真理へ向かう思考、善へ向かう行為。

1月の20日。
GLAN FABRIQUE inc.(大阪府茨木市)にて哲学の講義が開かれた。
これは、その4時間に渡る講義のレポートだ。
本題に入る前に、少し書き記しておきたいことがある。
それは非常に個人的なことであり、同時にこの講義の本質的な要素に触れる内容となっている。
少し長くなるので、お急ぎの方は次の写真が登場するまで読み飛ばして頂いても構わない。
これからはじまる《序文》は、本題を読み進めて行くにあたり、読者にとっての何らかの助力になるかもしれない。
そして、そうなることを私は願う。
《序文》
私は今回、この講義を受け終えて、自分の至らなさを大いに感じた。
具体的な収穫がきわめて僅かであったからだ。
つまり、私にはその内容がほとんど分からなかったのである。
私が分かったこと。
それは、会場の空気─────
雨戸から差し込む光、珈琲から立ちのぼる白い湯気、その沸き立つような芳ばしい香り、集まった人たちの小さなざわめき。
─────それらがゆっくりと会場の隅々を支配していく様子だけだった。
会場は疑うことなく白熱していた。
それは決して騒然としたムードであったという意味ではない。
そこには、「静かな難解」が満ちていた。
参加者は講師であるイェッセ氏と通訳の竹下氏の言葉にじっと耳を傾けた。
まるで、中央(舞台上の二人と数十名の参加者を挟んだところ)に漂う透明な空気に、書き連ねられていく様々な文字を我慢強く解読しているような。
それは言葉だけで星座を描くようなもので。
つまり、宙に浮かぶ星を線で繋ぐという、ある種の曲芸的な知的交信が繰り広げられていて。
私たちは決して目に見ることができないその軌道を懸命に追っているという感覚であった。
時折、言葉がしっくりと心のくぼみにはめ込まれると、淡い紅色の空気がその場に咲いた。
そして落ち着く暇なく、難解の森の中へ再び引きずり込まれる、といった形で。
終えてみると、信じ難い虚無感に襲われた。
収穫は「会場の空気感」のみ。
ソクラテスは『無知の知』と言った。
「知らないことを知っている」ということ。
それは「何を知らないか」ということが明確だからこそ言える表現だ。
私はの場合は、「分からないこと」だけしか分からなかった。
つまり、何が分からないのかさえ、分からない。
ただ、余韻として胸の高鳴りだけが残った。
敗北感とは裏腹に、身体の奥から湧き上がる熱。
この理由の定かではない火照りを信じて、私は執筆の準備へ取りかかった。
私は三日かけて講義の内容を文字に起こした。
それは50,000字を優に超えるものだった。
それでもまだ、内容については全くと言っていいほど分からなかった。
私はそれを何度も何度も朗読し、その都度、必要とあれば文章を修正した。
くり返し行われる作業の中───その体験の中で、ある瞬間、一筋の光が差し込んできた。
それは蜘蛛の糸ばかりの、ほんのささやかな光。
私はそれを慎重に手繰り寄せた。
その微かな光を頼りに、考えては文章を口に出し、文章を口に出しては考えた。
すると色々なパーツ(道具としての言葉)が整理されていくのが分かった。
そしてようやく、自分なりに腑に落ちるところまで消化するところにきた。
「作品は排泄物だ」
様々なアーティストがよく比喩として表現する言葉だ。
排泄物の内容成分が食べたものに起因するように、作品もまた「見たり、聴いたり、感じたりしたもの」によって表われる。
図々しいのも承知の上で言葉にするが、この「教養のエチュード」は私の作品だ。
見たり、聴いたり、感じたことをそのまま言葉に書き写しているわけではない(それであれば、私がやる意味がない)。
しっかりと咀嚼し、時間をかけて消化し(時には反芻し)、ようやく形になる。
今回の内容は、胃の中に入れるまでに随分と苦労した。
何度も歯を立ててみたり、細かく噛み砕いたり、時には熱を入れて柔らかくしたり、砂糖をかけて甘くしたりしなければならなかった。
しかし、ある程度の目処が立ち、ようやく記事を書き始めようという時に「この体験こそが、真理を求めることなのだ」ということに気付いたのだ。
「人生において最高なことは何かというと、永遠なる真理について考えることだ」
これはアリストテレスの言葉だ。
無意識的に、私は「簡単に理解したい」という欲求に支配されていた。
それと同時に「すぐに分かった気になる」という習慣に縛られていた。
「分からない」ということは自然なことであり、むしろ「分かった(気でいる)」ということは傲慢な態度なのかもしれない。
「分からないこと」をいかに「理解しよう」と試みるか。
一つの問題に留まって、試行錯誤を繰り返しながらじっくりと考察すること。
習慣や社会通念に捉われず、時間という括りも取っ払って、自分の力で向き合うこと。
それが「考える」ということの根本なのではないだろうか?
