日本から世界へ。
《Yu Ra》
本名Yury Selezenはロシア人パフォーミングアーティスト。
自身がステージに立つだけでなく、演出や構成、振付に作曲と多彩な才能を見せる。
その外見の美しさは、造形的な観点からの「美」を感じさせる。
顔だけでなく、身体の美。
その肉体に宿る知性と感性。
豊饒の才能。
《OM》
それは2017年に自身が立ち上げたカンパニーだ。
ダンス、演技、アクロバット、コントーション、バトントワリング、フラフープ…
一流の演者たちによる様々なパフォーマンス。
それらが融合しサーカスアートとして一つに。
OMの織り成す世界。
それはYu Raの頭の中にある。
パフォーマー、クリエイター、アーティスト。
それらの能力が螺旋を描き、一つの芸術を創造する。
様々な表情を見せるYu Raへのインタビューがはじまった。
“MYSTERIUM” - the House of Muse
2017年12月14日。
大阪、天王寺のOVAL THEATERでOMによるアートショーが上演される。
題名は“MYSTERIUM” - the House of Muse。
そこは"MYSTERIUM"という名の博物館。
世界各地の有名人を描いた人形が集められている。
そこで繰り広げられる展示物たちの物語。
真夜中になると、彼らは人生で最も重要な瞬間を再現しはじめる。
そのきっかけはMuse(インスピレーションの魂)だった。
終始、ノンバーバル(言葉のない表現)で展開する世界。
それはパフォーマーたちの身体表現によって観客の心に届けられる。
言葉に頼らない分だけ、演者には表現力の高さを求められる。
Yu Raはこの作品において作・演出・構成・振付・作曲・出演を務めている。
ユラ「言葉にするというよりも体や感情で表現することで何かを伝えたい。そしてお客さんもそれを感じ取れるような作品にしたいです」
嶋津「言葉は不要である、と」
ユラ「それが出来ないのであれば、あまり良いパフォーマーとは言えません」
Yu Raの創造するノンバーバルの世界。
彼の人生を通して、クリエイターとして、またはアーティストとしての哲学に迫ってみたい。
生まれながらの表現者。
嶋津「Yu raさんがパフォーマーを志すきっかけは?」
ユラ「4歳の時に器械体操のスクールに通い始めたのがはじまりです」
嶋津「もともと器械体操に興味があったのですか?」
ユラ「いえ、父の仕事の帰りに二人で通りを歩いていました。そこにたまたまそのスクールがあったんです。父は、その様子を見ていた私に『器械体操に興味があるのかい?』と尋ねました。私の答えはとても不思議なものでした。『え?いや、まぁ、うん。そうだね』という感じで」
嶋津「実に曖昧に(笑)」
ユラ「たった4歳でしたから、器械体操が一体どのようなものなのかも分からなかった。興味があるともないとも言えない」
嶋津「そのスクールに通うことになったのですか?」
ユラ「はい。ちょうど新しい生徒を募集していましたので父が応募してくれました。Gymnastic School N.1という名のスクールです。そこでは幾人かのオリンピック選手を輩出しました。私と同時に入学した生徒は50名ほどいましたが、半年後には6名にまで減っていました」
嶋津「え?そんなにも辞めたのですか?」
ユラ「柔軟やバランスなどの厳しいチェックがありました。その6名はオリンピック候補のコースへと進みました」
嶋津「ユラさんはその厳しいチェックを通過したのですね」
ユラ「そうですね。元々fullespread(180度開脚)などできていましたので」
嶋津「え?どうしてですか?」
ユラ「分かりません。なぜか、そういう体だったようです」
Yu Raは元々恵まれた身体の持ち主だったようだ。
talent(才能)は時にgifted(ギフテッド)と呼ばれる。
神から与えられた内在的な贈りもの。
彼もまた神からgift(ギフト)を受けた選ばれし者なのだろう。
嶋津「それにしても、非常に厳しいスクールだったのですね。50名が一気に6名に」
ユラ「日本ですと健康や趣味のために器械体操や新体操をしている人が多いですね。体操をしていてもプロフェッショナルにならない子が結構います」
嶋津「確かにそうかもしれません」
ユラ「日本とロシアの違いはそこにあります。ロシアではナショナルチームの選手になるため、またはオリンピックに出場するために体操をやっている者がほとんどです。自分がトップに上がることができないと分かると辞めて、別のことに時間を使うことが一般的な考えです」
嶋津「続けるということは、トップを狙い続けるということですね」
