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Green Day001

庭についての3時間。

先日、GREEN SPACEさんが主催するトークイベント『Green Day』の取材に行ってきました。

GREEN SPACEさんというのは辰己兄弟(耕造さん、二朗さん)を中心とした庭をつくる会社。

以前取材した記事は《こちら》です。

Green Dayの趣旨は、GREEN SPACEさんが「話を聞きたい」と思うゲストを招き、トークセッションをするという会です。

その中で大切にされていることが何点かあり、

・集客にこだわらない

・時間にこだわらない

・インスタ映えしないものにする

という今の時代に珍しい、閉ざされた場なんです。

参加しないと分からないものであり、「みなさん、ぜひ来てください!」というよりも、あくまで「ボクたちと一緒に話を聞きたい人はどうぞお集まりください」という独特のスタンス。

GREEN SPACEさんは庭以外のことに対するアプローチがおもしろく(もちろん庭づくりはが主軸であることは言うまでもありませんが)、常に気になる存在です。

組織内における「個」の美意識を大切にしながら、チームとしての強度といいますか、結束力や育成力を高めている。

一般的に「個」の強さだとか、濃さが増せば増すほど、共同体としてのバランスを取るのは難しくなるだろうに。

これがまた風景としての庭をデザインする(調和の力を大切にしている)庭師の方々だからこそ可能なのか。

「個」の感性を尊重しながら、チームとしての広がり、そしてまとまりを見せる、というなんとも不思議な会社なんです。

概念としての「庭」

一口に「庭」と言っても色々あって、芝生だとか、日本庭園だとか、はたまたリビングに置かれた観葉植物だとか。

植物を扱わなっくとも枯山水はやっぱり庭だし、何もない広場が「庭」だったり、行きつけのバーを「私の庭」とか呼んでみたりもする。

こう並べてみただけでも庭には色んな種類がありますよね。

この「庭」という捉え方がGREEN SPACEさんは少し違うような気がするんですね。

一般的な「庭」という概念よりも、レイヤーをもう一つ、二つ奥のところに焦点を合わせている。

だから、普通なら他ジャンルと呼ばれる文化をも、いとも簡単に受け入れたり、自然と混じり合うことができる。

彼らの中ではそれは「庭」のうちの一つなのだろうが、外から見ればとまどいを隠せない。

畑違いの僕たちが見ても良い意味での違和感があるし、何より大多数の造園関係者からすると、より強くそれは「庭」ではないと認識していたりする(きっと)。

その辺りが痛快だし、興味をそそられる。

彼らの持つ視野の広さと高さ、意志の硬さ(固さ)と、頭の柔らかさ。

ざっくり言うと、ファッションも庭だし、音楽も庭、本も庭だし、現代芸術も庭、マンガだって庭、喋ることだって庭。

周りがどう言おうが、彼らはそれを自然と「庭」の範疇で見ている。

別の枠組み(外にいる僕たちにとっての)にある「何か」とクロスオーバーした時に、彼らの「庭づくり」を瑞々しいものにする。

これは特にGREEN SPACEさんから直接聞いた言葉ではないですが、僕は思うんです。

「庭づくりよりも、磁場づくりをしている」

神社とか、屋久島とかのうねっている木があるでしょう。

彼らはそんな磁場で育った木みたいだ。

「こうなったらいいな」というのはあるのだろうけれど(もちろん)、「どうなるか分からない」中で枝を伸ばし、葉を繁らせる。

「磁場に自分を置いてみた」っていう感覚なんじゃないだろうか。

僕は彼らが、意識的に磁場を作っている風にしか思えない。

太陽と雨の恵みの下、磁場に身を置き、うねりながら自分でも分からない変貌を遂げていく一本の大木を想像する。

そして、この想像は楽しい。

それでいくと、彼らの行動全ての辻褄がいく。

時間の経過と磁場の強さが美しいうねりを与える。

そこではじめて手入れが施され、余計なものをそぎ落としていく。

「本当に良い古いものは『常に新しい』のではないか」

そう言ったのは僕の敬愛して止まない俳優二代目松本白鸚(九代目松本幸四郎)。

また、世阿弥の書いた能の秘伝書『風姿花伝』には

美しい花を咲かせ続けるには、

停滞することなく、 変化し続けなければならない。

とある。

「個」の美意識を尊重することで、共同体に新しい風が吹く。

その風がもたらす力(それを磁場と呼んだ)、偶然性までも武器にして成長していく。

