top of page

メイキング・オブ・教養のエチュード

《教養のエチュードにおける編集手帳》

みなさま。

いつも、教養のエチュードをご覧頂きまして、ありがとうございます。

教養のエチュードとは、スペシャルな方のインタビュー記事や興味深いイベントのレポートを掲載しているネットメディアです。

取材の依頼がくることもあれば、気になった人やイベントに対して私が直接アクセスする、といったカタチで、一般的なネットブログよりももう一歩掘り下げた内容を目指しております。

エチュードというのは絵画においての「下絵」だとか、音楽においての「練習曲」とか、演劇でいうところの「即興劇」といった意味があります。

つまり、読むことを通して、読者の方にとっての「教養を育む練習」になれば素敵だなぁ、と思って名付けました(もちろん書く上で、私自身にとって一番の訓練になっているわけですが)。

「教養」だなんて大仰ですが、考えることの「きっかけ」くらいはお届けできるのではないだろうか、と。

メイキング・オブ・教養のエチュード

今回は少し、新たな試みを。

教養のエチュードが記事になるまでの思考過程を紹介するのも面白いのではないか、と思いました。

言わば、「メイキング・オブ・教養のエチュード」

ある特定の話題から、思考が移り行く中で、訪れる発見。

自分の頭で考えることももちろんですが、あらゆる人の言葉に触発され、イメージが移ろいながら(それはまるでワープするみたいに!)、記事になっていきます。

ワープという表現は、「言葉」から「言葉」へ自由自在に飛び越える、という意味でラップに近いのかもしれません。

色んな人(本)から、色んなヒントをもらい、自分の中で結晶化していく。

言葉(思考)が移ろってゆき、そこかしこに新しい発見があって、それらがやがて沈殿し、発酵しながら成熟してゆく。

「朽ちて、土に返り、土壌を豊かにする」

生命の循環のようで、書きながらも「どのように変わっていくのか自分でも分からない」という期待や不安があります。

今回、新しく文章や思考を編集する上で、過去記事や人物にもリンクを掲載しておきました。

タブを開きながら確認してもらえると、読んでいるみなさまの発想がより広がるのではないかと思います。

オモシロイ人たちばかりですので、ぜひチェックしてみてください。

先日、映画監督の儘田聡さんとお話をした時のこと。

儘田監督は映像だけでなく、写真も撮影されています。

そのカメラ談義の中で、「京都や奈良の風景(建築物や庭)は撮っていて面白くない」と仰いました。

その理由は興味深いものでした。

京都や奈良の風景(建築物や庭)を写す時というのは、「自分が撮らされている」という感覚になるらしく。

特に神社仏閣においては、「巧みな誘導」が施されていると仰いました。

言い換えれば、「無意識的に視線を誘導する緻密な計算がデザインされている」ということです。

だから、京都や奈良を舞台にした写真というのは「確かに美しいのだけれど、全て同じように見える」のだとか。

撮り手からすると、そこでオリジナリティを出すには、工夫の仕様がないと言いますか、非常に難しい。

理由は「あまりにも完璧なデザインだから」

例えば、風景(建築物や庭)をコンビニに置き換えてみます。

コンビニに入ると、なぜか色んなモノを買ってしまいます(要らないものまで)。

そこには消費者の購買意欲を促す「店のつくり」がデザインされていて。

雑誌はここで、飲み物はこの順番で、お弁当やおにぎりはこの高さに置いて、レジ前ではちょっとした甘いものが手に取りやすいところにあって……みたいなプロが考え抜いた陳列方法があるんですよね。

気がつけば「購入する予定がなかったもの」まで買っている、と。

それと同じといったら失礼なのかもしれませんが、デザインされた風景もそうなんですね。

まずはここからの景色を眺めて、この位置にくると光が差し込んで、石の表情が見えて、水の音が聴こえてきて……みたいな感じで作り手に誘導されているんです。

「お次はこちら」みたいな指示標札みたいなものはなくて、「自然とそうしてしまう心地良さ」をデザインしているんですね。

だから観光客は無意識的に同じ場所からファインダーを覗く。

だってそこからが一番心地良いから。

ほとんどの人がそうとは知らず、「どうだ、綺麗な写真を撮ってやったぞ」と小鼻を膨らませているのですが、実はデザインした人(作り手)の手のひらの上で転がされているということなのですね。

(実際にその場所から写すのが最も綺麗である、というのは言うまでもありません。)

