人間は思考する

真理へ向かう思考、善へ向かう行為。

1月の20日。

GLAN FABRIQUE inc.(大阪府茨木市)にて哲学の講義が開かれた。

これは、その4時間に渡る講義のレポートだ。

本題に入る前に、少し書き記しておきたいことがある。

それは非常に個人的なことであり、同時にこの講義の本質的な要素に触れる内容となっている。

少し長くなるので、お急ぎの方は次の写真が登場するまで読み飛ばして頂いても構わない。

これからはじまる《序文》は、本題を読み進めて行くにあたり、読者にとっての何らかの助力になるかもしれない。

そして、そうなることを私は願う。

《序文》

私は今回、この講義を受け終えて、自分の至らなさを大いに感じた。

具体的な収穫がきわめて僅かであったからだ。

つまり、私にはその内容がほとんど分からなかったのである

私が分かったこと。

それは、会場の空気─────

雨戸から差し込む光、珈琲から立ちのぼる白い湯気、その沸き立つような芳ばしい香り、集まった人たちの小さなざわめき。

─────それらがゆっくりと会場の隅々を支配していく様子だけだった。

会場は疑うことなく白熱していた。

それは決して騒然としたムードであったという意味ではない。

そこには、「静かな難解」が満ちていた。

参加者は講師であるイェッセ氏と通訳の竹下氏の言葉にじっと耳を傾けた。

まるで、中央(舞台上の二人と数十名の参加者を挟んだところ)に漂う透明な空気に、書き連ねられていく様々な文字を我慢強く解読しているような。

それは言葉だけで星座を描くようなもので。

つまり、宙に浮かぶ星を線で繋ぐという、ある種の曲芸的な知的交信が繰り広げられていて。

私たちは決して目に見ることができないその軌道を懸命に追っているという感覚であった。

時折、言葉がしっくりと心のくぼみにはめ込まれると、淡い紅色の空気がその場に咲いた。

そして落ち着く暇なく、難解の森の中へ再び引きずり込まれる、といった形で。

終えてみると、信じ難い虚無感に襲われた。

収穫は「会場の空気感」のみ。

ソクラテスは『無知の知』と言った。

「知らないことを知っている」ということ。

それは「何を知らないか」ということが明確だからこそ言える表現だ。

私はの場合は、「分からないこと」だけしか分からなかった。

つまり、何が分からないのかさえ、分からない

ただ、余韻として胸の高鳴りだけが残った。

敗北感とは裏腹に、身体の奥から湧き上がる熱

この理由の定かではない火照りを信じて、私は執筆の準備へ取りかかった。

私は三日かけて講義の内容を文字に起こした。

それは50,000字を優に超えるものだった。

それでもまだ、内容については全くと言っていいほど分からなかった。

私はそれを何度も何度も朗読し、その都度、必要とあれば文章を修正した。

くり返し行われる作業の中───その体験の中で、ある瞬間、一筋の光が差し込んできた。

それは蜘蛛の糸ばかりの、ほんのささやかな光。

私はそれを慎重に手繰り寄せた。

その微かな光を頼りに、考えては文章を口に出し、文章を口に出しては考えた。

すると色々なパーツ(道具としての言葉)が整理されていくのが分かった。

そしてようやく、自分なりに腑に落ちるところまで消化するところにきた。

「作品は排泄物だ」

様々なアーティストがよく比喩として表現する言葉だ。

排泄物の内容成分が食べたものに起因するように、作品もまた「見たり、聴いたり、感じたりしたもの」によって表われる。

図々しいのも承知の上で言葉にするが、この「教養のエチュード」は私の作品だ。

見たり、聴いたり、感じたことをそのまま言葉に書き写しているわけではない(それであれば、私がやる意味がない)。

しっかりと咀嚼し、時間をかけて消化し(時には反芻し)、ようやく形になる。

今回の内容は、胃の中に入れるまでに随分と苦労した。

何度も歯を立ててみたり、細かく噛み砕いたり、時には熱を入れて柔らかくしたり、砂糖をかけて甘くしたりしなければならなかった。

しかし、ある程度の目処が立ち、ようやく記事を書き始めようという時に「この体験こそが、真理を求めることなのだ」ということに気付いたのだ。

「人生において最高なことは何かというと、永遠なる真理について考えることだ」

これはアリストテレスの言葉だ。

無意識的に、私は「簡単に理解したい」という欲求に支配されていた。

それと同時に「すぐに分かった気になる」という習慣に縛られていた。

「分からない」ということは自然なことであり、むしろ「分かった(気でいる)」ということは傲慢な態度なのかもしれない。

「分からないこと」をいかに「理解しよう」と試みるか。

一つの問題に留まって、試行錯誤を繰り返しながらじっくりと考察すること。

習慣や社会通念に捉われず、時間という括りも取っ払って、自分の力で向き合うこと。

それが「考える」ということの根本なのではないだろうか?

