言葉と音色と哲学と。
先日、JR八尾にある店───CafeBarDonnaで広沢タダシさんのライブが密やかに行われた。
10坪少しのこじんまりとしたBar。
20人あまりが椅子を寄せ合って、広沢さんのつくる時間と空間、つまり《広沢タダシの世界》を共有した。
ちらちらと光る蛍が集団になると、次第に発光のリズムを同調させていくように、広沢さんの歌に合わせて観客の呼吸が一つになっていく。
透き通るのような歌声が肌の上でとけて、そのまま心の奥底までしみわたる。
それは密やかに、そして、こよなく淑やかに。
まるで空から雪が舞い降りるように、心地良い速度で。
「感動」だとかそんな陳腐な言葉では言い表すことはできない。
もっと複雑で、もっと難解なもの。
歌声が胸に届く。
すると一人一人の記憶の扉、そこにあるスイッチが押され、頭の中で流れ出す光景。
その瞬間、私たちは彼の音楽を聴いているようで、自分の中の物語と対面する。
このスペシャルな体験は観客の記憶に新たな記憶として刻み込まれ、そして永遠に流れ続ける。
それは個人に流れる物語。
そして体験の共有は、人に奇跡を信じさせることになる。
ニューアルバム『Siren』の創作秘話から、歌詞の世界、そして表現の秘密までを語りつくした一時間。
【広沢タダシ】
大阪出身のシンガーソングライター。
クラシックギタリストの父とピアニストの母の元で育つ。
1999年、インディーズでリリースされたCD「シロイケムリ」が口コミで評判となり、 FM802チャートにおいてインディーズ初の
上位ランクイン。
2001年7月に『手のなるほうへ』でメジャーデビュー。
自身の物語───その変遷の中で、スクラップ&ビルドを繰り返す。
《Siren》
昨年10月4日、アルバム『Siren』はリリースされた。
このアルバムは二つの点で今までの楽曲とは大きく異なる。
一つ目は、ロンドンでレコーディングされたという点。
そして二つ目に重要な点は、プロデューサーであるクマ原田の存在だ。
嶋津「今回、ロンドンでレコーディングをされたという話ですが、きっかけのようなものはあったのでしょうか?」
広沢「デビューして15年になろうかという頃、2014年に『月の指揮者』というアルバムを出したんですね。その後に困惑のようなものが生まれたんです」
嶋津「困惑、ですか?」
広沢「えぇ、『月の指揮者』という作品は、ある意味で完成されたものだったんです。『あぁ、できた』という。それは今までアルバムをつくってきた中で得てきた達成感とは違う。もっと大きな、僕の人生という視点から見た『できた』という感覚です」
嶋津「ある種、一つのステージを登り詰めてしまったような」
広沢「僕は自分の人生をかけて───つまり見てきたもの、感じたものを昇華させて曲にしてきました。人生の中で大きな出来事があり、それを書くといったような。そのような意味でも、大きなものを乗り越えたアルバムだった。だから余計に『次どうしようかなぁ』というのがありました」
嶋津「アーティストとしても、また広沢タダシという個人においても、『月の指揮者』はある意味で完成系となった。そして、次の段階への足がかりを探していたところだった、と」
広沢「そうなんです。『これ以上大きなことって何があるんだろう?』って。それはもちろん僕の中でね。メジャーデビュー15周年ということもあり、何かを『出した方が良い』という気持ち、また『出したい』という想いもあった。それで『真夜中の散歩』というアルバムを出しました」
嶋津「はい」
広沢「色々工夫してね。普段はレコーディングスタジオで録るのですが、自宅に機材をたくさん買ってきて。MDRだとか昔のヴィンテージの機材を使ってね、マイクを立てて、ドラムを録ったり。手作りのような感じで。とにかく自分を刺激しようと思ってね」
嶋津「時代が急速にデジタルに向かっている中、反対側へ向かうような制作ですね」
広沢「プロ・ツールスというレコーダーがあって、それが今の世界基準の機材なのですが。それで録るとね、全部同じ音がするんですよ。確かにきれいだけど、どのアーティストが録っても同じ音になる。それが『なんだかつまらないなぁ』と思って。そこに揺さぶりを入れたいなぁと思ってアナログの方へ」
嶋津「MDRだとやっぱり音が違いますか?」
広沢「全然違います。それに、とても不安定になります。同じテンポに合わせたはずなのに『あれ、何かズレるなぁ?』と思ったら、録る度に毎回テープの速度が違うんですよ」
嶋津「ある種の偶然性というか、そういうものも取り入れて楽曲づくりを」
広沢「はい。きわめて曖昧な機械で。それがまたいいところなのですが。そうやって半ば絞り出す感じで『真夜中の散歩』を出し、15周年を迎えました。でね、余計に『じゃあ、次はどうするよ』って。何でも良いならもちろん作れます。音楽的に成立することはできる。でも、自分の魂が『できた』ということにはならない」
