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「考えること」について考える。

それは、誰かの「ヒント」のために。

元日の夜、私は部屋で電話をしていた。

紙にペンを走らせ、時折、コーヒーを飲む。

声に耳を傾けながら、私は一人、静かに興奮していた。

受話口から届く声───その声の主は四国にいた。

それは、あるイベントについての取材。

『人間は思考する』

そう題された講演会。

SNS上のタイムラインの中、ふと目に入ったその文字。

石が地面に落ちて、バラが咲いて、そして鳥が空を飛ぶように

想像力が自然と動き出してしまうそれらの言葉、そしてモノトーンの美しいデザインに惹かれ、iPhoneの画面をスクロールする指が止まった。

私はイベントの主催者に連絡をとった。

彼から私に、そして私から彼に、電波は繋がる。

一度目は年末、香港から大阪へ。

そして二度目は元日、大阪から四国へ。

哲学について考えた、はじめての夜。

私は、電話口の相手(彼)の言葉に聴き惚れた。

彼の言葉には迷いがなかった。

こよなく論理的で、こよなくスムースな。

淀むことがなく、尚且つ彼の口にした言葉たちには多彩な響きが宿されていた。

「頭の中に浮かんだ言葉を口に出して組み立てていく」というよりも、彼が話しはじめる前には既に文章は完成されていた

ただ、頭の中にある完成されたもの(文章)をそのまま再現しているような。

それらは音楽的ですらあった。

つまり美しかった。

思想の深さは言葉の量と比例する。

「考える」ということは言語化して整理していくことだから。

語彙が一定のラインを超えた時、言葉は玩具化する

今まで道具としての役割でしかなかった言葉が、スライドしはじめる。

自由自在に、まさに遊ぶように、言葉を扱う哲学者。

彼の名前は「竹下哲生」といった。

────以下は、電話での数十分間のやりとりである。

嶋津「『人間は思考する』という講演会についてですが、具体的にどのような内容なのでしょうか?」

竹下「東京と大阪の二都市で開催します。大阪では『誰もが哲学者』という題、東京では『ルドルフ・シュタイナーの「自由の哲学」を読む』という題で。ざっくり言えば哲学を分かり易く解説するようなものになります。それは学術的に哲学を研究されている方だけでなく、もっと広い範囲で『哲学』というものに興味を持たれた方。カントを読んだことがない方でも全く構わない、むしろウェルカムな場所にしたいと思っています」

嶋津「哲学というものを体験できる場、ですね」

竹下「はい。『考える』という個人的な行為について何らかの気付きを促しながら参加者と共に見ていきたい。今回特殊であり、同時に最もおもしろいのはイェッセ・ミュルダーというオランダ人の哲学博士を講師に招いたところです」

嶋津「どのような人物なのでしょうか?」

竹下「向こうの大学(ユトレヒト大学)で哲学を教えている講師です。講演内容をはっきりと言えないのには理由があって、彼(ミュルダー氏)がどのようなプランで進めて行くか、という点にいくらか委ねているところがあります。彼は優秀な研究員ですので、私としても非常に楽しみにしているのですが。彼の講義を私が通訳する、という形ですね。彼の言葉はドイツ語ですので」

嶋津「竹下さんとミュルダー氏の接点というのは?」

竹下「その話については、私の活動を含め、彼との出会いにまで遡ります」

嶋津「はい」

竹下「私は香川県出身なのですが、19歳の時にドイツへ渡りました。そこで神学校へ入った。司祭になるためです」

嶋津「司祭というのは、キリスト教の聖職者のことですか?」

竹下「そうです。その学校に彼がいたんですよ。同級生として私たちは出会いました。司祭になるために共に切磋琢磨した仲間で。しかし、『まさに今、司祭になる』、という時になって私は体調を崩し帰国しました。実は彼も途中で体調を崩してオランダに帰った」