「個」の影響(成長・進化)は汎化作用となり、またそれぞれの「個」に伝染する。

この作用がもたらすものは「個」だけでは成立しない。

複数の「個」がそれぞれに輝きを放ち、うねりを呼ぶのではないでしょうか。

さて、僕のGREEN SPACE論はさておき、本題へ入りましょう。

会場はGREEN SPACEさんの事務所。

バッグヤードのスペースにプロジェクターを設置し、椅子を並べて真ん中にストーブを置く。

そこに25~30名の観客が並ぶと「密室」感が出てドキドキ。

今まさに秘密会議が開かれるような胸の高鳴りが。

観客の約半数が造園関係者、他にはインテリアデザイナーや建築士、設計士、ラジオパーソナリティなど様々職種の方が集まった。

第一回のゲストは小川隼人さん。

小川隼人(おがわはやと)/庭師(Landscaper)

Ogawa Landscape Design代表

1978年京都府生まれ、神奈川育ち

カナダ、バーナビー在住

小川さんは18歳の時にワーキングホリデーでカナダへ行きました。

渡加の当初は「庭」に興味があったわけではなかったといいます。

カナダで出会った日本人の庭師との出会いが小川さんの人生を大きく変えました。

耕造「そもそも最初はなぜカナダに?」

小川「その頃、音楽が好きで。DJのようなことをしていたんですね。『向こう(アメリカ・カナダ)が本場だろう』っていうことでファッションでもテクノロジーでも最先端だと想像していて。でも、行ってみたら大したことなかった」

耕造「じゃあ庭に興味があったというわけではなく?」

小川「そうですね。暮らしているうちにお金がなくなってきて。それでとある日本人の方と出会ったんですよ。その方が造園業をしていて、そこで働かせてもらった。随分とよくして頂いて。その方(親方)はもう高齢でね、ある日僕に『後を継いでくれ』って。そう言われて感動したんですよ。日本からふらっとやってきた見ず知らずの僕にそんなこと言えますか?それで一度、修行するために京都へ行きました」

耕造「どうしてまた京都だったんですか?」

小川「『本格的にやるなら京都で修行してこい』って言われたんですね。それがきっかけで。技術をつけてからもう一度帰ってこようと思ったんです。カナダから京都造園組合に国際電話をかけて、日本へ戻るとすぐに京都の造園会社に面接に行きました。それまで庭には興味なかったんですけれど、修行をしているうちにハマっちゃって」

二朗「京都では何年?」

小川「3年ですね」

二朗「3年というのは長そうで短いですよね。今の仕事ぶり(造園だけでなく、木工や石工も手がけている)っていうのはそこで土台をつくったっていうことですか?」

小川「いえ」

二朗「じゃあ、半分以上は独学ということですか?」

小川「そうなりますね。技術というのを修行したわけではなくて、もっと感性の面で。例えば、建築物や庭など、周りのものを観たりして学んだ感じですね。あと、日本人の繋がり方とか。『こういう緑を大事にしたい』っていうこととか」

二朗「カナダの人に『京都で修行しました』っていうのは通じるのですか?」

小川「日本好きの人だったら、結構『おっ!』となりますね。でもね、そんなに大したことはないですよ。庭のことを何も知らない人に『京都でやっていた』っていうと『おぉー!』ってなるじゃないですか。そういう意味では使えなくないけれど、それが目的というか軸になってしまったらダメですよね」

京都で3年修行した、カナダへ戻った小川さんは親方の元へ戻った。

でも、継がなかった。

その話は後ほど登場する。

27歳の時、Ogawa Landscape Designを立ち上げる。

小川さんは、今2年ほど関わっているプロジェクトがある。

プロジェクト自体は5年前からはじまっていて、小川さんは途中からスカウトされた。

カナダの西海岸にある無人島。

詳しくは言えないのだが、オーナーがその島を買い、建築物や庭を作らせている。

その様子を写真と共に紹介した。

規模の大きさに客先からは感嘆の声が。

湧出した温泉で露天風呂を作ったり、巨大な岩石を施工し手水鉢にしたり。

数々の衝撃的な写真に圧倒された。

耕造「このプロジェクトのメンバーはどのように決められるのですか?」

小川「僕が選ばれたのは、とある賞を受賞したことがありまして、その時にそのことが新聞に掲載されたんですね。その後、別の温泉の仕事をしていたのですが、オーナー同士が知り合いで僕のことを調べたみたいなんです。カナダでやっている日本人というよりも、日本でしっかりと学んできた人を雇いたいという話になったらしく。それでプロジェクトに加えられました」