広沢「ここで何かを変えよう、と。『人にプロデュースをしてもらったらいいんじゃないか?』という発想になって。それまではずっとセルフプロデュースをしてきたんですね。デビュー当時(東芝EMI)はプロデューサーがいましたが、それは最初の二枚だけで。それ以降は一人でやってきました。今回は、僕ではない誰かにやってもらおう、と」
嶋津「新しい広沢タダシを発見する旅に」
広沢「色んなプロデューサーと話をする中で、一番ハマったのが今回プロデュースしていただいたクマ原田さんなんです。オモシロイ人で。ヘンなことを言うというか、Jポップのセオリーではない、クレイジーなものの見方をする。あの人の感性には一般的な日本の音楽業界とは大きな違いがあった。とても自由だったんです」
嶋津「はい」
広沢「例えば日本では、Aメロ→Bメロ→サビがあって、それと同じことを二回繰り返して、間奏がありオチサビのようなものがあり、途端に静かになって、最後のサビがドーンっていうので終わる、という。曲の構成として、こういったセオリーがあるんですね」
嶋津「確かに言われてみれば、そういった形のPOPSをよく耳にします」
広沢「それって何十年も前からあって、未だにメジャーにいくとアーティストはそれを教えられるんですよ。アップデートが止まっているような気がしてならない」
嶋津「ある意味、教科書をなぞるという行為ですね」
広沢「そうです、過去のヒット曲をなぞるみたいなところがあって。それが日本の音楽業界ではガラパゴス化しているんですよね。海外にいくと余計にそれが際立つ。きっとね、日本のプロデューサーたちも気付いているとは思うんです。でも、そこに揺さぶりをかける人は少ない。シフトチェンジには当然リスクがついてきます」
嶋津「クマ原田さんはもともと別の環境にいたからそういった縛りはなかった、と」
広沢「そうなんです。彼はロンドンに住んでいて、日本の様式とは全く別の位置にいる。彼の独特の感性の他にも、そういった背景も要素の一つにあると思うのですが、とにかく自由だった」
嶋津「それで、会いにいった、と」
広沢「はい。もともと東芝EMI時代の同期に高宮マキさんという素晴らしいアーティストがいて。彼女を介して何度か一緒にお食事をしたり、お話をしたりすることがありました。その時はそれだけだったのですが、『じっくりと話をしてみたいなぁ』という思いがあり、一度ロンドンへ遊びに行きました」
嶋津「はい」
広沢「クマさんの家に行き、朝から晩まで話をして。もちろん音楽の話もしますが、ワークショップや教育について。また、政治の話だったり。音楽とは一見関係がないような話をずっとしていたんです。それがとにかくオモシロかった。なぜクマさんがロンドンに来たのか、その行動力や発想も興味深かった。心から『あぁオモシロイなぁ』って。この人と一緒にアルバムをつくったら新しい扉が開けるかもなぁ、と。それで『一緒にやってくれますか?』とお誘いして、実現した」
嶋津「確かに広沢さんも日本では異種の匂いがしますものね。クマ原田さんとは肌が合った、という感じでしょうか。広沢さんの言葉を借りれば、セオリー通りのタイプではないプロデューサー」
広沢「そうです。そのようなきっかけを求めていた時期にちょうど出会った。振り返ってみれば、そこには『日本人ではない』というのがキーワードあったように思います」
スクラップ&ビルド
嶋津「クマ原田さんにプロデュースをしてもらったことで、作品は大きく変わりましたか?」
広沢「思っていたのと全然違う形になりました。もちろん良い意味で。一度僕のことを全部崩して欲しかった。それが実際に起こった」
嶋津「スクラップ&ビルド」
広沢「そうですね」
嶋津「『思っていたのと全然違う形』と仰いましたが、広沢さんの『思っていた形』とはどのようなものだったのでしょうか?」
広沢「向こうの音楽シーンでは、若い世代で流行しているフォークがあるんです。それはジョニー・ミッチェルだとか、ああいった昔のオープンチューニングの。つまりオールドスタイルのフォークで今のことを歌うという。若い世代はそれを結構やっている。歪んだギターと今のサウンドが合わさったハイブリットなフォークですよね。僕はそういったものをイメージしていたのですが、出来上がってみたら全く違ったww」
嶋津「良い意味で想定外」
広沢「もはやフォークですらないww」
嶋津「具体的にはどのようなレコーディング風景だったのでしょうか?」
広沢「とにかく自由なセッションでした。クマさんがいて、バンドがいて。プリプロといってアレンジを詰めていく作業があるんですね」
【プリプロ】
レコーディングする前のいろいろな作業のこと。曲のもととなるアイデアや詞を持ち寄り、それをアレンジャーやバンドのメンバーと、アイデアを展開させて膨らませたり削ぎ落としたりして形にしていく作業。
広沢「日本のPOPSの世界って結構、ちゃんとプロデューサーが作り上げて『こんな風な感じ』って出した時には、ほぼほぼ仕上がっているんですね。ミュージシャンがそれに順じて叩いたり、弾いたりという」
嶋津「はい」
広沢「そうすると90点以上のハイスコアが出ますよね。ただね、その枠からは出ない」