嶋津「二人とも司祭にはならなかった」

竹下「はい。司祭になるつもりだったが、ならなかった。それで私は思想の方を研究するという方向へ舵を切りました」

嶋津「思想の研究と言いますと?」

竹下「私がドイツで入学したのはルドルフ・シュタイナーの助力を受けてはじまったキリスト教の学校でした」

ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner 1861-1925年) 旧オーストリア帝国出身の神秘思想家、哲学博士 ウィーン工科大学で物理学や数学などを学んだのち、ワイマール版ゲーテ全集・自然科学編の編集委員として活躍 20世紀に入ると同時に、ロシアの神秘思想家 H・ブラヴァツキーの創始した神智学運動に加わり、1912年、アントロポゾフィー(人智学)協会を設立 独自の精神科学に基づいて、哲学・思想・教育・医学・農業・建築・芸術・社会論などの分野に業績を残した

竹下「日本にもキリスト者共同体という名でシュタイナーのアドバイスを受けてはじまったキリスト教があります。私が行っていたのはその総本山のようなところで。司祭への道から思想の道へとシフトチェンジするわけですが、その時にShikoku Antohroposophie-Kreis(四国アントロポゾフィークライス)を設立しました」 

嶋津「それはどういったものなのでしょうか?」

竹下「もともとスイスに普遍アントロポゾフィー協会という国際組織があります。シュタイナーは関東大震災の2年後の1925年に亡くなっているんですね。彼が亡くなる1年ほど前に、『思想を守っていくための組織が必要だろう』ということで、彼の築き上げた思想に基づいてこの協会が創立しました。世界中に会員が4万5000人ほどいます。Shikoku Antohroposophie-Kreisはその一組織という位置づけです」

嶋津「シュタイナーの思想を継承する国際組織の日本支部のようなものですか?」

竹下「そう捉えて頂いて結構です。年に一度代表者会議がスイスで開かれます。ざっくり言えば、活動内容の報告会のようなものですね。それには私も参加するのですが、その時にオランダにも寄ることがある。そのタイミングで学友だったミュルダーと会うというのが通例になっていました」

嶋津「なるほど。お互いの近況を語り合ったり、と」

竹下「そうです。それでね、数年前に彼に『日本に来ないか?』と声をかけたことがあった。『時間がとれたらね』と前向きに答えてくれましたが、彼は教壇に立つ身でありながら研究員でもあるので、時間に余裕があるわけではない。それが昨年の10月頃に様々な偶然が重なり合って、日本に来る機会ができた。『それじゃあ、せっかくなので来日講演をしよう』と」

嶋津「竹下さんにしてみたら、随分と前から思い描いていたことがようやく実現する、といった感じでしょうか?」

竹下「そうですね。様々な縁が重なっての実現です。このような機会はなかなかありませんから。彼の講義が日本人にどのように響くのか、という辺りは非常に興味があります」

思想としてのシュタイナー。

嶋津「ということは、今回の講演会もShikoku Antohroposophie-Kreisの活動の一環として、ということですね?」

竹下「はい。ただ、今回はシュタイナーの名前を前に出し過ぎないように工夫しました。哲学を扱うにしても『ライトなものにしたいね』っていうのがテーマで。『シュタイナー』という名前を出した方が良いのか、出さない方が良いのか、というジレンマがありまして。シュタイナーの名前を全面的に出すと熱狂的なファンが反応する。人は集まりますが、それだと、限られた会になるような気がしたんです。でも、名前を出さないと人が集まらないかもしれない」

嶋津「今回の会場の入り具合はどのような感じでしょうか?」

竹下「嬉しいことに多くの方から参加希望の連絡が届きました。30名ほどが余裕をもって聴講できる会場にしたかったんですね。それが東京では早くも予定数を超えて、会場を倍以上の人数が入る場所へ移しました。大阪も空席は残り僅かです(14日現在)」