耕造「カナダには日本の造園屋、庭師というのは結構いるんですか?」

小川「結構たくさんいるのですが日本で経験がある人は少なく8割くらいが芝刈りや落ち葉拾い、庭造りではなくメンテナンスの人たちが多いですね」

耕造「結構多い。その人たちは一世?」

小川「ほとんどがそうですね」

耕造「カナダに行って造園のバイトをしているうちに仕事になった、みたいな感じですか?」

小川「造園をもともと、というよりもすし屋、旅行会社、カフェなどで食っていけなくなった人がガーデナーに転職するというパターンが結構あるようで。造園業というのは日本人に馴染みのある職業なんでしょうね。経験がなくても他の国のガーデナーやランドスケーパーよりも腕が良い。ただ、日本人って『庭』というと松とか梅とか、そういったイメージでやるでしょう。そういった感性でやっていけるくらいまだレベルを上がっていないという面もあります」

耕造「今の写真(プロジェクターの)を見ていると、小川くんの仕事は造園に限られた仕事ぶりではないですね」

小川「そうですね。造園、石工、建築、ガーデニング…アイディアによって木工事をすることもあります」

耕造「そういうカタチは向こうでは一般的なことなんですか?」

小川「いや、特殊ですね。向こうは、細分化というか、分業化され過ぎている。芝生は芝生、刈込は刈込、そのくらいまで細かく仕事が分かれています。でも、僕は『庭』っていうのは総合的なものだと思うから」

耕造「先ほど『ハマる』という表現をされていましたが、造園に興味を持ったのはあくまで京都の修業時代の話ですか?カナダに行った時に、日本庭園を勉強したいという気持ちが沸き起こったということでもなく」

小川「僕、物心がついたのが18歳の時だと思っているんですよ。つまり、カナダへ行った時」

耕造「自我の目覚め?」

小川「自我っていうか、アイデンティティといいますか。『私は日本人だ』、つまり『I'm Japanese』なんていう言葉、日本じゃ言う必要がないじゃないですか。向こうに行ったら『どっから来たの?』っていうのが自然の流れで。そうすると、日本のこと何も知らないなぁと思って。それから本を読み始めました」

耕造「本?」

小川「まずは歴史の本をひたすらに読んで。向こうの人に仏教信仰だとか色んなことを説明できるようになってやろうと思って。歴史の本にハマって、すると庭って結構日本的なイメージがあるじゃないですか。何か繋がるところがあるというか、単純にカッコいいなぁって思って。わびさびとか、深くは知らなかったですが『いいなぁ』って思って。それで親方の勧めで京都に行き、そこでより一層ハマって、という」

耕造「親方に憧れたっていうのは?」

小川「それもあります。ただ、学んでいくうちに我が出てくるじゃないですか。『自分のしたいこと』というのが明確になってくる。親方は日本での造園の経験はなくカナダではじめた人でした。そうするとね、ズレが出てきたりするんですよ」

二朗「ズレというのは?」

小川「日本で怒られたりすることを、向こうじゃ良いって言われたり。そういうことが続くとだんだん耐えられなくなってくるんですよ」

二朗「はい」

小川「結局、僕は親方の後は継がなかったんです。理由は、やはり日本とのギャップに違和感を覚えたから。 最初は『継いでくれ』と言われた言葉に感動して、その責任を果たさなきゃという気持ちだけだった。でも、学ぶほどに合わない。だったら自分でやろう、と」

日本での庭、カナダでの庭。

二朗「カナダで庭を作る時に、日本の庭みたいなものを想定して作るのか、カナダの庭、っていうのもよく分かりませんが、そういうものを想定して作るのか、どういう風な入り方をするのですか?」

小川「お客さんの要望次第ですね。『任せる』っていう依頼が最近増えてきていて、そうすると、日本風に作りたいっていうのはあんあまりないですね。そうではなく、日本人が作ったから、ジャパニーズガーデンって言われることはありますが」

二朗「でも、どこか日本の匂いみたいなものは出てしまうとかは?」

小川「そうですね」

耕造「日本の古庭園とか、影響を受けた庭や人っていうのはあるんですか?」

小川「うーん、出てこないですね」

耕造「え?あ、そう!」

小川「あんまり、好きじゃないとは言わないけれど、『僕が作りたい』とは思わない。『いいなぁ』とは思いますけれど。僕がその場所に行って『いいなぁ』と感じるだけであって、それを僕が作りたいのかというと、そうでもない」