私はこの記事を執筆することを通して、「分からないことは非常にエキサイティングであり、有意義なものである」ということに気付いたのだ。
これは何物にも代えがたい、極めて貴重な発見であった。
「何も分からなかったあの講義」に自分なりの結論を出し、ようやく記事という形にできた(それが正しいものであるのかは別として)。
会場の空気感───それしか収穫がなかった、と私は言った。
今になって気付いたことは、その僅かな収穫こそが最も重要なものであったのだ。
それはチルチルとミチルが探しに出かけた青い鳥のように、最初の場所に立ち返った時にふと発見するのである。
私が整理した講義内容(これから先に書かれた文章)を読んだとしても、会場の空気や、肌触り、匂いといった感覚的なものは伝わらない。
あの場にいたからこそ、私は五感が読み取った繊細な感覚をヒントに到達することができた。
手掛かりは、そのきわめて細やかな要素にあったのだ。
そこで放たれた声の質感や、珈琲の黒い水面から立ちのぼる白い湯気に、重要なヒントが宿されていた。
それを直感的に───胸の高鳴りという形で、私は感じ取っていたのだ。
心の躍動、瑞々しい好奇心は実際に会場へ足を運ばなければ手に入れることはできない。
文章は、所詮、文章なのだ。
寺山修司ではないが、「さぁ、書を捨てよ、町へ出よう」。
あなたの人生における重要な発見は、あなたの五感でしか感知できないのだ。
《序文》はここまで。
さて、本題はここから───
「人間は思考する」

今回の講義はShikoku Antohroposophie-Kreisの代表である竹下哲生氏が、哲学博士であるイェッセ・ミュルダー氏をオランダから招き実現した。
実現に至る過程と講義の目的はこちらから確認することができる。
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講義は三部構成となっており、それぞれにテーマが設けられている。
一部では、「思考とは何か」について。
二部では、「自然界に存在する能力」について。
三部では、「人間の能力」について。
イェッセ氏がドイツ語で講義し、竹下氏がドイツ語を日本語に同時通訳する、といった方法で進めていく。
まずは竹下氏が挨拶をし、そしてイェッセ氏の紹介に移る─────。

〈竹下哲生氏〉
竹下
「この哲学講座は、昨年の10月頃に決まりました。
イェッセ・ミュルダー氏はオランダのユトレヒト大学で哲学を教えています。
正確にいうと大学講師という位置づけで、アメリカでは准教授としての扱いです。
ヨーロッパでは、哲学は学問における最も基礎的な部分。
つまり、何かを学び始める前に取りかかる学問です。
ですから、大学に入った時点で、全員が哲学を受講します。
ある程度以上の基礎を身につけた時、それから先に進む段階になってはじめて三つの選択肢が与えられます。
一つ目は『人と人の関係性を円滑にするための学問』、それを法学といいます。
二つ目は『人間が病にかかった時に助けるための学問』、それを医学といいます。
三つ目が最も重要で、『人間と神様の関係性を順調にするための学問』、それを神学といいます。
で、この三つの学部のことを上級学部といいます。
ヨーロッパの大学では基本的には『最初に全員が哲学を学び、その後に三つの中からいずれかを選ぶ』という形式になっています。
日本においては一番賢い人が専攻する学問という位置づけになっていますよね。
対照的にヨーロッパでは、哲学を学ぶことはいわゆる『基礎の基礎』なんですね。
家を建てる前に基礎をつくるのと同じように、全ての学問の最初にあるものが哲学という位置づけです。
比喩的に言うのであれば、哲学は決してショートケーキのイチゴではなく、スポンジの方です。
そのような意味で、今日はイェッセ氏に哲学の話をして頂ければと思います」

〈イェッセ・ミュルダー氏〉
イェッセ
「これからお話するのは『哲学とは何か』ということです。
私自身が体験している『哲学とは何か』というものを説明させていただきます。
本来、哲学とはきわめて簡単なものなのです。
それは『何かについて思考する』ということ。
そして思考するということは誰もができることなのです。
そのような意味において、みなさん全員が哲学者だといっても間違いはないのです。
しかし、人生においてしばしばそのようなことが起きるのですが、一見簡単そうに見えるものに限り、よくよく見てみると難しいということが分かります。