私はこの記事を執筆することを通して、「分からないことは非常にエキサイティングであり、有意義なものである」ということに気付いたのだ。

これは何物にも代えがたい、極めて貴重な発見であった。

「何も分からなかったあの講義」に自分なりの結論を出し、ようやく記事という形にできた(それが正しいものであるのかは別として)。

会場の空気感───それしか収穫がなかった、と私は言った。

今になって気付いたことは、その僅かな収穫こそが最も重要なものであったのだ。

それはチルチルとミチルが探しに出かけた青い鳥のように、最初の場所に立ち返った時にふと発見するのである。

私が整理した講義内容(これから先に書かれた文章)を読んだとしても、会場の空気や、肌触り、匂いといった感覚的なものは伝わらない。

あの場にいたからこそ、私は五感が読み取った繊細な感覚をヒントに到達することができた。

手掛かりは、そのきわめて細やかな要素にあったのだ。

そこで放たれた声の質感や、珈琲の黒い水面から立ちのぼる白い湯気に、重要なヒントが宿されていた。

それを直感的に───胸の高鳴りという形で、私は感じ取っていたのだ。

心の躍動、瑞々しい好奇心は実際に会場へ足を運ばなければ手に入れることはできない。

文章は、所詮、文章なのだ。

寺山修司ではないが、「さぁ、書を捨てよ、町へ出よう」。

あなたの人生における重要な発見は、あなたの五感でしか感知できないのだ。

《序文》はここまで。

さて、本題はここから───

「人間は思考する」

今回の講義はShikoku Antohroposophie-Kreisの代表である竹下哲生氏が、哲学博士であるイェッセ・ミュルダー氏をオランダから招き実現した。

実現に至る過程と講義の目的はこちらから確認することができる。

《「考える」ことについて考える。》

↑クリック

講義は三部構成となっており、それぞれにテーマが設けられている。

一部では、「思考とは何か」について。

二部では、「自然界に存在する能力」について。

三部では、「人間の能力」について。

イェッセ氏がドイツ語で講義し、竹下氏がドイツ語を日本語に同時通訳する、といった方法で進めていく。

まずは竹下氏が挨拶をし、そしてイェッセ氏の紹介に移る─────。

〈竹下哲生氏〉

竹下

「この哲学講座は、昨年の10月頃に決まりました。

イェッセ・ミュルダー氏はオランダのユトレヒト大学で哲学を教えています。

正確にいうと大学講師という位置づけで、アメリカでは准教授としての扱いです。

ヨーロッパでは、哲学は学問における最も基礎的な部分。

つまり、何かを学び始める前に取りかかる学問です。

ですから、大学に入った時点で、全員が哲学を受講します。

ある程度以上の基礎を身につけた時、それから先に進む段階になってはじめて三つの選択肢が与えられます。

一つ目は『人と人の関係性を円滑にするための学問』、それを法学といいます。

二つ目は『人間が病にかかった時に助けるための学問』、それを医学といいます。

三つ目が最も重要で、『人間と神様の関係性を順調にするための学問』、それを神学といいます。

で、この三つの学部のことを上級学部といいます。

ヨーロッパの大学では基本的には『最初に全員が哲学を学び、その後に三つの中からいずれかを選ぶ』という形式になっています。

日本においては一番賢い人が専攻する学問という位置づけになっていますよね。

対照的にヨーロッパでは、哲学を学ぶことはいわゆる『基礎の基礎』なんですね。

家を建てる前に基礎をつくるのと同じように、全ての学問の最初にあるものが哲学という位置づけです。