ユラ「そうですね。少なくとも今も現役で残っている選手(パフォーマー)たちはその志の中で生きてきました」
Yu Raはミュージシャンの両親の家庭に生まれた。
姉弟は5つ年上の姉が1人いる。
物心つく前から家庭には音楽が溢れていた。
父はオールマイティな音楽家で、ピアノ、ギター、ベース、ドラムとあらゆる楽器を演奏することができた。
暮らしの中には、いつも歌があり、楽器があった。
音楽に囲まれた生活はユラの奥深くまで影響を与えていた。
Yu Raもまた、身長がまだピアノの鍵盤に届かない頃からピアノに触れていたという。
リズムが身体に沁み込んでいるのは、Yu Raの生まれ育った環境によるものだろう。
〈ピアノの演奏をするYu Ra〉
ユラ「7歳からピアノのスクールにも通い始めました。Music School N.1というところです」
嶋津「器械体操とピアノはどちらの方が好きでしたか?」
ユラ「どちらも好きですが、しいて言うならば体操の方ですね。活発な子どもだったので、ピアノの前にじっと座っていることが我慢できませんでした。音楽が鳴ると体を動かしたくなる」
嶋津「奏でるよりも、音と戯れたくなる」
少年時代のYu Raは器械体操とピアノ漬けの日々を送った。
愛情の豊かな父親は教育に対して厳格な一面を持っていた。
小学校の授業が終わると体操教室へと行き、それが終わると音楽教室へ行きピアノを弾く、そしてその後体操教室へと戻りトレーニングし、家に帰ると学校の宿題が待っている。
学校、体操教室、音楽教室、体操教室、宿題、就寝。
毎日がその繰り返しだったという。
父はYu Raに妥協を許さなかった。
そのようなライフスタイルが14歳の頃まで続いた。
〈奥様の沙耶さんが英語を通訳してくれる〉
14歳で彼は器械体操のマスターになった。
マスターとはロシアの最高段位である。
ちなみに音楽スクールではピアノと作曲の修了証も与えられた。
既にラフマニノフの楽曲を弾けるまでの腕前になっていた(難易度の高さから一般的には大学に入学するまで弾くことが困難とされている)。
ここでユラは最大の選択を迫られた。
体操を究めるか、音楽を究めるか。
プロフェッショナルの道に進むためには1日10時間以上の訓練が必要になる。
そのためにはどちらかを捨て、片方に集中しなければならない。
彼は体操を選んだ。
ユラ「体を動かすことが好きだったので、身体能力を使う方を選びました」
嶋津「非常に悩ましい選択ですね」
ユラ「後押しになったのは姉が勧めてくれたことです」
嶋津「5つ年上のお姉さんですね」
ユラ「彼女はダンスをしていました。オールジャンルのダンサーです。私は14歳で彼女の通っていたダンスカレッジ『College Of Arts S.V.Rachmaninova』へ入学しました。姉の影響は大きいです」
入学すると先生たちは自分のクラスへ入れたいがために、Yu Raの取り合いになったという。
なぜなら、他の生徒たちは足を90度上げることが精一杯の状態だったのだから。
ユラ「日本では器械体操とバレエは全くの別物として認識されていますが、ロシアのほとんどの器械体操のクラスではバレエのレッスンが組み込まれていました。私は10年間それをやってきたので、ダンスレッスン内でのほとんど動きが既にできていました」
嶋津「すごい!」
ユラ「それが逆によくなかった。私にとってそれらの授業は退屈以外の何物でもなかった」
嶋津「なるほど」
ユラ「だから一年目は学年の中で最も成績の悪い生徒でした。理由は授業にほとんど出席していなかったので」
嶋津「天才の不幸ですね。『今さら、なぜ?』という」
当時のユラにとって学校でのモチベーションを上げることがテーマだった。
そんな時、サンクトペテルブルクでショーを見て「自分もいつかあのステージでショーをしたい」と思った。
それが「難しい」という感覚ではなく、「楽しそう」といった感情で。
そのような志を立てると、世界は色鮮やかに変化した。
ダンスカレッジでは有能な先生がたくさんいた。
トップレベルのプロフェッショナルが集まっている場所だった。
「あの大きなステージでショーをしたい」
明確な目標ができたことで、自分の恵まれた環境に気付くことができたのである。
二年目からは心を入れ替えて、授業に集中した。
湧き出た好奇心を満たすことで、ユラは急速なレベルアップを遂げた。
心を入れ替えて、ダンスに対して誠実に取り組んだYu Raはめきめきと力をつけていった。
最後の年には『ベストスチューデント(最優秀生徒)』といって全校生徒の中の最も輝かしい生徒6名中の1人に選ばれた。
認定を受けたのは今から20年も昔の話だが、そのカレッジのメモリアルデスクには今もベストスチューデントとして殿堂入りしたYu Raの写真が飾られている。
