殺して、うまそうに肉を食って腹いっぱいになって…という話は一つもない。所詮、小説家はそんなもんです。それにそんなものを書いても売れないしね。

結局「何で?」というのが無い奴らというのは本当に手も足も出ない。

でもね、最終的には僕たちもそうなんですよ。

どうしたって死ぬわけじゃないですか。この問題に「何で?」の答えはないわけです。答えがないのに一応便宜上の答えを宗教や哲学や文学は作ってきたわけですが。それはその場だけの答えであって、聞いて一瞬だけ納得するのだけど、また「何で?」に戻ってしまう。

そういうことを犬と付き合っている時に考えます。

「物語は虚構の連鎖。

虚構の連鎖で物語はできていく。

そこからはどうしても逃れられない」

これらの言葉を聞き、私は町田氏が「自殺してしまうのではないだろうか」と感じた。

大衆が疑問を持たなくなったことに対する「苛立ち」。

大きな力を憧憬する、無意識を蝕まれた彼らへの「苛立ち」。

だが、人間は「何で?」という疑問を持つ。

執拗に理由を求める人間という生物に対する「苛立ち」。

疑問を持たないことへの「苛立ち」と疑問を持つことへの「苛立ち」に起こる歪み。

その自己矛盾に、町田氏の言葉を借りれば「やりきれなくなって」破滅する。

しかし、町田氏の目の前には動物がいた。

動物には「疑問」がない。

「持つ」「持たない」の選択肢すらないのが動物だ。

町田康の秘密。

玄月

『スピンクの笑顔』や『ホサナ』、『生の肯定』もそうだと思うのですが、犬との会話、あるいは他者との会話、それは言葉だけの会話ではなくテレパシーなども含めてね。

そして色々なものを共有することが共通している。そこから敵対する相手と対峙していく、というのが構図的に似ているところがあって。

町田さんがこのような手法を使い始めたのは、ものが見え過ぎてしまうというところに原因があるのではないかと思ったんですね。

別の他者と共有しながらでないと、また、共有しながら対峙していくという構図がしっくりきたのではないか、と。

町田

もう少し感覚的なものですね。理屈でものごとを考えているわけではありません。

図に表せるようなものというのは物事が明確になる。でも僕は明確にさせたくないんです。僕らの生きている実感というのは、はっきりくっきりしていないんですよ。

「なんじゃコイツ、むかつくのぉ」と思っても一度会って話してみたら「結構ええ奴やなぁ」ってなることってありますよね。その逆もありますが。そこに明確な判断の基準ってないじゃないですか?

知人にオモシロイ話を聞いて。

その方のお父さんって破天荒な人でね。ある人物のことを、「俺、アイツ嫌いやねん」とお父さんが毒を吐いたんです。「何で嫌いなん?」と知人が尋ねると、「あの顔が嫌いやねん」と。

玄月

分かり易いww

町田

ものすごい実感ありますよね。

普通はそうは言えないでしょ?いや、思っていたとしても自分の中で違う理由を作る。「顔が嫌い」という理由には至らない。

玄月

別の何か、例えば性格的なことを言って説明しますよね。

町田

そこには鉄壁があるんですよ。

「倫理に反するようなことを言ってはいけない」みたいな。それを補強するための物語をこれ以上作ったってしょうがないんじゃないだろうかと思うんですよね。

「そんなもんだよ」っていうのが分かった上で、ある種の物語を落とし込むなら良いけど。

そういったよく分からないことを全くなかったことにして理屈でものを立てるのがどうかと。

そういう意味で僕は社会科学というものを全く信用していない。だから文学だと思うんですけどね。

何を書きたいか。

玄月

書きながら自分自身で驚くことってありませんか?今まで全く考えていなかったのに、書いてる中で思いついて驚いたということはありますか?

町田

それはあります。僕は常に生きている実感や感覚を文学化したいと思っていて。今ある文学も良いんですが、それとは違う感覚というのは必ずあって。

最初のところで急に洋風になったり、急に近代化されるという話がありましたよね。急に漂白されるとか、急に倫理的なことや道徳的なことを言い出すとか。そういう本音と建前の部分って誰しもある。

分かり易く言えば、「本音」と「建前」の「本音」の部分で書きたいんですよ。で、自分たちの本音ってゴミみたいなものなんです。決して立派なことではない。「立派な建前なんてもうええわ」っていう感じがするんですよね。それは文学において。