比喩的に言うのであれば、哲学は決してショートケーキのイチゴではなく、スポンジの方です

そのような意味で、今日はイェッセ氏に哲学の話をして頂ければと思います」

〈イェッセ・ミュルダー氏〉

イェッセ

「これからお話するのは『哲学とは何か』ということです。

私自身が体験している『哲学とは何か』というものを説明させていただきます。

本来、哲学とはきわめて簡単なものなのです。

それは『何かについて思考する』ということ。

そして思考するということは誰もができることなのです。

そのような意味において、みなさん全員が哲学者だといっても間違いはないのです。

しかし、人生においてしばしばそのようなことが起きるのですが、一見簡単そうに見えるものに限り、よくよく見てみると難しいということが分かります。

今日の講義では三つの段階があります。

三つの段階を通して、哲学というものがいかに深いものであるかということをみなさんにも体験していただきたいと思います。

まず第一部において、『思考とは何か』ということについて明らかにしていきます。

思考には二つの側面があるという話です。

思考というのは一方において、非常に主観的な、極めて個人的なものであるということ。

そして、もう一方において、思考というのは非常に普遍的で、そして客観的なものであるということです。

第二部に入ると、今度は思考というのはとりあえず脇において、人間以外の自然の世界では何が起きているのかということを見ていきます。

そこでの問題は、『自然界にはどのような能力が存在するのか』ということです。

そして第三部においては、他の二つを総合し、『人間の能力』について検証していきたいと思います」

《第一部~思考とは何か~》

イェッセ

「それでは、非常に簡単なところからはじめていきたいと思います。

例えば、私たちが何かを考えてみるとします。

私はこの木曜日に初めて日本に来たわけなんですが、空港に到着して、『私(イェッセ)は日本にいる』ということを考えました。

その思考が持っている意味というのは自分自身にしか意味がないことです」

「イェッセは日本にいる」という具体的な思考を例に、「思考」というものがどのような役割を持っているのかを明らかにする。

「イェッセは日本にいる」という思考は様々な要素と結びつくことができる。

イェッセ氏の予定や望みや感情などのあらゆる要素と。

そのような意味で、思考は個人的なものであるということが分かる。

イェッセ

「しかし別の側面から見ると、みなさんも同じことを考えることができます。

つまり『イェッセは日本にいる』ということを考えることができるということです。

つまりみなさんはイェッセがここにいることを見ることができるし、イェッセの声を聴くことができます。

ところが、『イェッセは日本にいる』というその思考内容が持っている意味というのはイェッセ本人とは違います。

みなさんにとって日本という国は決して知らない国ではないからです。

つまり私とは違う形でみなさんは『イェッセは日本にいる』ということを自分の魂と結びつけているのです。

なぜならば、それはみなさんの中で起きていることだからです。

これが思考の持っている特性です。

つまり、思考は人それぞれが全く違うように持っているのだが、『人が考える事を自分でも考える事ができる』という性質です。

つまり私自身が『イェッセは日本にいる』ということを考えることと、みなさんが『イェッセは日本にいる』と考えることは、もちろん全く違う要素も含まれているのですがが、『同じ考えである』ということができます」