今日の講義では三つの段階があります。
三つの段階を通して、哲学というものがいかに深いものであるかということをみなさんにも体験していただきたいと思います。
まず第一部において、『思考とは何か』ということについて明らかにしていきます。
思考には二つの側面があるという話です。
思考というのは一方において、非常に主観的な、極めて個人的なものであるということ。
そして、もう一方において、思考というのは非常に普遍的で、そして客観的なものであるということです。
第二部に入ると、今度は思考というのはとりあえず脇において、人間以外の自然の世界では何が起きているのかということを見ていきます。
そこでの問題は、『自然界にはどのような能力が存在するのか』ということです。
そして第三部においては、他の二つを総合し、『人間の能力』について検証していきたいと思います」
《第一部~思考とは何か~》

イェッセ
「それでは、非常に簡単なところからはじめていきたいと思います。
例えば、私たちが何かを考えてみるとします。
私はこの木曜日に初めて日本に来たわけなんですが、空港に到着して、『私(イェッセ)は日本にいる』ということを考えました。
その思考が持っている意味というのは自分自身にしか意味がないことです」
「イェッセは日本にいる」という具体的な思考を例に、「思考」というものがどのような役割を持っているのかを明らかにする。
「イェッセは日本にいる」という思考は様々な要素と結びつくことができる。
イェッセ氏の予定や望みや感情などのあらゆる要素と。
そのような意味で、思考は個人的なものであるということが分かる。
イェッセ
「しかし別の側面から見ると、みなさんも同じことを考えることができます。
つまり『イェッセは日本にいる』ということを考えることができるということです。
つまりみなさんはイェッセがここにいることを見ることができるし、イェッセの声を聴くことができます。
ところが、『イェッセは日本にいる』というその思考内容が持っている意味というのはイェッセ本人とは違います。
みなさんにとって日本という国は決して知らない国ではないからです。
つまり私とは違う形でみなさんは『イェッセは日本にいる』ということを自分の魂と結びつけているのです。
なぜならば、それはみなさんの中で起きていることだからです。
これが思考の持っている特性です。
つまり、思考は人それぞれが全く違うように持っているのだが、『人が考える事を自分でも考える事ができる』という性質です。
つまり私自身が『イェッセは日本にいる』ということを考えることと、みなさんが『イェッセは日本にいる』と考えることは、もちろん全く違う要素も含まれているのですがが、『同じ考えである』ということができます」
イェッセ氏は思考というものは、「自分の中に存在するものと他者の中に存在するものは同一である」と述べる。
同一であるということは、自由自在に共有することができるということ。
次に「思考」と「感情」の違いを説明した。
イェッセ
「また、別のことを考えてみたいと思います。
例えば、みなさんがユトレヒト教会(オランダの代表的な教会)の塔の上に立って、その高さに怯えているという状況を想像してみてください。
それに対して私は東京スカイツリーのてっぺんに立ちます。
私も高いところが苦手ですので恐怖を感じます。
そうすると、私とみなさんはよく似た体験をするはずです。
つまり、私は東京スカイツリーで、みなさんはユトレヒト教会の塔の上で、高さによる恐ろしさを感じる。
そうすると私たちは『よく似た状況にいる』ということができます。
つまり、私は東京スカイツリーの上に、そしてみなさんはユトレヒト教会の塔の上で、『高いから怖い』という体験をするわけです」
この「高いから怖い」という感情は、他者と同一のものではない。
非常に間違えやすいところではあるのだが、これらはよく似ているが、決して同一のものではないのだ。
「イェッセは日本にいる」という思考内容が意味するものは「イェッセは日本にいる」ということだけだ。
この場合には、他者と同一であるということが分かる。
感情の場合は、その人自身の中で湧き起こるものであり、それを完璧に(一つの感情の中には多彩な表情、喜び、悲しみ、恐れなどの複雑な要素が含まれているため)なぞらえることは不可能なのだ。
そういった意味で、「感情は同一ではない」ということができる。