嶋津「ハイスコアはハイスコアだが、それ以上のものにはならない」
広沢「簡単に言えば、そういうことです。これは一般的な話ですので全部が全部そうではないという前提で話します」
嶋津「非常にナイーブな話題ですね」
広沢「『日本の音楽業界について意見を述べる』というのではなく、ロンドンの標準的な価値観とを比べるために分かり易く言っているのですが。先ほどの話に戻すと、そういった決まりきった工程においては、思った感じにはなる。ただ、そこでおしまい。それとは対照的にクマさんとやった作業というのはプリプロといっても、最初に決めているのはテンポ・グルーヴ・キー、あとは構成くらいのものなんです。実際に細かいアレンジっていうのはほとんど決めていない」
嶋津「輪郭だけ決めておいて、という」
広沢「輪郭も輪郭ですね」
嶋津「点(ドット)だけを打っておいて、という感じでしょうか?スタジオに入ってからそれを線で繋いで、さらに立体的にするという。まさに星座をつくるような感覚で」
広沢「まさに。それをスタジオに持っていって、スタジオのメンバーで聴いて。それで『じゃあ一回やってみようか』っていう感じです」
嶋津「日本の工程とは全く違うww」
広沢「実際にやってみて、その都度『ここはこうかなぁ』とクリエイトしながら修正していく。『さすがだなぁ』と思ったのが、向こうのミュージシャンの力量です」
嶋津「と、いいますと」
広沢「引き出しが多いというか。普通なら『それ違うんだよな』っていう演奏をされた時に『違う、もっとこうしてくれ』ってなるでしょ。それが無い。『それ、いいね』って。思っていた感じではないけれど、『じゃあ、今のもう一回やってみよう』っていう風に」
嶋津「個人個人を尊重している」
広沢「そうなんです。それをすごく感じた。『それは違うから、こうして!』というよりも『それ、いいね』っていう。『じゃあ、それに合うのはこうじゃない?』って」
嶋津「積み上げていく作業ですね」
広沢「そうです。『いいなぁ』っていうのが出れば、他のメンバーからもどんどんアイディアが出てくるし。すごくいいムード。そういうのが『クマさん、さすがだなぁ』と。そういう空気作りも含めてプロデューサーの仕事だから」
嶋津「日本では、といいますか、音楽業界の現状はそのような空気感というのは珍しいのですか?」
広沢「そうですね。一般論として話を極端に単純化していますが、少なくとも、ある要素においては僕の言っていることに共感してもらえる日本のミュージシャンやプロデューサーは多いのではないでしょうか。僕は日本人だし、もちろん日本の音楽業界のことは好きで。好きだからこそ『もっと変わっていけばいいのにな』という想いがあります」
嶋津「そのような空気感が日本にも入ってくると、ミュージシャン全体の底上げにもなる。ロンドンのミュージシャンは個人のもともと持っている体力といいますか、地肩が違うんですね」
広沢「テクニックよりも、アイディアの力が全然違いますね。例えば、ドラマーだけどピアノも弾けるだとか、歌がものすごくうまいとか。エンジニアだけどドラム叩いたりだとか。みんながミュージシャンなんですよ。こっちの人(日本)は、それこそ分業で『俺はこれだけ』みたいな感じ。向こうの人は誰でもそこに楽器があれば弾くし、本当に自由」
嶋津「先ほど仰っていた『思っていたのと全く違うものができた』というのは、その繰り返し(試行錯誤)の中での結果なのですね」
広沢「そう、『そっちいくの!?』みたいなことの連続ですから。思っていたハイブリット型のフォークではなかった。でも、つくっている最中は『よし、いけ!いけ!』っていう感じで。それがカッコイイんです。ダサかったらもちろんダメですよ。カッコイイのが前提で」
嶋津「レコーディングを通して、広沢さんの中でも新しい発見があった、と。求めていた刺激が」
広沢「そうですね。ドキドキしたし」
嶋津「いいですね。『ドキドキした!』って」
広沢「それが欲しかったですから。エキサイティングしました。ミュージシャンたちね、みんなが『自分の音楽だ』って思ってやっている。例えば、休憩でね、僕がトイレに行って、そのままちょっとふらっと散歩に出た。15分くらいして帰ってくるとメンバーが『できたよ』って」
嶋津「www」
広沢「『何が?』って聞いたら、頼んでもいないイントロが勝手にできていたりするんですよ。それで『どう?』っていう感じでこっちを見ている。悔しいことにカッコイイから『うん、いいね』ってなる。そういうミュージシャンたちの姿勢も僕にとってはとても気持ちの良いものでした」
嶋津「ゆとりというか、遊びの部分が重要視されている現場なんですね」
広沢「そうです。ダメだったら『ダメ』と言えば良い。そのことで彼らも全然嫌な顔とかはしない。『じゃあこっちはどう?』みたいな感じで新しいアイディアに修正する。コミュニケーションが高度というか、密度が高い。日本とは全然違いますよね。それに時間の流れがゆったりしている。『スタジオ何時まで?』とか『早く録っちゃわないと!』みたいなことが全然ない。ないけれど、仕事が遅いわけではない。とても不思議なのですが」