例えば、何かの文学を評価しないといけない立場の時もあるわけですよね。そういう時に立派なことを言って評価してもつまらないんですよ。

立派な評価軸で評価できる作品って、読んでいて何もおもしろくない。

図式に当てはめて「この点でポイントを与えられますね」と言っているだけ。

〝ここはこの点をクリアしていますね。

ここはこの点をクリアしていますね。

ここはこの点をクリアしていますね。

っていう。

玄月

何かの競技みたいな。

大阪という土地に宿る本音の痕跡。

町田

ポイントの付与はある種の知識であったり、技術であったり、その人の倫理性やあるいは思想性の高さ。でもその思想性っていうのは、僕から言わせるとほとんどがインチキなんですよ。そういうものじゃないものってあると思うんですよね。

で、僕は大阪というところで生きてきて、そういう本音の痕跡のようなものが残っている気がする。分かり易いというか拾い易いというか、そこに育ったからそういう感覚を持っているのかもしれないですけど。

玄月

町田さんにとって大阪で生まれ育ったというのは非常に大きな要素だと思います。でも町田さんはどこで生まれ育っても同じように出てきていると思うんですよ。

大阪人がみんな小説を書けるなら、みんなそういう風になれるかというとそれは絶対になれないわけだからだから。

町田

最近よく、小説家を志望している若い子に「どうしたらいいですか?」って聞かれるんですよ。「知らんがな!」って話なんですけど。「俺のとこに来るな」と。「もっと立派な思想の高い奴おるやろ」と思うんですよね。

往々にして聞いてくるポイントがズレているんですよね。

皆口を揃えて「何を読んだら良いですか?」とか「どんな風なことをしたらいいですか?」とか。それって「昨日何で競馬に勝ちました?」って聞いているようなもので、分かるわけないんですよ。

つまり、同じことをやったところで同じようにならない。全部違うのだから。時代も違うし環境も違うのに、そういう意味では全て偶然ですよね。能力ではなくて全ては偶然です。

玄月

確かに偶然は大切です。けどね、僕はそれだけではないと思う。

町田さんのデビュー作の話に戻りますが『くっすん大黒』を書き上げるのにどれくらいかかりました?

町田

あまり覚えていないですが、一年くらいかかったと思いますよ。

玄月

年間真面目にずっと書いていました?

町田

いや、書いている時間だと一年もかかっていない。実際に書いている時間はもっと短いと思うんですけど、途中でやめちゃったり。小説書くって孤独な作業じゃないですか。途中で誰かと相談したり、アドバイスをくれる人がいたりっていうのはないじゃないですか。

玄月

ない。それに要らないと思います。

町田

そうすると、「こんなことやっていて何になるんやろ?」って。

玄月

ずっとそれとの闘いですよね。

町田

特にデビュー作はね。デビュー作というか、最初に書いた小説というのは「これアカンのちゃうか」っていう気持ちがどうしても出る。そういう感覚は人並みにあった。

玄月

でも、書き抜いたわけじゃないですか。

でね、小説家志望の子に一個くらいは助言できると思うんですよ。「諦めず粘れ」ということくらいは。

町田

でも、「見切りは肝心やぞ」っていうのも。

会場www

玄月

「はよ諦めて就職せぇよ」みたいなww

町田

要するにそれも性格じゃないですか?人によってそれぞれ違う。つまり、途中で「もうええわ」と思う人もいるし、「はじめたことは最後までやらないと気持ち悪い」という人もいる。それって努力とかそういうことじゃなくてその人自身の性質じゃないですか?「曲がってんの嫌やねん」みたいな。

向き不向き、あとは偶然。

町田

偶然というのは、自分がそういう人間になったということも含めてね。どういう親の元に生まれたとか、何才で誰に出会ったとか、そういうことも全て含めて。人知を超えていますよね。

玄月

自分ではコントロールできない。

町田

はっきり言って、努力とかあまり関係ないんじゃないですかね?

玄月

それを言うたら元も子もないような感じもしますけどね。

でも、「書く努力を続ける」、継続する努力というのは必要かと。

書くことを続けるって大変なことですよね。

町田

今だから告白しますが。小説書くの大変かもしれないですけど、もっと大変な「普通に働く」ということを僕は一回もやったことないですからね。

会場www

玄月

エッセイか何かを読んだ時、一時仕事も何もせずにずっと図書館に行って本ばかり読んでいたという時期があったというのを記憶していますが。それは何年くらいですか?

町田

三年くらいですね。

一つアドバイスがあるとすると、「小説を書きたい」と言っているわりにみんなちょっと本を読んでいなさ過ぎじゃないですか?