嶋津「すばらしいですね」

竹下「私としてはシュタイナーの名前を出さなくても人が集まってくれたことが嬉しかったですね。嶋津さんはどのようにして今回のイベントを知ったのですか?」

嶋津「SNSですね。広告のコピーとデザインの美しさに惹かれました。Shikoku Antohroposophie-KreisのHPへアクセスすると、これがまた美しい。デザインも、そして文章も」

竹下「ありがとうございます」

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嶋津「協会の概要としてはシュタイナーの思想を広め、継承するということですが、具体的にどのような活動をされていらっしゃるのですか?」

竹下「シュタイナー教育というものがありますよね。日本でも現在、シュタイナー学校は7つほどあるのですが」

シュタイナー教育

ルドルフ・シュタイナーが1919年にドイツで始めた教育実践。

知性だけでく子どもの心や体、精神性をも含めた全人教育を目指し、教育そのものが芸術行為であることを重視する教育。

竹下「それを学ぼうと思うと、根底にある思想の部分をしっかりと勉強しなければならない。これがなかなかややこしいところでもあるのですが、学校の先生と大学の教授などでは取り扱う知識や技術という意味において、若干、守備範囲が異なりますよね?つまり、教育学校を勉強している人と、教育を実践している人ということで、それらの間には隔たりがある。シュタイナー学校でシュタイナー教育をしている先生も結局は研修という形でどこかで学習する必要がある。それをしているのが私たち協会の仕事なんですね」

嶋津「シュタイナー学校の先生に思想の部分を教える」

竹下「それはまた協会の顔の一部でしかないのですが。私たちのやっている部分は守備範囲が広い。どちらかというと何でもあり。例えば、農家の方を相手に農業についてシュタイナーがどのような話をしたか、を話したり。また、障がい者に関わる仕事に関して言えば、彼らとの向き合い方やどのようにお世話をすれば良いのか、など。研修の時に講師で入ったりだとか。そのような広範囲にわたる思想の部分で活動をしています」

嶋津「職業というジャンルに捉われず、垣根のない関り方を」

竹下「極端な話、相手が銀行員であっても自分たちの思想で何かしらできないことはないか、っていうのはあります。アドバイスとまではいかなくとも『こういう考え方がヒントになると思いますよ』っていうのを伝えることができる

嶋津「問題提起をする」

竹下「まさに仰る通りです。哲学自体がそうなのですが、問題というのは最終的には自分で答えを出さなくてはならない。人から答えを聞こうとしても、どっちにしてもダメで。自分で考えることが大切なんですね。自分で考えてもらうために材料を提供をするというのが私たちの仕事です

 

その一つの例として《Shikoku Antohroposophie-Kreis》HP内、竹下さんの書いた記事の中に興味深い内容があった。

テーマはファッションについて。

以下、本文からの抜粋

〝衣服で自らを美しく着飾りたいと思う者は、自然とファッション雑誌を手にするのではないだろうか。何故なら芸術家でもない限り、純粋に内的な衝動から美を生み出すことは難しいからだ。こうして人間は芸術的な領域に踏み込むときに、七歳までの子どもと変わらない状況に陥る。詰まり、そこでは多かれ少なかれ「模範」に頼らざるを得ないのだ。〟

記事の中で竹下さんはこのように論理を展開させる。

衣服で美しく着飾りたい人は、ファッション雑誌の真似をする。

モデルが着こなす服を着て、自分も美しくなろうとする。

それは果たして「美しい」ということなのだろうか?

そもそもファッションモデルは一般人と比べて手足も長いし顔も小さい。

自分とは大きくかけ離れた体型のモデルが着こなす服を着て、他人はどう感じるだろう?

そして鏡に映った自分を見て、どう感じるだろう?