ユラ「私以外の5名はモスクワの大きなシアターでトップバレリーナとして、またはディレクターとして活躍しています。私も早く彼女たち(彼ら)のように名前を売り出していかなければいけません」
そのカレッジではダンスだけでなく、物理や化学、または文学などアカデミックな授業もあった。
それらは必須科目として履修しなければならない。
日本でいうところの文武両道、または知勇兼備が求められる。
身体能力を磨くだけではなく、それを司る知恵と思考が人間として、またはアーティストとしての揺るがない信念を育むのだ。
最後の年になると、学生はGraduation Work(卒業制作)に取り掛かる。
ローカルスクールに出向き、子どもたちにダンスを教えるのだ。
器械体操でもバレエでも何でもよい。
自分が選んで、学生に教える。
子どもたちと言っても、中には自分と年齢のほぼ変わらない15、6歳の子を教えることさえあった。
彼ら(彼女ら)にダンスを教え、ステージをつくる。
先生はその中で、レッスンの内容(教え方を含め)、演出家としての技量、振付師としての能力、社交性、またはソーシャルワーカーとしての人間性など、あらゆる項目を審査する。
最終のショーの完成度だけでなく、その過程の中で学生たちがいかに成長したか、アシストやフォローの様子までを見ているのだ。
Yu Raはショーの総合演出をする能力はこのダンスカレッジで習得した。
彼が総合演出(作・演出・構成・振付・作曲・出演)が可能な訳はそのためだ。
そしてYu Raは18歳でそのダンスカレッジを卒業した。
〈演出をするYu Ra〉
その後、Yu Raはロシアのミリタリーアンサンブル(軍隊でのショーパフォーマンス)から声がかかり数年間をそこでダンサーとして過ごした。
最初はアンサンブル(後方のダンサー)だったのだが、頭角を現し、いつしかメインダンサーとして活躍するにまで至る。
そして大きなダンスカンパニーに入団し、プロフェッショナルなパフォーマーとしてヨーロッパを巡業した。
ユラ「最初はポルトガルに二年。そのままドイツで新たな契約を交わしました」
嶋津「キャスティングの審査のようなものがあるのですか?」
ユラ「はい。ごくシンプルなものです。オーディションを受けて、合格すると年間契約を交わします。」
嶋津「完全な実力社会ですね。故郷であるロシアを出て、ヨーロッパを周ったのですね」
ユラ「様々な国へ行きました。ポルトガル、ドイツ、オーストリア、フランス、スペイン、イタリア。ロシアはもちろんのこと、ウクライナにも行きました」
Yu Raはロシア語以外に英語、ポルトガル語、ドイツ語を話すことができる。
それはYu Raの豊かなインテリジェンスが根底にはあるが、この時の巡業による副産物だろう。
ユラ「その中でもドイツの滞在が最も長かった。他の国で数ヵ月ショーをしてドイツに帰ってくる、といった具合に。そこで予期せぬ再会がありました」
嶋津「再会?」
ユラ「私が幼い時に仲の良かったアントンという名の友人です。彼とは明けても暮れも一緒に遊んでいました」
嶋津「親友、言わば幼馴染ですね」
ユラ「私の両親はミュージシャンでしたが、彼の両親はパフォーマーだった。ストリートでダンス(大道芸)をするような。彼もまたその道に入っていた」
嶋津「はい」
ユラ「4歳の時にアントンは突然姿を消しました。彼の家族も共に」
嶋津「理由は?」
ユラ「何も知りませんでした。幼かったので分からない部分があったのかもしれません。彼との楽しかった思い出を心の内に残したまま、時間が流れました。そしてドイツの街で、偶然彼と再会したのです」
嶋津「とてもドラマティックですね」
ユラ「その時知ったのですが、彼とその家族はサーカスチームとして世界を周っていたのでした」
嶋津「パフォーマー同士として4歳の時の親友と再会したのですね」
ユラ「そして再会以上に驚かせたことがありました。それは彼はシルク・ドゥ・ソレイユの演目サルティンバンコの創立者の一人だったのです」
嶋津「サルティンバンコというのは、あの世界で最も有名なサーカスショーですよね?」
ユラ「はい。アントンの家族はサーカスチームとして世界を周っていました。その時にギー・ラリベルテ(シルク・ドゥ・ソレイユの創設者・CEO)と出会った。彼も元々はパフォーマーだった。そこで『何か、一緒にしよう!』ということになった。そしてサルティンバンコを立ち上げ、アントンの家族はその最初のディレクターになったのです」
嶋津「そんなことが!」
ユラ「サルティンバンコはギー・ラリベルテとアントンの親子4人ではじまった。それが10人になり、20人になり、50人になり、と次第に数を増やしていった」