嶋津「お互いを尊重し合える柔軟な関係性。理想的ですね」
広沢「そうですね。でもね、10年前の僕だったらダメだったと思うんですよ。余計なことを言われたら『うるさい』って。『僕のやり方がある』という姿勢でしたからね」
嶋津「なるほど。確かにセルフプロデュースをされてきたというのは、ご自身で全てをできるっていうことですものね」
広沢「だから意見はあるんですよ。クマさんに言われたことに対して『僕だったらこうするけどな』っていうのは絶対にある。でも今回は心をオープンにして、『提案されたことは一回やってみる』というのを決めて取りかかった。それが向こうの雰囲気と次第に馴染んでいき、だんだんと音楽をつくることが楽しくなった」
嶋津「『月の指揮者』を作った後に抱いた困惑。それを解決するものがロンドンにあった」
広沢「そうですね。『ここにあるんじゃないかなぁ』と、最初は半信半疑だったものが明確になりました。ロンドンに行き、想像していなかったものができたという喜びが」
嶋津「話は変わりますが、ロンドンでの街並みだとか、風景の中では音楽が溢れていたとお伺しました。今回CafeBarDonnaという小さな場所でライブをしてくださったのも、それらの影響があったのでしょうか?」
広沢「向こうの人はみんな音楽が好きだし、『音楽を聴く』という習慣がある。また環境が整っています。ミュージシャンたちの中で、もちろんスターはいるけれど、そうではない人たちも山ほどいて。そういう人たちはライブハウスやクラブはもちろん、パブでも歌うし、路上や地下鉄でも歌う」
嶋津「街の中に音楽が息づいている」
広沢「それとね、外で歌うのにもライセンスが要るんですよ」
嶋津「そうなのですか?」
広沢「それが日常の仕事となっている。日本でいうと『路上』っていうのは若者の修行の場じゃないですか。そういう感じでもなく、ちゃんとライセンスを取得しないと演奏できない」
嶋津「そういう意味では音楽家を育てる土壌づくりとしては実に見事ですよね」
広沢「見事だし、街の人もみんな足を止めて耳を傾けます」
嶋津「ロンドン滞在中は路上だったり、パブだったりっていうのは広沢さんも足を運ばれてご覧になったんでしょうか?」
広沢「はい、行きました。路上では僕も演奏しました」
嶋津「そうなのですね!」
広沢「ライセンスはありませんでしたがやりましたww」
嶋津「反応はどうでしたか?」
広沢「ちょいちょいチップを入れてくれましたよww」
嶋津「ある意味、原点回帰というか。日本だったら絶対にできないじゃないですか。規定が厳しいっていう部分と、お客さんが集まり過ぎるっていうこともあったり」
広沢「昔やってたんですけどね、デビューしてすぐくらいの時に」
嶋津「え?じゃあ広沢さん、メジャーデビュー後に路上ライブをされたんですか?」
広沢「そうです。毎日やっていた時期があるんです」
メジャーデビュー後、CDの売れ行きが芳しくなかった時期があった。
3万枚売れたのだが、レコード会社的には「もっと売りたい」と。
事務所の人間に「ストリートでもするか?」と言われたのがきっかけだったという。
相手は発破をかけるつもりだったのだろう。
しかし広沢さんはこの言葉にカチンときた。
「分かりました。やります」
気付いた時にはそう答えていた。
「ただ、やるのであれば徹底的にやりますので」
そう言うと、東京から大阪へ渡った。
お世辞にも広いとは言えないビジネスホテルの一室を借りて寝泊まりをした。
そして、毎日路上へ足を運んだ。
一つの場所で演奏が終われば、次の別の場所へ。
毎日30~40分のステージを2、3ヵ所回った。
広沢「僕の中ではあそこ(路上)で結構得るものがあってね。その後の音楽人生の中に大きく影響した。それが大きくは二つあって。一つは『お客さんの顔が見える』ということ。もう一つは『お客さんへの届け方』っていうところ」
嶋津「はい」
広沢「それまでは群衆の前でライブをすることに『怖い』という感覚が少なからずあった。もちろん敵ではないけど、得体が知れない相手に対して演奏するわけで。『いいところを見せないと』っていう気持ちが強かった。でもね、路上ライブををすることによってお客さん一人一人と対話するような感覚になることができた。一人一人それぞれに人生があって、『こういう人が自分のライブに来てくれているんだ』ということが理解できるようになった。そうするとニュートラルに歌えるようになったんです。その経験が糧となっています」
嶋津「森全体に向かっていたのが、木の一本一本に語りかけるようになった。確かに感覚としては違うものですね」
広沢「もう一つは、お客さんに届ける方法。もちろんこちらを見て欲しいし、足を止めて欲しい。でも『こっち来て!』とか『どうですか!』とか言ったりすることっていうのは、相手の心に届かないんですよ」
嶋津「呼びかけるのでは届かないのですか?それじゃあどうすれば良いのでしょう?」
広沢「まずは自分の世界をステージにつくること。そしたら、人は『何だろう?』ってこちらに注目してくれるんです」