そして、この「同一」という要素がなければ、私たちはお互いに話をすることができない。
私たちは「同じ思考内容を持っている」という前提にある場合においてのみ、お互いに理解し合うことができるのだ。
イェッセ
「ここで二つのことが明らかになったと思います。
一つ目は、自分自身が能動的に考えなければ思考は存在しない、ということ。
このことから思考は個人的なものであるといえます。
二つ目は、思考は『ただ単に個人的なものではない』ということです。
つまり、『単なる個人的な人間を超越するものが存在する』と表現できます。
それは感情や感覚のように、真から個人的なものである、というわけはないということです。
思考に含まれる要素は、私たちの魂の中に存在するものとして、ある種奇妙な、見慣れないものだと言えます。
思考というものは単なる体験以上のものが含まれているということをこれから明らかにしていきたいと思います。
今回、私は初めて来日しました。
もし私がもともと日本にいたとしたら『イェッセは日本にいる』という考えすら持ちません。
その理由から、思考は『単なる体験以上のもの』、つまり『客観的なものである』ということができます。
この客観性が、思考というものを『単なる個人的な存在である』ということ以上の高さに引き上げるわけです。
思考の客観性を意識することにより、私たちははじめて思考に価値を見出します。
思考というのは非常に個人的なものでありながら、同時に客観的であるということが分かります。
もう一段階掘り下げると、思考は個人的な要素を通して、同時に客観的なものであるということを意識するのです。
つまり、思考の性質としての客観性というのは、個人性の中に隠されているということです。
解き放たれた客観性ではなく、個人性の中に含有された客観性という、きわめて複雑な性質を持っているということです」
このことから、思考は主観性と客観性が結びついていることが分かる。
正確に言えば、個人性(主観性)に内包される形で客観性が存在する、といった構図だ。
思考の有無について。

太陽のことを喜ばしいと感じるのか、暑くて鬱陶しいと感じるのかは別にして、太陽は確実に存在する。
しかし、 思考というのは自分で考えようとしない限り、この世に存在しない。
この事実を「思考の個人的な側面」と呼ぶ。
思考は「言葉の意味が分からない」ということはあっても、思考の有無というのはいつだって明らかである。
「思考を持つ」ということは、意識していたことを言葉にするということだ。
それこそが哲学の最も本質的なことである。
イェッセ
「『思考』というのはすでに明らかなことを言葉にすることです。
これはあくまでも哲学上の話ですが。
哲学というのは、誰もが『明らかだ』と思っていることを、『改めて明らかにする』という作業です。
世の中には分からないことはたくさんありますが、誰もが当たり前だと思っていることをもう一度、きちんとした言葉に変換するということを主にやっているのです。
一見当たり前だと思っていることを、改めて詳しく見つめ直すことで、それ以前に起きていた様々な別の問題を解決するための助力になることがあります。
今回の講義は、そういった効果を目的としています」

イェッセ
「一つ例をあげます。
イルカという生き物がいますね。
さて、イルカはどういった生き物なのでしょうか?
イルカを『魚だ』ということもできれば、なかなかその実態がよく分からなかったりします。
何なのかということを突き止めようとすると、詳しく見ていかなくてはなりません。
まずは海に行き、イルカを捕まえてきて、色々調べているうちにだんだん『どうもこれは魚ではないぞ』ということが分かってきます。
これを生物学といいます。
細かく調べていくことで、分からなかったことが明らかになる。
私たちがやっている哲学の場合には、イルカを捕まえてくる必要はありません。
そもそも対象が『思考』なので、もともと自分の中にあるものを研究すれば良いだけなのです。
つまり、『思考』によって『思考』を明らかにしているのですね。
思考というのは私たちにとって、あまりにも当たり前のものです。
それゆえ、見過ごすことが多いとも言えます。
全ての人間は考えることができるし、表現を変えれば『哲学的な問題の只中にいる』とも言えます。
重要なことは、私たちが思考との適切な関係性を築くことです。
そのようにして考えていくと、少しずつですが『真理とは何か?』ということが明らかになってくると思います。
真理とは何か?