また服を作る側の考えも想像してみよう。

「美しい服を生み出したい」という人は、服が何よりも美しく見える状態で着飾ってもらうことを求めるだろう。

以下、本文からの抜粋

〝詰まり“日本人離れした”モデル体型とは、「それそのものが美しい」のではなくて、「美しい服を着せることが可能な選択肢が多い」に過ぎない。換言するならば、様々な服装を美しく見せる為に、マネキンのようなスラリとした体型が求められているに過ぎないのだ。〟

この場合、人のために服があるのではなく、服のために人があるという関係性が生まれる。

ファッション雑誌はまさにこの構造で表現されていて、そこに写された服を真似て、何が達成されるのか?

以下、本文からの抜粋

〝恐らく多くの人は、様々な服を着せることが出来る体型を「良いスタイル」と呼び、着る服に制限を与えてしまう体型を「悪いスタイル」と無作法に区別することに慣れてしまっているのではないだろうか。ところが、この短絡的な思考は「悪いスタイル」にも工夫次第でいくらでも美しい服を着せることが出来るという可能性を全く見落としている。音楽に於いて難しい曲を美しく演奏出来ないのは、演奏者の芸術的技能に問題が有るのであって、楽曲そのものに問題が有る訳ではない。音楽に於いては「難しい曲」と「簡単な曲」を区別することよりも、練習を通して自らの芸術的技能を向上させていくことのほうが本質的であるように、「良いスタイル」と「悪いスタイル」を見分ける能力を手に入れるよりも、自らの体型や気質に適した衣服を選択する芸術的な感覚を手に入れることのほうが重要なのではないだろうか。〟

そして、自分のスタイルの悪さを嘆くのではなく、自分の身体に合った美的感覚を磨くことの重要性に行きつく。

以下、本文からの抜粋

〝人間が機械のように規則正しく振る舞う社会には、調和はあるかもしれないが自由は無い。逆に人間に自由を認め、不協和音が鳴り始めた社会に於いては、一体何が求められているのだろうか。そこで求められているのは機械のように「間違えが無い」ことではなく、間違いや失敗をしながらも成長していくことではないだろうか。これまで述べてきたように、例えば「服を着る」という極めて日常的な領域の中にも、「芸術的な感覚を養う」という自己教育の問題を見出すことが出来る。そこに於いて人間は、成長する可能性を持っているのだ。〟

社会においての当たり前

既成概念を疑い直すことで、新しい「なぜ?」が生まれる。

立ち止まって、もう一度よく考えてみる。

すると新しいヒントが生まれるのではないだろうか?

これはたまたまファッションの話題だったが、対象を変えたとしても似たような疑問や気付きは生まれるだろうし、その構造をトレースして違う対象に視点を移し替えることや、ずらしてみたり、新たに展開させたりすることができる。

問題提起。

「考える」とは、一歩先の質問を見つけて、自分なりに答えを導き出すことなのかもしれない。

 

竹下「私たちはシュタイナーの名前を広めることが仕事ではありません。『シュタイナー思想において、これが正しい考え方ですよ』というスタンスではないんです。もちろん自分たちの中では正しいと考えているのですが、それを相手に押し付けるというのではなく、もっとニュートラルな状態で問題と向き合い、そこに生まれる何かを一緒に構築していきたい

嶋津「シュタイナーの思想を下敷きにした状態で、対象にアプローチする。正しさを押し付けるのではなく、『こういう見え方、考え方を仕事や生活に生かしてみては?』という柔軟な考え方ということですね」

竹下「そうですね。一緒に考えていけることってたくさんあると思うんです。最近ではAIの話題をよく耳にしますね。NHKで『超AI入門』という番組があったり、ディープラーニングなど色々と科学技術が世間一般にも触れる機会が増えてきています。あれはね、結局、最後の最後まで問い続けていくと『人間とは何か?』ということなんですよ。それは知性の発達というのは身体性がなければ有り得ないのではないか?ということ。それがAIを研究されていらっしゃる方々の現時点での最終的な結論ではあります」