嶋津「声をかけるのではなく、自分の世界をつくった方がお客さんは見てくれる、と」
広沢「そうですね」
嶋津「そのような発想にはなかなか至りませんね。確かに、広沢さんと他のアーティストが出演されるステージを見に行かせてもらった時、広沢さんが登場した瞬間に空気が変わったのが分かりました。それまでに演奏していたアーティストのステージも盛り上がっていたのですが、広沢さんが登場した瞬間、空気が0になった。つまり、あれは意図的なもので。自分の世界を構築する技術だったのですね」
広沢「そうです。それを出さないと説得力は出ない。皆と同じ空気でやると、その枠の中に収まってしまう。そうではなく、自分の世界をどれだけ滲みだせるか」
嶋津「そういうのって、戦略的なものですか?また、経験からくるのでしょうか?」
広沢「経験ですね」
嶋津「ということはやはり最初の頃は『違うなぁ』とか『うまくいかないなぁ』という葛藤があったのですか?そのような体験を経て、試行錯誤の中で身につけた力ということですね」
広沢「そうです」
嶋津「非常に興味深いです。15年ぶりにロンドンで路上ライブをされた感想は?」
広沢「意外と『日本語でいいんじゃないか』っていうのはありましたね。英語にこだわらずとも、実際にはこだわっていいますが、『日本語でもいいんじゃないか?』っていうのがありまして。ちゃんと伝われば言葉は何でも良い」
嶋津「その話オモシロイですね。音楽自体が世界共通言語だと思うのですが、海外で演奏するのであっても歌詞は日本語のままでもいいじゃないか、と」
広沢「そこまで無視される感じはないし、それをどう伝えるかのアイディアはいると思うけれど。でも、音楽は一緒だと思った」
ここで私の広沢タダシ論を述べてみたい。
広沢さんは自身でも言及しているように『月の指揮者』を一つの完成系として捉えている。
私も同様に考える。
あの作品は紛れもないマスターピースである。
『月の指揮者』の歌詞カード。
その冒頭で広沢さんはこう述べている。
僕たちは夢を見るときに月を見上げます。
僕たちは涙をこらえるために月を見上げます。
僕たちは遠い誰かを想うときに月を見上げます。
そして僕たちはそこで、揺れる一本のタクトを見つけます。
タクトはゆっくりと、ひとつひとつ、音を招き入れるようにして揺れていきます。
すると音楽は鳴り始めます。
それは海よりも深く、かつて聴いた事の無い複雑なアンサンブルです。
僕が果たしてそこで何を担っているのかは分かりません。
ただ、いつだって僕が見上げると音楽が始まるので、何かに貢献しているのかもしれません。
その荘厳な音楽の一部になれていることを想像するだけで、僕はとても満たされた気持ちになります。
僕たちを繋いでひとつにしているのは、そのタクトではないでしょうか?
もしそうだとしたら、そのタクトを振っているのは誰でしょう?
そのあまりにも美しい文章に心を惹かれると同時に、月に宿された不思議な力に共鳴せざるを得ない。
この中で広沢さんは、月を見上げた時に耳にする音楽について語った。
それは月をミューズとして、つまりインスピレーションの源として認識している、ということ。
月と広沢さんが呼応した時、音楽が流れはじめる。
私は、広沢タダシというアーティストのことを、極めて「月」的な人物だと感じている。
月は天体に浮かぶ物理的な存在である一方、「ルナティック」と英訳され「狂気じみた」という意味を持つ。
また、月光は太陽のそれとは違い、静かで透明感のある光であることは共感してもらえるのではないだろうか。
それは彼の声質(あまりにも透き通り、波打つように広がり、どこまでも響き渡る)とも重なる。
太陽には生命に満ち溢れたイメージが。
それとは対照的に月には幻想的なイメージが。
これらのことから、彼の世界観が「月」的であることは、彼の音楽に一度でも触れたことのある人には分かるだろう。
月は自ら懐妊することはなく、地上の生物の生殖本能を喚びさます。
魚の孵化や、蟹たちの産卵、女性の内的な周期を司るもの。
広沢タダシの中にある静かな狂気。
それは月と呼応している。
月を見上げた時に流れ出した音楽と。
そしてステージに立つと、彼は月となり代わり、タクトを振る。
そして観客へ「音楽」という形でインスピレーションを与える。
彼はその瞬間、月そのものになっているのだ。
冒頭に私はこう語った。
「個人に流れる物語。
そして体験の共有は、人に奇跡を信じさせることになる」
これから書くことは、あまりに個人的な話だ。
ただ、この話をしないと説明ができないので、少しばかり付き合って頂きたい。
2014年、私は広沢タダシさんと出会った。
その年の5月、私は新たにCafeを開いた。
その名も「MoonCafe」。
名前の由来は妻の名から(朋子)。
そしてその年話題になったスーパームーンが中国語で「超級月亮」と書くことを知った。
そこには妻を表す「月」と私の名(亮太)を表す「亮」が。
そして広沢さんが「月の指揮者」というアルバムをリリースした。