それは、思考が向かう目標です。
思考がどこに向かうのか、若しくは思考がどこに導かれていくのか、というと、それは真理へ向かっているのです。
このような形で『思考する』ということを観察していきます。
そして、そうすることに意味がある、ということを知って頂きたいと思います。
そのようなところで、第一部を終わります」
《第二部~自然界に存在する能力~》

第二部では、「水、バラ、ウミワシ」に焦点を当て、自然界のものが持つ能力を明らかにする。
その手法はきわめて哲学的で、思考の中に含まれているものを「改めて光の下へ置いてみる」といった工程で。
つまり、思考の中に存在している様々な要素というのを改めて明確にするということ。
「能力とは何か」ということを明らかにし、その延長線上にある「思考能力とは何か」ということに迫るための準備を整えた。
イェッセ
「それでは、さらに『思考とは何か?』の向こう側の領域へと進んでいきましょう。
第二部では、自然界を見渡してみて、異なる様々な能力について見ていきたいと思います。
例えば、水というもの一つをとってもたくさんの能力があることが分かります。
水は氷ることもできるし、蒸発することもできるし、あるいは塩を溶かすこともできます。
これらは全て水が持っている能力です。
この水の持つ能力というのは非常に普遍的なものだというとができます。
また、水が能力を発揮するのは、水が特定の環境に置かれた時です。
今手に持っている水(コップの中の水)は、氷ることができますが、今すぐには氷りません。
なぜならば、その条件を満たしていないから。
次に、この水を冷凍庫に入れてみてはどうでしょうか?
もちろん凍り始めますよね。
つまり、水の持っている能力が実現されるためには、水がどのような環境に置かれるのか、ということが重要になってくるのです。
例えば、この水を冷凍庫の中にしばらく入れておくと凍ります。
それを元の場所に置いておくと、また元の水に戻ります。
そしてそれをもう一度冷凍庫に入れると凍る。
何が言いたいのかというと、そのような形で『能力というのは繰り返すことができる』のです」
水における変化には適切な環境が必要となる。
例えば、水を鍋の中に入れ、コンロの火にかけると、次第に水は沸騰する。
この事実は、変化には必ず最終地点があることを意味する。
つまり、水が氷ったり、蒸発したりする変化には最終地点が存在するのだ。
これは、「能力は最終地点へ向かっている」と言い換えることができる。
また、能力が最終地点へ向かうに当たり、それを中断することもできる。
例えば、コンロの火にかけられた水を途中で離せば、「蒸発する」というプロセスを一時的に停止することができる。
この事実は、この世に存在する様々な現象において、あらゆるものがお互いに関連性を持っているということを指し示している。
そういった意味において、全てのものごとというのは、それそのものの中に「未来の要素を含んでいる」ということができる。
あるいは、様々な「状態」を結び付けているものが能力だともいえる。
水から氷の状態を繋いだり、水から蒸気の状態を繋ぐものが能力である、ということだ。
・水は様々な能力を持っている。
・しかし、その能力が実現される(顕在化する)のは、全て水以外の状況による。
・能力が指し示す要素は三つ───、一つ目は環境、二つ目は変化、三つ目は結果(最終地点)
イェッセ
「これらの要素は、水自身からすればどうでもよいことです。
水が氷ろうが、蒸発しようが、水自身が決めることではありません。
ところが、生物の場合は異なった意味合いが出てきます。
それでは、バラのことについて考えてみましょう。
もちろん表面的に見る限りには、バラも水と同様に様々な能力を持っているということができます。
例えば、バラは葉を出すことができるし、花を咲かせることができる。
さらには、塩酸の中で溶けることもできるし、動物に食べられることもできるし、あるいは燃やされて灰になることもできます。
すると、だんだん別の領域に話が移行しているのが分かると思います。
この中のいくつかの能力に関しては水の場合と同じく外部の影響によるものです。