京、奈良の都といえば1000年以上の歴史を持ち、当時の文化の最先端を担っていたクリエイターたちが群雄割拠してきたわけです。

「美」への研鑽、淘汰を繰り返してきたのですから、納得がいきます。

「そんな束縛の強い風景よりも、もっと自由に撮ることができる場所へ…」と儘田監督は言いました。

この話は非常にオモシロくて。

それは庭や建築を造る人の洗練された美意識と巧みな戦略もそうだし、その圧倒的な力に抗いたくなる儘田監督のクリエイター心もそうだし。

なんだか素敵なお話を聞いたなぁ、と。

「庭」のオモシロさには以前から惹かれていて。

だって「自然」を人工的に「デザイン」するのですよ。

とても逆説的な行為だと思いませんか?

でも、手が加えられたことによって、確かに心に響くものになるのです。

音楽で例えるならば、環境音からノイズを排除して(時に整理して)心地良いメロディを奏でているといったように。

その感性や技術というのはすごいですよね。

先月、以前から注目している庭師(辰巳耕造さん二朗さん)のGREEN SPACEさん主催のトークイベント《Green Day》を取材させてもらいました。

この方々は守備範囲が広く、彼らの「庭」というのは、私たちが認識している「庭」という概念を遥かに超えていて。

実際的に作っているものは「庭」そのものなのですが、その土壌にあるものは多種多様。

それこそボーダレスで。

だからこそ彼らの言葉は決して「閉じられた業界内での話」では収まらず、様々な職種の方へも何かしら響くものがあるのです。

で、やっぱり想像を裏切ることなくトークショーはオモシロかった。

ゲストはOgawa Landscape Design代表の小川隼人さん。

カナダで庭師として活躍されている方で、耕造さんの前評判通り(その期待以上)にとてもオモシロくて。

トークショーとしてもホストが単にゲストを迎合しているだけのインタビューではなく、個々に考えがしっかりあって、それが良いムードでセッションしている。

その場にいて、とても「素敵だなぁ」と。

「外国語を知らない者は自分自身の言語について何も知らない」

小川さんの話を聴いていると、普段なら流し読みしてしまうこのゲーテの言葉が深く胸に突き刺さります。

カナダにいるからこそ顕在化する日本への意識。

小川さんは日本人より顕かな日本人でした。

迷いがなく、輪郭がくっきりとした意識がそこにはありました。

「僕が物心のついたのは18歳の時だ」と小川さんは話します。

───つまり、カナダを訪れた時にはじめて自我が芽生えた、と。

カナダ人と日本人の価値観の違いを、基盤となる硬い地面をザッコザッコ掘り起こし、労働観・宗教観・自然観などを取り上げて分かり易く説明してくれました。

その体験がとても楽しかった。

知らない人に日本人の感性を伝える方法───「もののあわれ」や「無常観」の伝え方というのはとても勉強になりました。

小川さんはそれらのはっきりとしない(言葉にできない)「感覚」をちゃんと説明するんです。

というか、説明しなければならない状況に追い込まれるのです。

外国で生活するということは、事ある毎に、それらの説明を要求されるんですね。

そして、文化を語ることが、自分という人間を表現することに繋がるんです。

言葉にならない言葉(一言二言では説明のつかない概念)を説明することを迫られた時、情報量は飛躍的に増加します。

急速なインプットが求められます。