それは単なる偶然かもしれない(きっとそうだろう)。
ただ、私の中に流れる物語は、それらを共有した相手と共に「奇跡」という形で光り輝いている。
忘れもしない2014年の11月9日の夜。
店にいると突然、広沢さんが扉を開き入ってきた。
手にはギターを持って。
その日は妻の誕生日だった。
広沢さんはカウンターの前に立ったまま、たった一人の私の最愛の妻のために歌ってくれた。
曲は「サフランの花火」。
妻の頬を流れ落ちた涙、そのぬくもりを今でもはっきりと覚えている。
それから幾度か、広沢さんの「サフランの花火」を聴いた。
曲に入る前、必ずと言っていいほど広沢さんは、この曲のことを「あまり好きではなかった」と告白する。
この曲は作曲をはじめた10代の頃に作ったもので、「歌詞の青さが目立つため、そこまで気に入ってはいない」と。
それでも、周囲がこの曲を愛してくれて、自分が手をかけずに周囲の力で次第に大きくなっていった、と。
そう前置きをし、皆に感謝を述べて歌い始める。
私にとってもこの曲は特別なもの。
それは妻の頬を伝った涙。
カウンターの前に立ち、たった一人だけのために歌ってくれた広沢さんの姿。
それらの物語が流れているから。
この物語は、一生消えることはなく、常しえに私の中に流れ続ける。
その度に私は奇跡を信じることができるのだ。
そして、広沢タダシというアーティストは私に奇跡を与えた極めて貴い存在として心の中に生き続ける。
そう、それらの物語を含め、私の中で『月の指揮者』はマスターピースなのだ。
言葉の世界
嶋津「広沢さんの声、あるいは言葉に迫りたいのですが。広沢さんの言葉は遠くまで響きながらも、輪郭がくっきりとしていますね。この表現が正しいのかは分かりませんが。何か秘密のようなものがあるのでしょうか?」
広沢「歌を歌い始めた時に、どうすれば『浮き立って聴こえるのか』ということをずっと考えていました。それは単純に『うまい』っていうのではなく。『うまい』だけでは浮き立ってこない。歌が浮き立つ人とそうでない人がいる、その違いは何だろうか。その違いをずっと考えて歌ってきたんですよ」
嶋津「声の質感でしょうか?それとも選ぶ言葉によるものでしょうか?」
広沢「声もそうだし、歌詞の場合も一緒で。人と同じではない、『自分らしいものとは何か』ということについて追及してきました」
嶋津「もはや哲学ですね。『自分とは何か?』、つまり『アイデンティティとは?』みたいな話になってくる」
広沢「そうです。そこには音楽だけではなく、様々な教養がなけれ出てこないものがある」
嶋津「僕は広沢さんの詞の世界がすごく好きで。やはり、言葉に関する特別な感情(思い入れ)のようなものはあるのですか?」
広沢「詞は大切にしています。それには僕がどうやって作詞をしてきたか、という話になるのですが。言葉をインプットするために最初に純文学を読みました。歌詞なんて二十歳になるまでまともに書いたことがなかったですから、どうやって書いたらいいのかなんて分からなくて。本を読んでその雰囲気というか、そういったものを取り入れたらどうなるだろうか、と。それこそ芥川龍之介や太宰治、安部公房なんかを片っ端から読みました」
嶋津「確かに広沢さんの詞の世界には文学の質感が滲み出ています」
広沢「メタファーという技法をその時に覚えて。隠喩ですよね。比喩を使って、物事を書いたらどうか、と」
嶋津「比喩を歌詞の世界に落とし込む」
広沢「別のことを言っているのに、実は政治のことを言っていたり。中でもイーグルスの『ホテル・カリフォルニア』はその手法の代表的な作品で。僕もそういうものを書きたいなぁ、と」
※ホテル・カリフォルニア
イーグルスの楽曲。
商業主義になった音楽業界への警鐘、麻薬、ベトナム戦争への虚無感など数々の隠喩が組み込まれていることで有名。
広沢「また、様々なシンガーソングライターにも影響を受けました。ジェームス・テイラーやキャロル・キング、ジョニー・ミッチェルなどを好んで聴きました。いずれにしても、内省的な、自分の心を見つめた歌を書きたいという想いはそこで培われたように思います。文学的な作品だけでなく、もちろんシンプルな曲もたくさんありますし。歌はシンプルなものでも核心的なものが伝わったりするものだから。そういったことを含めて、学びながら書いてきました」
嶋津「文学には内省的なエキスがもちろん含まれています。というか、そこがメインのようでもあって。でも、広沢さんの言葉の世界は、柔らかく、美しい。野暮な質問かもしれませんが、そこには何か理由があったりするのでしょうか?」
広沢「そう言っていただけて嬉しいです。例えば、『一番好きな作家は?』という質問をよく聞かれるのですが、まず最初に思い浮かぶのはパウロ=コエーリョというブラジルの作家なんですね。ご存知の方も多いと思いますが『アルケミスト』という大ベストセラーを書いた作家です。彼の作品には人間の奥深い部分が描かれている。とても深い」