嶋津「AIを研究することで、人間を知る、ということですか?」

竹下「頭と体の概念をロボットにどう教えるか、みたいなことで。いくらAIの『頭』が良くても『体』が存在しなければ、上下の概念を覚えさせることすら難しいんですよ。何故なら『重さ』を感じるのは知性ではなく、重力を感じる身体そのものですから。突き詰めていくと、人間の知性は身体性と結びついているっていう話になってくるんですよ」

嶋津「おもしろい!」

竹下「でもね、思想をやっている私からすれば何の不思議もない当たり前のことなんです。AIの研究をしているわけでもないのに、思想の領域と繋がってくる。というか、『ようやくここまで来たか』っていうくらいの印象です。私たちがやっていることっていうのは、最先端の研究をされている方々とも深く分かり合える気がするんですよ」

嶋津「そのような目で見ると、思想には業界だとか分野だとかといった線引きは必要ないのですね。あらゆるもの全てに要素がある」

竹下「そうです、そうです。世の中にはわけの分からないことが山ほどあるのですが、思想をやっている人間からすれば『あるよね』っていう。反対に実社会の中で、こちら側が教えてもらえるようなこともあったり、という」

私は、竹下さんとのやりとりの中で山口周氏の『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?〜経営における「アート」と「サイエンス」〜』という本のことを思い出した。

昨今、グローバルに活躍するビジネスエリートたちがこぞって美術館やギャラリーに足を運び「美意識」を磨いているのだという。

本の中で山口氏は「アート」を感性、または直感と言い換え、「サイエンス」を論理と表現した。

サイエンス(論理)の長所は意思決定を促しやすいという点にある。

論理は他者に対し、説明が安易だからだ。

対照的にアート(感性)は説明が非常に難しい。

しかし、アートの力は実にパワフルで、論理を超えたところまで発想を飛ばすことを可能にする。

時間も空間も短縮し、テレポーテーションのように異次元へと移動することができる。

どちらか一方が勝っているということではなく、アートとサイエンスの両輪が揃って、初めて絶大な効果を発揮する。

サイエンスは演繹的な方法で、アートに論理力を与えることができるし、アートはサイエンスに新たな問いを投げかけることができる。

そこから考えると、竹下さんの語るシュタイナーの思想はアートとサイエンスの両輪を持っている。

対象によって、アートとサイエンスを巧みに演じ分け、新たなヒントを創造する。

既存のコード(メロディ)にノイズを与え、発見を促す。

ノイズという違和感から、新しい何かが生まれる。

先ほどのファッションにおける考察も、ノイズを与えた結果、着る側と作る側の目的の相違を発見した。

時には別のコードを持ち出してクロスオーバーさせてみたり、それを論理的に展開させてみたり。

冒頭でも言った通り、彼は言葉を玩具的に扱い、時に美しく、時にユーモラスに対象を構築したり破壊したりずらしたり反転させたりする。

哲学というのは、そのような学問なのかもしれない。

これからのテーマ。

嶋津「シュタイナーの思想を背景に、今の時代に思想がいかに機能するのかという点から発想やアイディア、また生き方を助言する活動を続けていらっしゃるということがよく分かりました。それにあたり、竹下さんが何か心がけていることはありますでしょうか?」

竹下「私たちの運動にも繋がることなんだけど、自分の言いたいことやりたいことは山ほどあるのですが『どうやったら人に伝わるだろう?』というところがテーマですね。私は2000年前のキリスト教に関する資料を読んだりすることが日常的な、非現代的な人間なのですが、自分の考えを相手に伝える時に『今の人の意識に合わせなくちゃいけない』っていうのはあります。それで結局、僕の仕事の半分以上は『人の話を聞く』ということになります。つまり僕が先に伝える相手を理解しないと、相手は僕の言葉を理解することはないだろう、ということです」

嶋津「確かに素晴らしい考えでも、それが伝わらなければ意味がない」

竹下「そういった意味でも、コミュニケーションの力をテーマにしている部分はありますね。今回のイベント(『人間は思考する』)も幅広い人に触れて頂きたいという気持ちがありました」