自国の文化を知り(言語化できるように)、相手の文化を学んだ上で、その二つを一つ一つ比較しながら説明していくんですね。

そうやって、相手に納得してもらえる位置にまでようやく到達するのです。

だから、自分の中に明確な答え(言葉)というものを持っていなくちゃならない。

そのためには知識はもちろんのこと、客観的な視点というのが必要で。

外から日本を見ないといけない。

つまり日本の只中にいながらでは難しいんですね。

世阿弥の言う「離見の見」ですよね。

─────主観的でありながら、客観的。

「見所より見る所の風姿は、我が離見なり。

しかればわが眼の見るところは、我見なり。」

能楽師の天才、世阿弥が風姿花伝で語った言葉です。

舞台から客席を見る目(自分が相手を見る視点)が「我見」

客席から舞台上に立つ自分を見る目(相手が自分を見る視点)が「離見」

この両方を、つまり全体を俯瞰して見る目(全体を客観的に見る視点)が「離見の見」

「離見の見」があってからこそ、はじめて良い演技が出来るのだと世阿弥は言っています。

「カナダで京都仕込みの庭をつくる」というのは単純に海外に住むことよりも難しいものです。

小川さんは半ば強制的に「離見の見」を修得せざるを得ない環境に身を投じたのです。

だから、小川さんという方は非常に感性的なのだけれども、同時に論理的でもあるんですね。

その中で、宗教観の違いについて話していた部分が非常に興味深く。

信仰心の厚薄は別にしても、必ず根っこの部分では生まれ育った国の影響を受けているという。

例えば、「無宗教なんだよね」って言っても日本人はお守りを粗末にできないし、初詣の時はついつい神社に手を合わせてしまいます。

それと同じように、信仰が薄くてもカナダ人の根底にはキリスト教のテイストが流れているのですって。

で、〈一神教の欧米〉と〈多神教の日本〉という比較を軸に話は進んで、それが自然観に表れているのだと小川さんは話します。

欧米人にとって自然は、「神が創造したもの」。

その神の創造物の中でも人間が一番偉いから、「自然は人間が管理するもの」という立ち位置なんですね。

対照的に多神教の日本人にとって自然というのは、「木にも石にも水にも神様が宿っている」という、言わば敬意の対象なんです。

「自然を敬いながら共栄共存する」という感覚ですよね。

〈義務として管理する立場〉と〈敬いながら共に生きる立場〉では、扱い方も変わってきます。

だから、カナダでは剪定という概念が以前はなかったらしいのです。

剪定には、単純に木自体が長生きするという利点があるのだけれど、日本人は木の佇まいというか、心地良さというのがなんとなく分かるんですね。

小川さんが剪定していると、とあるカナダ人に「それって何の意味があるの?」と聞かれ、単純に「木の心地良さ」って言っても通じないから、両者の宗教観を照らし合わせながら説明する。

するとそこではじめて相手も分かってくれるのですね。

また、きっちりと理解してもらえば相手も日本の文化に対してちゃんと敬意を払ってくれるのですって。

そのことでふと気付いたのが、絵画のこと。

私の妻朋子クロード・モネが好きなんですね。

私もそうだし、彼女と同じように日本では、ルノワールやゴッホなどの印象派の作品がとにかく人気ですよね。

その背景には浮世絵などのジャポニズムが影響しているっていうこともあるけれど、私たち日本人が感じる生理的な心地良さの正体は「自然光や風景」を尊重しているからなのではないだろうか、と。