嶋津「なるほど。少し納得しました。僕はパウロ=コエーリョといえば、こっちでいう宮沢賢治のような匂いがする。易しい言葉しか使っていないのに、人間の本質を見事に描く。寓話的でありながら、多様性を持っている」
広沢「無意識的には自分も知っていたが、提示されないと分からなかったような部分を表現しています」
嶋津「身体的には感じていたけれど、言葉では明確になっていなかった部分ですね」
広沢「そうです。とても深い部分に気付かされる。でも、読み終えた後は不思議なことに内容を思い出せないんです。物語の中に引き込まれていたのに、終わってみると『何が書いてあったんだろう』と。深すぎて、迷い込んでしまったような感覚です」
嶋津「簡単な言葉なのに、捉え方に多様性がある。読者の捉え方にそれぞれの独自性があって。賢治もそうですが、それこそ芸術だなぁって思います」
広沢「本当にそう思います」
嶋津「『月の指揮者』の曲を聴いた時(歌詞を読んだ時)、美しい短編小説だなぁって思ったんです。僕の中では広沢さんのことを稲垣足穂のように感じた。一篇一篇がストーリーになっていて、それこそ広沢さんが仰っていたメタファーを大切にされている。メタファーっていうのはやはり受け取り手の多様性というか、僕が聞いても重なる部分があるし、他の誰かが聞いても重なる部分がある。それを直接書けば、捉え方は一通りにしかならない。そういった点に感動しました」
広沢「嬉しいですね」
嶋津「少しマニアックなことを聞いてもいいですか?先ほども言ったように、僕は広沢さんの歌詞が好きなんですが、それらの言葉たちが曲と合わさると『ぐーん』っと押し寄せてくる。野球で例えるとピッチャーの球がバッターの手元で伸びてくるように。何て言えば良いのでしょうか?聴き手に届けるスィートスポットのようなものです。先ほど言っていた『浮き立つ』という表現のさらに細かい部分なのですが。広沢さんは感性と知性の両方で曲作りに向き合う方だと思うので、その辺りは意図的な効果を狙っているのですか?」
広沢「いわゆる、歌詞のハマりっていうことですか?」
嶋津「そうです。胸元で言葉が伸びてくる。あれ?僕が感じるだけなのかなwwそれをご自身の中で意識してされているのか、という質問です」
広沢「それは、意識してきました」
嶋津「やっぱりそうだったんだ」
広沢「今は自然にしていますけれど」
嶋津「もはや呼吸する感覚で」
広沢「一つはまず歌詞です。歌詞がまずあって、それに対してメロディをつけるというのが一つ。全てではないですが方法として。もう一つは歌の方です」
嶋津「はい」
広沢「言葉には抑揚がありますよね。例えば『僕はあなたが好きです』っていうセンテンスでも、色々な言い方がある。前の方にアクセントを置くのか、後ろの方にアクセントを置くのかで伝わり方は違う。つまり、言葉にはメロディがある。全てをイーブンの状態で発すると日本語ではなくなるんです」
嶋津「非常に興味深いお話です」
広沢「この言葉のメロディ。つまりセリフとしてのメロディと音楽としてのメロディっていうのは違うんですよね。音程も違うし、速度も違う。それを一致させるというエクササイズというのを編み出したんですよ」
嶋津「オモシロイ!やっぱりそこには戦略があったんだ」
広沢「それができるようになると相手に言葉が届くように表現できるんですよ。たとえイントネーションが違っても」
嶋津「僕が感じていたのはまさに広沢さんの術中だったのですね」
広沢「そうですね」
嶋津「僕も色々と大なり小なりのコンサートに行ったりするのですが、『とても歌がうまいのに入ってこない』っていうアーティストの方がいます」
広沢「ほとんどがそうかもしれません」
嶋津「広沢さんの歌詞は『グーン』って入ってくる。僕は考えるタイプなので、『どうしてなのだろう?』と思っていましたが、みんなはそういうことを考えずに聴いて『心地良い』という。もちろんそれで良いのですが『え?この感覚、どうして?』っていうのがずっと心にあったんですよ」
広沢「あとは発声とかそういったトレーニングによるものももちろんありますが。思うような形になるまでに10年かかりましたけどね」
オトナになるってことは、強くなることじゃない
自分が弱いってことを認めること
これは『月の指揮者』に収録されている『オトナになりたい』という曲の詞の一部である。
非常に哲学的な詞であり、私のお気に入りなのだが、さらなる言葉の世界へのヒントに迫る。
広沢「あと、歌詞を書く時にメタファーと同じように、いやそれよりも大切なんじゃないだろうかと思っているものが『逆説的な表現』です」
嶋津「パラドックスですか」
広沢「例えば『イマジン』というジョン・レノンの名曲がありますよね。『とっても素敵な曲です』と。これは大衆による一般的な意見ですよね。それを逆説的にいうと、『私はこんな曲、大嫌いです』となる。なぜかと問えば、『この曲が街に流れている時には世界のどこかで戦争が起きているから』と」
嶋津「確かに。イマジンは反戦の、つまり平和を願う歌だ」
広沢「これね、どちらも真実なんですよ。ただね、後者に気付く人はあまりいない」
嶋津「確かにそうだ」