しかし、それ以外はバラの本性に含まれている能力であることに気付きます」
例えば、火にくべられて灰になるという能力や、動物に食べられてしまうという能力は、バラ以外の力が働いていると言える。
しかし、葉を出したり、あるいは花を咲かせるという能力は、まさにバラという本質に属した能力なのだ。
つまり、バラには「バラ自身が持っている能力を実現させる力がある」ということを意味している。
そして、バラ自身の法則性を実現したがゆえに、バラは存在しているともいえるのだ。
これはまさに一般的な生物学者が研究していることである。
バラには種があり、そこから芽が出て、双葉になり、そして茎を伸ばし、葉が出て、蕾になり、花を咲かせ、受粉して実をつけ、それがまた種となり……といったような円環(サイクル)がある。
そのような意味において、バラの能力は何かというと「何度も何度も繰り返し、自分自身を生み出す能力だ」ということができる。
もちろん状況によっては、それがうまく機能しないこともある。
バラの外で起きていることが、バラ自身にとって都合が悪ければ、このサイクルは平常通りには働かない。
だが、水にはそのようなことは当てはまらない。
なぜならば、水にはそのような「間違い」が存在しないからだ。
水において、「正しい状況」「間違った状況」というものはない。
凍ろうが、蒸発しようが、床に飛び散ろうが、それは水にとっての間違いではないのだ。
イェッセ
「これはバラだけでなく、全ての生物において言えることなのですが、つまり現在何かが起きている時に、『次に何が起きるのか』ということを問うことができるのです。
いかなるフェーズ(段階)においても、次のフェーズについてのことを問うことができます。
なぜならば、全ての発達段階において、次の段階が存在するからなのです。
『バラの花が咲く』という状況は、偶然そこに起きているというのではなく、バラという生物自身がそこへ向かって変化してきたことなのです。
そのような形で、生物は次のステップ、次のステップと進み、最終的に元の位置に戻ってくるという、円環を閉じるような働きをします。
例えば、『どうやってバラは花咲くのだろうか?』という問いにこう答えることができます─────『それはまた花咲くため』、と。
そのような意味において、生物一般の持つ能力というのは、『再び自分自身を生み出すために存在している』と表現することができます」

イェッセ
「例えば、『水は何か?』ということを明らかにしようと思えば、他の『水』という物質を見ていかなくてはいけません。
しかし、『バラ』を研究したいと思った時には、他の『バラ』をずっと見ていても仕方がないのです。
なぜなら、バラは成長する中で、バラを構成している物質は全て成長しているからです。
つまり、生命を持たない領域では、物質は単なる物質に過ぎないのですが、生命を持つものにおいては『生物を構成している物質』は単なる素材に過ぎないのです」
つまり、バラというのは「種が成長し、芽を出し、茎が伸び、蕾になり、花が咲き、また種ができる」という一つの円環として存在している。
その一部分だけを取り出して「バラだ」というのは間違っていて、この一つのサイクル全体を「バラだ」と表現する方が適切である、とイェッセ氏は語る。
種からはじまり、次の種までの営みまでを一つのバラとして認識するのが正しいということである。
続いて、「バラそのものが能力を発揮する上で、どのような役割を果たしているのか」ということを明らかにする。
例えば、バラの花が咲いていたとして、その「花咲く」ということをしているのは誰なのか?という問題である。
バラ全体が咲いているのか、若しくは枝から先が咲きているのか、あるいは蕾が咲いているのか。
もちろん、どの言い方も間違っていない。
ただ、地面から生えている茎をハサミで切って、花瓶に挿したとしてもバラは咲く。
このことから「花咲く」という能力はその植物全体に依存しているわけではないことが分かる。
そこからイェッセ氏は、さらに動物に関する考察へと移った。
イェッセ
「みなさん、ウミワシという鳥をご存知ですか?