書きたいと思う気持ちの100倍くらい読みたいという気持ちがないとやっぱり書けない。最初から「書こう」と思って読んだって駄目で、「ただ読む」という時期があって初めて書くという事が成り立つ。

プロになっている人の話を聞くと大体そうですね。質は別としてみんな読んでいる。プロになってからでも読むのが苦にならない人が多いですね。

玄月

僕は高校生くらいから本を読み始めましたが、小説を書こうと思ったのが26、7才くらいですね。

町田

ですよね、だから読むだけの時期というのは必ずある。それが無い人はちょっと難しいかもしれないですね。

読むというのは仕入れみたいなものじゃないですか?どんな商売も仕入れがないとダメでしょ。

玄月

そうですね。一冊仕入れて一冊書けるわけじゃないからね。1000冊とか仕入れておいてやっと一冊書けるかどうか。

 

町田氏と玄月氏のトークセッションを終え、観客からの質問コーナーへと移る。

ここでも非常に興味深い話を伺うことができた。

Q.最近これはパンクだなぁと思う出来事はありますか?

町田

パンク…、パンクというのはこれは曲者でねぇ、ちょっと長くなりますが。

パンクって何なんだよって話で。今はもうパンクというのはある種、『新古今和歌集』みたいなものですよね。

要するにパンクの本質ではなくて、「パンク」という景物になっている。歌枕とか歌言葉みたいなもの。

本来、パンクというのは生き方のことだと思うんですよ。だからパンクファッションしている奴は今やパンクじゃない。

一般的にはあれらのファッションがパンクと言われていますが、もともとパンクというのはそういうものではなかった。

要するに「こうしなきゃいけないよ」という既存のルールや伝統的を無視して、自分たちの感覚だけを頼りに、知識や技術といった蓄積を一回忘れて、感覚だけを頼りにやってみたらあんなことになりましたっていうのが70年代の半ば頃のパンクで。

そんなことは当然長続きすることはなく、すぐに消滅して。でもそれらは商業の中で残った。ファッションの人たちが取り上げたり、復活させたり、ショーが格好良かったりするから。Vivienne Westwoodみたいな人もいたし。それが続いているだけで、一つの文化的なアイコンに過ぎない。

玄月

ロックと同じですよね。

町田

全く同じだと思います。

そういう意味ではパンクという言葉を使う時は、「それは伝統芸能としてのパンクですか?それとも言葉の本来の意味でのパンクですか?」と分けなきゃいけない。

質問者

パンクと聞いた時に、不良性だとか反逆といったものが思い浮かびました。

町田

だからそうなんだよ。

「不良」ではなくて「不良性」なんだよ。

パンク=ものがなしさ

町田

パンクというのは「物悲しさ」ではないでしょうか。

悲しくてやりきれないっていうことだと思う。猟奇的な殺人事件とかを見ると「パンクだなぁ」と。もちろん褒め称す意味ではなく。どうしようもなくなってやっちゃったことなんだろう、と。

当時、つまり1970年代中頃って世の中にまだ余裕があったんですよ。

「ノーフューチャー」と言いながら、「フューチャー」があった。

でも今は本当にノーフューチャーなんです。だからパンクの表れ方っていうのがものすごく悲しい。反逆とか反抗とかしていられなくなったんですよね。

反逆は誰にするの?国ですか?でもしたって意味ないでしょ?そんなことを言っている奴はいるけどそれは甘えているだけ。

芸能人が政治のことを言ったりしますよね。僕は「ざけるな」と思う。

「芸能とは一体何なのか」ということを分かっているのか?と。

芸能というのは、時の権力者に媚びないと生きていけないんですよ。だから世阿弥は足利義満に庇護されたんです。つまり時の権力者に媚びたんですよ。

世阿弥が義満の悪口を言いますか?そんなことはしない。

では、今の権力者って誰でしょうか?一般大衆です。モノを売らなければいけないわけだから。芸能人は広告収入で食っているわけですよね。

本来の意味として権力者に歯向かうならば「大衆のバカ、全員死ね」となる。本当に権力に歯向かおうと思えばね。

だから好感度というものに媚びているに過ぎない。こんなことを言ったら俺はカッコイイとか、こんなことをすると俺はカッコイイとか、急に洋風化する奴と全く変わらない。

玄月

これを攻撃していれば、大衆に受けるという。

町田

そう、大衆受けを狙って媚びているだけの話です。

政治家も同じ、大衆に媚びているだけ。結局みんな自分の保身にしかなっていないですよね。

「こんなこと言ったらパンクだぜ」っていう言説は、単に一般受けを狙っているだけでパンクでも何でもない。

本当にパンクなら、もの悲しく死ぬしかない。それこそ無差別殺人を犯して。

そんなことやりたいですか?もうちょっと意味のある生き方をしたいですよね。

玄月

そういう意味ではNirvanaのKurt Cobainはそうですよね。

結局、最後は猟銃で自殺しています。

町田

きっと頭の良い人で、そういった矛盾に気がついたんでしょうね。

反骨的な言説を言ったところで、結局ポップカルチャーなんてそれだけのものじゃないですか。そう思っちゃったんじゃないですか?その頃には既に興味を失っていたので僕はよく知りませんが。

Q.人生に希望が持てず、虚しさに捉われている時があります。どうしたら日々を生きやすくなると思われますか?