広沢「物の見方によって真実っていうのはいくつかあって。無意識的には知っていることだけど、角度を変えて見ないと分からないっていうことは結構あって。それをなるべく見つけることができないかなぁって」
嶋津「視点を変える。平和を願う歌っていうのは戦争がないと成立しない。自由は不自由の中にある。つまり、ルールのある社会にしか生まれない」
これからのことについて。
嶋津「日本語ではない、英語でもない、っていう別世界の言葉で想い(感情や物語)を届けさせる自信はありますか?」
広沢「うーん、それはどうだろう。ただ、最終的に新聞を渡されて、それを読んで感動させるっていうところまでやりたい」
嶋津「かっこいい!」
広沢「新聞っていうのは特別良いことを書いていない。ただの情報の羅列ですよね。でも、なんかすごい感動するっていうね」
嶋津「僕ね、沖縄の歌手の古謝美佐子さんの『童神』を聴いた時に涙が溢れたんです。ウチナーヴァージョンって言って沖縄の方言そのままの言葉。全く意味は分からない。でも、何を言っているのか分かるんです。なぜか、伝わる。この辺りが、ロンドンで路上ライブをした時に広沢さんの仰っていた『日本語にこだわらなくても良い』っていうところに繋がるのかと。そこに何かヒントがあるのではないか、と」
広沢「そうですね。言葉ではなく表現力で伝える。そして最終的にはメロディは要らないのじゃないかってなってくるんですね」
嶋津「広沢さんのライブに初めて来て、異世界に引き込まれてしばらくぼーっとしていたというお客さんがいました。今、インターネットだなんだっていうことですごく便利になってきて、いつでも何処にいても見れたり、行ったつもりになれるけれど、そういった体験は直接ライブに来ないと体験できないですね」
広沢「それは全然違いますね」
嶋津「CafeBarDonnaでライブをしてくださったのは、やはりロンドンでの体験や刺激があってそういった発想に至ったのですか?何が言いたいのかというと『あんなにもこじんまりした場所で』と」
広沢「いえいえ場所の広さは関係ないです。でも、ああいった場所でライブをするのは、僕も感動する。そこには色々な出会いもある」
嶋津「今後も場所の大小に関わらず、ライブをされていくのでしょうか?」
広沢「そうですね。僕が思うのは、『日常に音楽がある』という環境をつくりたい。僕だけじゃなく、色んなアーティストがあちらこちらで音楽をやっているという状況です」
嶋津「まるでロンドンの街並みのような」
広沢「時代は急速に変わっています。今は特に待っていてもダメなのだと思うんです。音楽業界は止まっているので、自分で切り開いていかなくてはいけない。メジャーであれ、インディーズであれ、みんな方法論を持っていないんですよね。時代は変わっているのに『受け入れてくれない』と嘆いているだけ。これからはレコード会社も潰れていくだろうし、そうなると次の世代はどうやってアーティストは食べていくのか。今のところその答えはないんです」
嶋津「はい」
広沢「だからこそ今がチャンスっていう見方もできると思うんですよね。だからこそ、色々とチャレンジしていきたいですね」
嶋津「広沢さんらしい逆説的な発想だなぁ。さて、これが最後の質問となるのですが、『月の指揮者』でとあるステージに辿り着いて、ロンドンで自分を破壊して、新しく生まれ変わりました。そのさらに先のことを───これからの広沢タダシというアーティストの羅針盤の針はどこへ向いているのでしょうか?」
広沢「ロンドンへ行って、すごく物事が自由になったし、物欲もなくなった。言い換えれば、必要なものと要らないものがはっきりとしましたね。だから本当にギター一本あれば自分を表現できると思うんですね。一番大事なものはここにあるような気がして。ずっと音楽をつくることがある意味でストレスだったんです。それが『楽しいんだ』っていう再発見があった。ということは他にもきっと楽しいことはあるんです。まだ知らないだけで。そういうのがなんとなく分かった。それを一つずつ見つけていきたい。だから、ゆるやかに浮遊しながらも、ワクワクしていますね」
嶋津「どうもありがとうございました」
広沢さんは想像力だけでなく自身の体験を作品に昇華させるタイプのアーティストだ。
いかなる幸福も、さらには艱難辛苦も全て糧として力に変える。
『Siren』をつくるきっかけも、ある意味、広沢タダシというアーティストに訪れた試練だったのかもしれない。
Siren(サイレン)をローマ字読みにすると「シレン」=「試練」となる。
それは下衆の勘繰りかもしれない。
ただ、そんな遊び心を、受け手に豊かな解釈を与えてくれるのも彼だからこそ。
何より、見事にその壁(試練)を打ち破ったのだ。
破壊と再生。
スクラップ&ビルド。
これからの新たな広沢タダシが楽しみで仕方がない。
月は決して夜だけに存在はしない。
目に見えないだけで、昼間の空にも確実にそこにいる。
太陽は夜には姿を消すが、月は昼でも必ずそこに存在する。
月は夜だけのものではない。
そのような視点でものごとを観察してゆきたい。