二朗「それじゃあ、日本人がカナダに行って、カナダの気候にあった庭を作っているということなんですね」

小川「そうですね。日本庭園をつくりたいというわけではない。でも、お客さんはそういうのを期待していたり。日本人として生まれたある種の十字架ですよね。ほとんどの日本人のランドスケーパーはそういうのを売りにしてやっているから」

耕造「やっぱりそうなんですね」

小川「僕から言えば、『そういう変な固定観念をつけるのはやめてくれ』って言いたくなりますね。日本庭園といえば、朱色の橋があって、鳥居があって、五重塔があって。何でカナダには竹もないのに無理に中国産を入れて竹垣なんてやっているんだろう、っていうのを思います。僕には無理だ」

耕造「でもまぁ、カナダでそれをやっていたら、まだうまくごまかせるというか。それだけ日本のことを知らない人もいっぱいいるから。日本の庭師の人が海外に向けてステレオタイプの『日本の文化だ』とかいう発信の仕方っていうのがありますよね。外国の人から認めてもらいやすいから、そういう方法をとっているのかもしれませんが。そういうのってぶっちゃけどう思いますか?」

小川「日本的には良いと思う。日本庭園の売りがあってもいいし、文化だのなんだのっていうのを商売にするのも。ただ、中身がなさすぎるとやっぱりね。例えば、英語で茶道を習って、その日本人が英語で教える。8割くらい日本人 が茶道を英語で習っているんですよ。『この人たちは日本人なのに英語で教えていて、習っている』って。これって何なんだろう?って」

耕造「ええ」

小川「彼らはこれが『文化を教えている』っていう誇りをもってやっているわけだ。本家本元が推進しているっていう状況。裏千家なんかにしてもそうだし。やっぱり違和感を感じますね」

耕造「伝統工芸士の人なんかも、例えばヨーロッパとかに行って作品を作ったりする。そういうのがウケるから文化を発信するということに国をあげてやっているという印象ですよね」

小川「建築家でも何でもそうなんですが『こんな有名どころの人が』って。でもそれって違うんじゃないかなぁって思うんですよ。『やるな』とは言わないが、本職の人が認識なしにやるっていうのは恐ろしいことじゃないかなぁって思うんですね。しかも伝統を守るという体でやっているでしょう。反対のことをやっている気がする」

耕造「日本の文化というか、日本人の哲学というか。難しいかもしれないが、外国人に聞かれたら何て答えるんですか?」

二朗「おもてなし、おもてなし」

耕造「いやいやwww」

小川「ものによりますが」

耕造「そもそも日本の文化とは何なのかなぁ?」

小川「それって日本人にも言えますよね。日本人に『日本の文化』を説明するのさえ難しい。僕は相手が外国人だから、相手の文化との違いを説明すると分かり易い。英語って言うのはキリスト教の文化だから、『私たちは神を信じていない』と言っていても、必ず我々との違いが見えてくる」

耕造「違いを説明する」

小川「『何故違うんだろう?』って思いますよね。聖書でも読んで調べてみると納得することが多い。欧米人は一神教で、日本人は多神教だとか。例えば労働観の違いはそういうところから説明できる。聖書において働くことは罪と言われて、アダムとイヴが蛇にそそのかされて禁断の果実を食べちゃいましたよね。その時に神様が男には『労働の苦しみ』という罰を、女には『出産の痛み』という罰を与えた。それが彼らの根底にあるんですよ。『宗教を信じていない』という人でも、基本的にある。あちらの文化というのは、そこからできあがっている文法であったり、絵画であったりするんですね」

耕造「なるほど」

小川「日本人は労働を罰とは思わない。何故なら、八百万の神は仕事をしている。労働は苦しみではなく喜びであって、出産も『産みの喜び』という感覚なんですね。そういうのを知ると、向こうの人が5時になるとぴったり仕事を終えるというのが分かります。何故なら、彼らにとって労働は苦しみであり、罰ですから」

小川「『この人にしてあげたら自分にも返ってくる』っていう感覚は日本人だったら誰にでもありますよね。深く考えていくと、その辺りの違いが自然観に出ているんですよ。僕たちの感覚では、木の一本一本に魂が宿っていて、自然に対して気持ちいいというのがある。欧米では自然は神が作って、『人間のあなたたちが自然を支配しなさい』という義務だ、っていう。そこに扱い方の違いが出てくる」