嶋津「専門的でありながら大衆的な感覚を追う。非常におもしろいですね。貴重なお話ありがとうございました。当日、楽しみにしています」

竹下「はい。ありがとうございます」

哲学について考えた、はじめての夜はこうして更けていった。

竹下さんのテーマであるコミュニケーション力、それは表現力とも言い換えることができる。

私もインタビュアーとして、相手の言葉を、より広く、多くの人に伝えることができるように言葉を捏ねては、再現する。

言わば、翻訳機のような役割だと思っている。

読者が理解できる状態に組み立て直す力、それも表現力だ。

竹下さんはドイツ語から日本語に、僕は日本語から日本語に。 

程度の差はあれ、翻訳する力とそれを表現する力。

同じテーマを考えていらっしゃるところに共感を持った。

最近の時代の流れとして禅の見直しやマインドフルネスの流行における精神への関心。

また、教養に対する揺り戻しが起きていることを肌感覚で感じる。

激しく細分化する現代。

分野と分野の差を埋めたり、繋いだりす役割を教養に求めているのではないだろうか。

その時に垣根を取っ払った考え方で世の中を見渡す、竹下さんのような人物が貴重になる。

時代がちょうど、思想や哲学にピントが合ってきたような気がするのは私だけではないだろう。

「職という専門分野の向上と一般的な知識や価値観とのギャップを埋めるのが人間性ですから」

この言葉は私の敬愛する落語家、立川談志のものだが、専門分野と一般知識を繋ぐのは人間性であり、ユーモアであり、教養なのだ。

こうして私の2018年が幕開けた。

長い夜が明けたような気がする。

竹下哲生/Tezuo Takeshita(Shikoku Anthroposophie-Kreis代表) 1981 年香川県生まれ。2000 年渡独。2002 年キリスト者共同体神学校入学。2004年体調不良により学業を中断し帰国。現在自宅で療養しながら四国でアントロポゾフィー活動に参加。共著『親の仕事、教師の仕事〜教育と社会形成〜』訳書『アントロポゾフィー協会と精神科学自由大学』『アトピー性皮膚炎の理解とアントロポゾフィー医療入門』(いずれもSAKS-BOOKS)他。

 

『人間は思考する』

大阪タイトル:誰もが哲学者

日時:2018年1月20日 (土) 13:00~17:30(75分×3コマ適宜休憩)

会場:〒567-0888 大阪府茨木市駅前1丁目8−28

072-621-6953 GLAN FABRIQUE cafe百花moka

申し込み・お問い合わせ:林明子 falfara.tonda115@ezweb.ne.jp

東京タイトル:ルドルフ・シュタイナーの『自由の哲学』を読む

日時:2018年1月21日 (日) 13:00~17:30(75分×3コマ適宜休憩)

会場:青山学院大学 青山キャンパス

〒150-8366 東京都渋谷区渋谷4-4-25 総研ビル9階 第16会議室 (正門に入ってすぐ右にある背の高い茶色の建物)

申し込み・お問い合わせ:田谷美代子 hakobunedo.m@gmail.com

 

また、Shikoku Anthroposophie-KreisではSAKS-BOOKSという名で書籍の出版も行っている。

もちろんシュタイナー思想の研究と普及を目的としているのだが、最近では翻訳本の制作にも精力的だ。

昨年(2017年)には、クラウドファンディング上でアルミン・J・フーゼマン著『音楽要素から構築された人間のからだ』の出版支援プロジェクトが行われ、目標金額の200%を上回る支援を受けた。

現在もクラウドファンディングにて、気鋭の現代思想家であり音楽家でもあるヨハネス・グライナー氏の著書『ロックミュージックのオカルト的背景』を翻訳出版するプロジェクトが行われている。

内容はもちろん、装丁に至るまで、非常に芸術性の高い書籍となることが察せられる。

興味を持たれた方は是非、支援を。

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