イェッセ氏は思考というものは、「自分の中に存在するものと他者の中に存在するものは同一である」と述べる。

同一であるということは、自由自在に共有することができるということ。

次に「思考」と「感情」の違いを説明した。

イェッセ

「また、別のことを考えてみたいと思います。

例えば、みなさんがユトレヒト教会(オランダの代表的な教会)の塔の上に立って、その高さに怯えているという状況を想像してみてください。

それに対して私は東京スカイツリーのてっぺんに立ちます。

私も高いところが苦手ですので恐怖を感じます。

そうすると、私とみなさんはよく似た体験をするはずです。

つまり、私は東京スカイツリーで、みなさんはユトレヒト教会の塔の上で、高さによる恐ろしさを感じる。

そうすると私たちは『よく似た状況にいる』ということができます。

つまり、私は東京スカイツリーの上に、そしてみなさんはユトレヒト教会の塔の上で、『高いから怖い』という体験をするわけです」

この「高いから怖い」という感情は、他者と同一のものではない。

非常に間違えやすいところではあるのだが、これらはよく似ているが、決して同一のものではないのだ。

「イェッセは日本にいる」という思考内容が意味するものは「イェッセは日本にいる」ということだけだ。

この場合には、他者と同一であるということが分かる。

感情の場合は、その人自身の中で湧き起こるものであり、それを完璧に(一つの感情の中には多彩な表情、喜び、悲しみ、恐れなどの複雑な要素が含まれているため)なぞらえることは不可能なのだ。

そういった意味で、「感情は同一ではない」ということができる。

そして、この「同一」という要素がなければ、私たちはお互いに話をすることができない。

私たちは「同じ思考内容を持っている」という前提にある場合においてのみ、お互いに理解し合うことができるのだ。

イェッセ

「ここで二つのことが明らかになったと思います。

一つ目は、自分自身が能動的に考えなければ思考は存在しない、ということ。

このことから思考は個人的なものであるといえます。

二つ目は、思考は『ただ単に個人的なものではない』ということです。

つまり、『単なる個人的な人間を超越するものが存在する』と表現できます。

それは感情や感覚のように、真から個人的なものである、というわけはないということです。

思考に含まれる要素は、私たちの魂の中に存在するものとして、ある種奇妙な、見慣れないものだと言えます。

思考というものは単なる体験以上のものが含まれているということをこれから明らかにしていきたいと思います。

今回、私は初めて来日しました。

もし私がもともと日本にいたとしたら『イェッセは日本にいる』という考えすら持ちません。

その理由から、思考は『単なる体験以上のもの』、つまり『客観的なものである』ということができます。

この客観性が、思考というものを『単なる個人的な存在である』ということ以上の高さに引き上げるわけです。

思考の客観性を意識することにより、私たちははじめて思考に価値を見出します。

思考というのは非常に個人的なものでありながら、同時に客観的であるということが分かります。

もう一段階掘り下げると、思考は個人的な要素を通して、同時に客観的なものであるということを意識するのです。

つまり、思考の性質としての客観性というのは、個人性の中に隠されているということです。

解き放たれた客観性ではなく、個人性の中に含有された客観性という、きわめて複雑な性質を持っているということです」

このことから、思考は主観性と客観性が結びついていることが分かる。

正確に言えば、個人性(主観性)に内包される形で客観性が存在する、といった構図だ。

思考の有無について

太陽のことを喜ばしいと感じるのか、暑くて鬱陶しいと感じるのかは別にして、太陽は確実に存在する。

しかし、 思考というのは自分で考えようとしない限り、この世に存在しない。

この事実を「思考の個人的な側面」と呼ぶ。

思考は「言葉の意味が分からない」ということはあっても、思考の有無というのはいつだって明らかである。

「思考を持つ」ということは、意識していたことを言葉にするということだ。

それこそが哲学の最も本質的なことである。

イェッセ

「『思考』というのはすでに明らかなことを言葉にすることです。

これはあくまでも哲学上の話ですが。

哲学というのは、誰もが『明らかだ』と思っていることを、『改めて明らかにする』という作業です。

世の中には分からないことはたくさんありますが、誰もが当たり前だと思っていることをもう一度、きちんとした言葉に変換するということを主にやっているのです。

一見当たり前だと思っていることを、改めて詳しく見つめ直すことで、それ以前に起きていた様々な別の問題を解決するための助力になることがあります。

今回の講義は、そういった効果を目的としています」