それまでの西洋画っていうのは自然を制圧していたような気がするんです。

小川さんの言葉を借りれば「管理されていた」と言いますか。

それが印象派になってから瑞々しく描かれるようになった。

表現が自由だし、自然の中で溢れる細やかな変化に対しての敬意を感じます。

まるで「自然の声」に耳を澄ませているような。

それが日本人の根底にある「自然への尊重」とリンクしているんじゃないかって、気付いたんですね。

それから、Shikoku Anthroposophie-Kreisの代表をされている竹下哲生さんという方がいて。

ルドルフ・シュタイナーの思想を継承し、それをヒントに現代社会と融合させることで様々な気付きを促すという、高度なことをされている方がいて。

非常にユーモラスで、とにかくオモシロイ人なんです。

その方が主催した「人間は思考する」という哲学の講義を取材させてもらって。

オランダ人の哲学博士であるイェッセさんが「人間の能力って何だろう?」ということについて考えるという内容で。

様々なモノを比較し、その特色を丁寧に明らかにしていきながら、それは「『思考する』ってことですよね」って、参加者に気付かせる形で展開していくんです。

その中で、イェッセさんが断定した言葉が私を驚かせました。

それは「真理は一つである」という言葉。

その時、少し混乱しちゃったんですね。

「〈私にとっての真理〉と〈あなたにとっての真理〉は違うんじゃないかな」って。

それも小川さんの話のように宗教観の違いなのだろうか、と思って自分自身を「(仮)」で納得させていたんです。

他の参加者の中にもそのように捉えている方がいて。

でも、やっぱり腑に落ちないんです。

それからずっとそのことについて考えていました。

すると、ふとジョーゼフ・キャンベルの『千の顔をもつ英雄』を思い出したんです。

その中で引用されていた記述があって。

「真実はひとつ。賢人はそれにたくさんの名前をつけて語る」『ヴェーダ』

真実(神、英雄、神話)は一つで、語られ方(見え方・聴こえ方・響き方)は複数あるんですよっていう意味です。

まさに『千の顔をもつ英雄』。

英雄は一人だけど、1000人に合わせた表情─────1000通りの顔を持っている(あくまで私の解釈ですが)。

つまり「伝わり方は千差万別だけれど、真実(真理)は一つ」なんですよ。

イェッセさんと私の捉え方の相違は〈具体化された真実〉か、はたまた〈抽象化した真実か〉という問題だったんです。

それで、ようやく腑に落ちた、ということなんですが。

既存の答えに頼るのではなく、一つのところに留まり、自分の頭で考える

まさに「哲学的な体験を通して、深く学んだ」という喜びがあったんですね。

そこで気付いたことというのは、「抽象化させたり、具体化させたりすることで、色んな発見があるぞ」ということなんですね。

お話の上手な人(思考の上手な人、つまり頭が良い人)っていうのはこの能力に長けているんです。

あるモノを具体化させたり抽象化させたりする能力。

ものの本質的な部分を抜き取って、相手に分かり易い形で表現する。

一番良い例が「例え話」です。

この記事の最初の方でも、〈京都や奈良の古庭園〉を〈コンビニの仕組み〉に置き換えた時に使いました(上手な例え話になっているかは別として)。

また、ことわざっていうのもオールドスクールの例え話ですよね。

つまり、抽象化させて、再度、具体化する。

これは釈迦もキリストもみんな上手だった。

めちゃくちゃ賢くて、難しい言葉も沢山知っているのに、聴き手に分かり易い形にして話します。

当然、相手は教育を受けたことがない人ということもしばしば。

そういった人にも、物事の本質を抜き取り(抽象化させ)、生活の中にあるもので表現(具体化)してしまうのです。

それこそ『千の顔をもつ英雄』における、「神話」という抽象概念をあらゆる形で具体化させる先ほどの話と同じなのですが。

本質(大切なところ)を抜き取り、別の表現で具体化させる、という。

で、竹下さんはこれがとにかく巧い。

巧過ぎて、時々何を言っているのか分からないくらい、上手なんです(量においても、質においても)。

その上、早い。

ユーモアで散らし、アイロニーで整理する。

それを竹下さんは「アート」と「デザイン」という言葉で分類していました。

現代の芸術には「アート」と「デザイン」に二種類があって、〈アートは問題提起〉としての役割を、〈デザインは問題解決〉としての役割を担っているというようなパンチラインを仰っていました。

竹下さん自身は、「凝り固まったタイプには問題提起を」、「とにかく散らかすタイプには問題解決を」と使い分け、対話が始まった時とは別の位置まで相手(自分を含め)を動かすことを意識されているようで。

まさにトリックスターのような役割として、あらゆる気付き(偶然性を含め)を促してくれます。

また、言葉の世界を抽象化させることについて、シンガーソングライターの広沢タダシさんは、先日のインタビューの中で「メタファーを大切にしている」と話していました。。

一つに限定された表現よりも、多元的な表現の方が多くの人に響くから

それは非常に文学的な発想ですよね。

有名な話で、太宰治の小説を読んだファンが「これは自分のことを書かれている」と思って太宰の家に乗り込んだ、という逸話があります。

もちろん太宰はその人のことなんてこれっぽっちも知らないのですが。

つまり、「人間の本質」はというのは「人間を抽象化した要素である」と言えるのです。

人間のより深い部分を描くことで、読み手の魂と呼応するんです。

同じクラスターが反応して、あたかも自分のことであるかのような錯覚に陥るのです。

秀逸な芸術作品というのは、これを見事に成功させています。

受け取られ方が多様でありながら、感動は深い。

ドストエフスキーなどはまさにそうで、ありとあらゆる読者の、めいめいにある感情のスイッチを押していくのです。

そして、読者は作品の中に自分を発見するのです。

「芸術家の役割は現在の状況を神話にすることだ 」

『千の顔をもつ英雄』の中で、このような記述がありました。

芸術家は現在の本質を読み取り、抽象化させ、再度、作品として具体化するのです。

このようなところで、ぼちぼちメイキング・オブ・教養のエチュードを終えたいと思います。

「言葉」から「言葉」へ移ろう発想の種。

味わって頂けましたでしょうか?

機会がありましたら、またこのようなスタイルのものを書きますね。

bottom of page