耕造「自然に対する感覚も違う」

小川「これはずっとずっと昔から受け継がれてきたものですよね。文化っていうのはそういうものなんだと思うんです。『もののあわれ』って僕たち日本人は何となく分かるじゃないですか。でも、向こうの人は分からない。『常なるものはない』とか言ってもピンとこない。無常感という発想は常なるものの存在の裏付けなんですよね。じゃあ、常なるものって何だろうって考えた時に、共同体だとか、細かくいうと家族だとか。おじいちゃんおばあちゃんが一緒にいて、80%が農民で。そこで見てきた原風景というものがあって、それが常にあるものの中で、桜が散ったら人生に例えたり。っていうのが『もののあわれ』という歌の中のフレーズが生まれたんですよね」

耕造「無意識にまで刷り込まれた共通認識に『もののあわれ』が分かる感性がある」

小川「『我々はそういうものがあるから、石を使います』。そうやって相手との文化や価値観の違いを丁寧に掘り下げながら説明すると、結構納得してくれるんですよ。難しい感覚ですが、その思想を尊重してくれる。そういった意味では宗教や哲学の本を読んできたことが役に立っている」

耕造「確かに、そういった時間の流れの中で育まれてきたものっていうのは変えがたい。でも一様に『文化』と言っても、使う人によっては重さが違う。響きやすい言葉だから尚更そうなんだけど」

小川「現代の日本人は昔取った杵柄じゃないけれど、先祖が代々培ってきたこの感性(文化)を『商売に使いたい』と思っているだけなんですね。ただ、もっとちゃんと伝えないといけない」

耕造「確かに『日本の文化』と言う事に酔っている人ほど、外国で仕事している人への評価が高かったり、また海外で仕事をしたくてたまらなかったりする」

小川「庭と言うのは生き物を扱う仕事ですよね。庭をつくって『ハイ、完成』というものではなく、これからだんだん出来上がっていくものです。『日本の文化を世界へ』とか言っている人たちは、そう言いながらも外国で庭をつくって、そのまま(つくりっぱまし)っていうことも多い。僕としてはやっぱり面倒はみたい」

耕造「手入れの部分ですね」

小川「庭を作ったら責任っていうのができるじゃないですか。メンテナンスをしなくちゃいけなかったり。でもね、『日本文化』を謳う割りに中身のない人は平気で放ったらかしにできるんですよ。単に『外国でやりました』っていう。また、そう言うと日本人って弱いじゃないですか。そんなの文化じゃない」

耕造「日本人は特に弱いですよね」

二朗「俺も弱いよww」

小川「そこに営みがあって、引き継いでいって、みんなに理解されてはじめてようやく文化がはじまるくらいの長いスパンのはずなのに、インスタントに『日本の文化を世界に』っていう人がすごい多い。後始末だとか、継続させていくことだとか、そういうことを考えないといけない

耕造「僕は小川君に言ったけど、彼のやっていることにそこまで興味がない(海外で活躍する)っていうか。どちらかというと材料がない中でああいうものを作ったり、モロ日本っぽいものじゃなくて自然風のものをやろうとしているところに興味があるんですね。海外に行くなら、東京とか、今はもうちょっと人が見てくれるような場所でやるっていうのがメインで考えていて」

小川「はい」

耕造「ただ、日本では園芸の人たちが庭を作っているというのが最近のブームで。造園系の人って、社会に接点を作ることだったり、発信をすることだったりがあまりうまくないところもあって。だから、そういう人たちにおいしいところを持って行かれるんですね。よく雑誌とかでも、花屋さんなんかが載っているのですが、文末に『ランドスケープなども承ります』というのを軽々しく書かれていることが結構あって。僕の中で『嫌か、嫌じゃないか』というのは責任なんですよ。依頼してもらうのはお客さんなんですけど、メンテナンスや手入れも含めてやらせていただきたい。その辺りの責任が、自分の中で園芸の人との一番の違いかな、と思うんですが。経年というのは伝わりにくいもので。過去の仕事なんかを見せながら交渉したりするのですが、向こうではどうですか?」

小川「普段仕事する時は、最初に説明しますよね。『自分の作ったもの以外メンテナンスしない』っていうのと、『メンテナンス、手入れを他でやる』って言われたら仕事を受けなかったり」