町田

結局、人生というものがどういうものかということですよね。

捉え方になってくる。人の人生を見ているとすごく楽しそうに見えるけれど、そこで「自分はなんて物悲しいんだろう」と思ったらダメですよね。

自分の中で貸借対照表を作るしかないんですよ。

おもしろいこととしょーもないことを自分の中でバランスをとるしかない。

玄月

他人と比較したら絶対にダメですよね。

町田

他人を気にするとどうしても負けますよね。

玄月

相対評価はだめですよね。自分の中の絶対評価じゃなければ。

Q.歌詞と小説では考え方は違いますか?

町田

良い質問ですね。

違いますね。歌詞の場合はリズムやメロディが大事。でも言葉も大事。

僕らが小説の中で使っている言葉と歌詞の中で使っている言葉というのは同じ日本語でも「言葉の種類」が違う。

近代以前のいわゆる西鶴とか近松とかああいうものはもっと歌詞のように内側にリズムやメロディを孕んだ言葉で書かれていたんですね。僕はそこに近づきたい。

中原中也の詩を読んでいても、今の詩よりもやはりリズム、それからメロディが言葉の中にある。だから歌と言葉の中間の領域。僕らが話している散文としての言葉と歌の中間。だからもっと歌詞に近づいていきたいという気持ちはありますね。

Q.小説を書く上での楽しみは?

町田

何か違うものが現れてきますよね。

単なる文字を書いているだけで、何かとてつもないものだったり、くだらないものだったり、どうしようもなく悲しかったり。人間の感情の中に生きているだけとは違う、「何か別の精神の状態」が書いていても読んでいても生まれてくる。それが小説の良いところじゃないですかね。

 

こうしてトークショーは幕を閉じた。

どの言葉も刺激的で、考える上でのヒントになるものばかりであった。

まさに「教養のエチュード」に相応しい内容である。

会場は終始笑いに包まれ、尚且つ内容の深さには驚かされた。

町田氏の不思議な魅力。

喋っている技法はベタ、内容は深い、精神はもっと深い。

オモシロくてオモシロくて仕方がない。

町田康のオモシロさはトークの中のベタ的な笑いの技法にある。

もはや書く必要もないだろうが、「ベタ」は決して誰もができることではない。

そこには様式美があり、何物にも代え難い蓄積された経験が必要だ。

私が言いたいのは、「ベタ」な表現の中で、「深い」言葉を吐くことの凄さである。

中でも印象に残った言葉は、

「オモシロイ文章を書こうと思ったらオモシロイ人間にならなくちゃいけない。

しょーもない人間がオモシロイ文章を書こうと思ったって無理なんだから」

そして、私の次なるテーマは「カッコ善さを構成しているものというのは何なのか?」というところへ行きついた。

何を「善し」とし、何を「悪し」とするのか。

無意識で選ばされるのではなく、自分の意志で選択したいし、自分の実感で選択したい。

【町田康】

1962年大阪府生まれ。1996年に初小説「くっすん大黒」を発表、翌年ドゥマゴ文学賞、野間文芸新人賞を受賞。2000年「きれぎれ」で芥川賞、2001年『土間の四十八滝』で萩原朔太郎賞、2002年「権現の踊り子」で川端康成文学賞、2005年『告白』で谷崎潤一郎賞、2008年『宿屋めぐり』で野間文芸賞を受賞。他の著書に『夫婦茶碗』『パンク侍、斬られて候』『人間小唄』『ゴランノスポン』『ギケイキ 千年の流転』『ホサナ』『生の肯定』『猫にかまけて』シリーズ、『スピンク日記』シリーズなど多数。

【玄月】

1965年2月10日生まれ。大阪南船場で文学バー「リズール」を経営。1998年『異境の落とし児』で第5回神戸ナビール文学賞受賞。 1999年『おっぱい』で第121回芥川賞候補。 1999年『舞台役者の孤独』で第8回小谷剛文学賞受賞。 2000年『蔭の棲みか』で第122回芥川賞受賞。

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