ウミワシもまた植物と同様に、様々な能力を持っています。
例えば、『魚を獲る』という能力です。
ここで「誰がバラを咲かせているのか?」という問題と同じようにウミワシのことも考えてみましょう。
つまり『魚を獲っているのはウミワシなのか?』ということ。
細かくいうと、ウミワシ全体なのか、それともウミワシの一部なのか。
この質問に『ウミワシの爪が捕まえているんだ』という人はいないと思います。
そして、ここで新たな要素として『ウミワシの意識がやっていることなのだ』ということができます。
なぜならば、ウミワシが魚を捕まえるためには、そもそも『ウミワシが魚を見つけている』ことが必要だからです。
つまり、視覚が機能をしていること、次に『魚を獲りたい』という欲望がウミワシの中にあることが必要となります」
ウミワシが「魚を獲る」時、一つ目に知覚、そして二つ目には欲望(欲求)が機能する。
これは、単なる物理的な現象ではない。
もちろん、ウミワシによく似た模型を使って、それを飛ばして魚を獲らせるということもできるだろう。
しかし、それがウミワシの「魚を獲る」という行為と同じだとは言えない。
なぜなら、ワシの模型はただ単に外からの力で動いているに過ぎない。
つまり動物というのは「存在全体が機能することにより、発揮される能力がある」ということが明らかになった。
イェッセ
「ウミワシ一つにしても、魚を発見して、その知覚を通して、『魚が欲しい』という欲望が芽生え、それを食べることにより、快が生まれ……。
そのような一連の体系を通して、動物というのはそれ全体として自分自身が一つの閉じられた存在であるということが分かります。
例えば、それは『脳がやっている』ということは言えないはずです。
なぜなら、脳が知覚するためにはまず目が必要になってくる。
目で発見して、脳があって……という。
目だけでないにしろ、嗅覚だったり、つまり様々な形で体の全ての部分が必要となるのです。
これは現代の脳科学が持っている傾向なのですが、いわゆる『意識という概念』を全て脳の働きによるものだと結論が。
脳を研究することを通して、脳以外の様々な器官が意識というものをつくり上げているということを見失ってしまっているのです。
『動物全体が一つの閉じられた存在である』ということは『個体である』と言い換えることができます。
動物において、個体という概念が非常に重要になってきます。
今日、ここまでに出てこなかった概念です」
例えば、目の前に数匹のウミワシがいるとして、それを数えることはとても簡単だ。
見た時に、明らかな「ウミワシ」という形態を持っていることに加え、その存在が自分自身の意識を持っているということを通して、「これは一個の存在である」ということができるからだ。
ところがウミワシそのものの中にも、バラが持っているような一般的な生物の能力がある。
例えば、魚を腹の中で消化したり、あるいは羽毛が育ったり、毛が生え変わったりすること。
これは生物としての自然の働きで、意識を持ってやっているわけではない。
無意識の中で起きていること、つまり生物学的なバラに非常に近い要素だといえる。
《第三部~人間の能力について~》

第三部では、人間はどのような能力を持っているのか、そしてその能力を通して世界とどう関わっているのかに迫る。
その前に、一般的な概念と、具体的なモノを整理する。
今まで登場してきた「水、バラ、イヌワシ」は一般的な概念として述べられてきた。
そしてそれは、具体的な目の前にあるコップの中の「水」であったり、庭に咲いている「バラ」であったり、誰かが手なづけている「イヌワシ」にも応用ができる。
具体的な「犬」───例えばペットの犬を抽象化すれば、一般的な犬になる。
抽象的な概念としての「犬」を、クローズアップして自分の飼っている「犬」に具体化することもできる。
英語で表現すれば分かり易い。
一般的な「犬」はdogであり、具体的な「犬」は定冠詞を付けたthe dogという形で表現できる。
一般と具体。
まさにこの「一般的な概念」というものが、「思考」と深く関係しているのだ。
思考というのは「一般的な概念」を結びつける働きがある。
イェッセ
「今から私たち自身、『人間』を観察していきたいと思います。
私たち人間も、動物と同じように何かしらの変化をもたらすことができます。
日々の営みにおいて、私たちは大なり小なり様々な変化を起こしながら過ごしています。
それを私たちは『人間的な行為』と呼ぶことができます。
私たちが動物と同じように意識を持っているのは事実です。
しかし、その要素が動物と人間では違うのです。
動物と違い、私たちは自分で何をしているのか知っています。
別の表現を使うのであれば、私たちは『概念に基づいて行動する能力を持っている』ということができます。
まさにここにおいて、ようやくR.シュタイナーの名前が出てくるわけですが、彼の書籍である『自由の哲学』の中で「人間は概念の中から行動する存在である」という重要な要素が出てきます。
まず私たちはこれに関して、非常に簡単なところから明らかにしていきたい