耕造「他の人が手入れをするのだったら最初から断る、と」

小川「『ランドスケープだけやります』って言っても、完成してから必ず形が崩れていくのが分かるし、やっぱりつくったものには責任がある。お客さんにその感覚がないなら、作る過程を見せて説明すると、分かってくれることは分かってくれる」

二朗「手入れの概念はあまりない?」

小川「剪定というのもなかったり、透かすという概念はないですね。最近は僕たちのを見て、マネしてやりはじめているのですが。『こういう風にしたら木が長生きするよ』って説明したり、出来上がったものの経過を見て『あの木は誰がやったんだろう?』っていうところから『うちもやってほしい』という声が届くようになりましたね。カナダでは庭のない家っていうのは少ないですから」

二朗「じゃあ仕事は口コミというか、そういうのが多いんですか?そもそも今の仕事に辿り着くまではどうのよなステップアップが?」

耕造「芝刈りとか、掃除とかからはじまったんですかね?」

小川「小さい仕事もいっぱいしたけれど、まぁ、常にそれこそいつも以上のことをしようと。日本人って与えられたもの以上のことをしようっていう気持ちがあるじゃないですか」

二朗「はい」

小川「外国人っていうのは、簡単に言えば、1000円の予算でやるとしたら1000円以上のことはしないんですね。全員がっていうわけじゃないですが。でも、1000円の予算でも僕たちは1200円くらいのことをしようという思いでやるじゃないですか。特に人種も違う、文化も違う中、理解できない価値観っていうのは見せるしかないんです。自分の身を削ってマイナスになっているだけなんだけど、その先に何か伝わるかなぁと信じて」

日本への危惧。

小川「先ほどの『もののあわれ』の例えでも言いましたが、日本人の根底にあるものっていうのが日本人でさえ本当に分かっているのかどうかっていう、怪しい段階にきていると思っていて。大家族から核家族へと共同体は小さくなり、原風景は失われ、共通認識がほとんどないからイデオロギーじゃなくなってきている。まやかしになっているように思います」

耕造「結構この業界の人って頭でっかちの人が多いじゃないですか。言葉専攻というか。職人さんって世間の人から見たら『自然の恵みで、自然と共に働いている』っていうそういうイメージを持たれがちですが、意外と頭でっかちな人が多い。あんまり考え方を変えないというか。それは造園だけではなくて大工さんとか、色んな『職人さん』と呼ばれる人の中で顕著なのですが、他の業界に興味がない人、他のものに興味を持たないっていうのは日本の庭の人は特に多いと思っていて」

小川「はい」

耕造「庭が『スゴイ』と思い過ぎている。確かにスゴイのかもしれないが、それを自分で作ることができないようでは『自分』は『スゴクナイ』のに。庭はスゴイと思っているから、自分たちの仕事がスゴイ、と。それだけで押し切っているというか」

小川「僕はカナダにいるから、余計に感じるのですが、外国人だってその文化で良いものをいっぱい持っている人はたくさんいます。それを踏まえて言うと、少し話がずれるかもしれませんが、息を吸って酸素に感謝する人がいないじゃないですか。日本人って尊いものが日常にあり過ぎると思うんですよ。宗教だってそんなに『俺はこれだ』っていう信仰心がなくても、初詣にいったらみんなが手を合わせる。たとえ『神様なんていない』と思っていても、みんな並ぶんです。外人から見たら『何て信心深い民族なんだ』っていう」

耕造「その辺りの再確認ですよね。外から自分を観る、という」

こうして白熱したトークショーは幕を閉じた。

「あえて日本風の庭造りにする」ということをしない(こだわらない)小川さん。

でも、細部には日本の風が、匂いが、味わいが宿る。

それはアイデンティティ。

「カナダだから」とか「日本人だから」とか、そういう枠を壊して、本当に作りたいものをつくる。

その場所にあった、自分の感性が良いと思うものを。

それは決して行き当たりばったりではなく、日本人として緑や土に生命が宿ることを信じ、自然の心地良さとその風景の心地良さがちょうど交わる絶妙な円を描く。

見てきたもの、聴いてきた音、読んできた言葉、触れてきた質感、匂い、味わい。

そして根底に流れる共同体としての感性に敬意を示し、ニュートラルな状態で挑む。

GREEN DAY001。

思考し、言葉にし、それに耳を傾ける。

目には映らないそれらのやりとり。

呼吸するように会話する、そして耳にするその場はとても心地良かった。

第二回が楽しみだ。

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