ユラ「私はアントンから、突然姿を消してから今までのこと、またどのような経緯でサルティンバンコが創立したのかを聞きました。その物語は私の胸を強く打ちました。そして激しく感動した」
嶋津「それまで二人の間にあった空白を埋めるように話し合ったのですね」
アントンらがどういう風にシルク・ドゥ・ソレイユをつくり上げたその道のり。
その物語を知ったYu Raは、大きな夢を描いた。
「世界的なカンパニーを立ち上げたい」
ユラ「アントン親子にもできた。自分にもできるはずだ。決して無理じゃない」
2015年、キャスティングの新たな契約によってユラは日本へとやってきた。
日本を代表する大型テーマパークに在籍した。
そこで現在の奥様(沙耶さん)と出逢い、結婚し、日本という場所に根を下ろした。
そしてアントンと再会した時に抱いた夢を叶えるべく、OMを創立する。
ユラ「大きな目標は世界的なカンパニーにまで育てていくことですが。私の一番身近な目標というのが、強いチームをつくること。日本で才能のある人を集めて、最高のチームをつくりたい」
OMのメンバーは新体操の元国体代表選手や、バトントワリングのスペシャリスト、フラフープパフォーマー、そして国内大型テーマパークのアクターなど多彩な才能を持つパフォーマーが多数在籍している。
ユラ「日本の有能なパフォーマーは海外へ出ていくことが多い。それは日本に才能を発揮できる場所が少ないことが原因です」
嶋津「日本での活躍の場が少ない、ということですね」
ユラ「有能な者が海外に流れていくことは日本にとっても残念なことです。日本という国が才能のある人間を失わないように『ここでも世界レベルのショーができるんだ』そんな場所をつくりたかった」
嶋津「日本という場所にこだわりがありましたか?」
ユラ「私にとって場所は関係ない。本当にすばらしいものを作れば、世界へ発信することができる。たまたま日本にいるからここでOMを作りました。もしアフリカにいたのならアフリカで、中国にいたのなら中国で、どこにいても同じことをやっていたと思います」
〈OMのメンバー〉
ユラ「パフォーマンスと一様に言っても色々あります。私が作りたいのはアートです」
嶋津「はい」
ユラ「『サーカス集団』という風には見られたくない。驚異的な身体能力を使って表現する。それは確かに観客に感動を与えるかもしれない。でも、それだけではスポーツと同じです」
嶋津「スポーツとアートの違いというのは?」
ユラ「スポーツはその場では感動するかもしれませんが、その後に残るものはありません。しかしアートは、その瞬間の感動はもちろんのこと、時間が経過した後でも心に残す力がある」
嶋津「スポーツは『すごい!』という感動だけだが、アートは感受性に及ぼすものが多様性に富んでいるということですね。様々な感情を呼び起こす」
ユラ「そうです。ユーモアだったり、嬉しい、楽しいだけじゃなく、時に悲しい、恐ろしい、という感情まで見る者に与える力がある。家に帰ってからも『あの話どうだった?おもしろかったよね』と話すことのできるものにしたい」
嶋津「ユラさんにとってアートとは?」
ユラ「アートは舞台、クリエイター、音楽、ダンス、衣装、演技、物語、照明、観客の反応、様々な要素が融合し、ハーモニーを織り成すことで生まれるものだと思っています。それぞれがスペシャルなスキルを注ぐ。それがうまい具合に絡み合い、めいめいに呼応する。それら全てをひっくるめた組み合わせこそがアートを生む。ですからスポーツもアートにすることはできます」
嶋津「つまりは、スポーツと他の要素のハーモニー。音楽だったり、物語だったり、そういうものとのコンビネーションによりアートへと転化していく、と」
ユラ「そうですね。それらの多様性、そこに生まれる様々な反応が観客の心をインスパイアする。それが心を動かしたり、閃きを与えることになれば最高です」
嶋津「感心は消えるが、感動は残り続ける」
ユラ「観客にインスピレーションを与えるもの。そういう力のあるものを作りたいです」
Yu Raとの対話は非常に興味深い話へと発展した。
スポーツとアートの違い。
芸術論。
豊かな知性と感性に強く惹き込まれた。
嶋津「アートに対する哲学はどこから生まれたのですか?」
ユラ「それはずっと昔。そうですね、子どもの頃から。単純に体を動かすことよりも、観る者の感情を動かしたいという気持ちはありました」
嶋津「生まれ育った環境にヒントがあるのかもしれませんね」
ユラ「もちろん育った環境、家庭や学校は私という人間を形成した大切な要素の一つです。今まで出会ったたくさんの有能なパフォーマーにもインスパイアを受けました。例えば、ジェームズ。彼はチャーリーチャップリンの孫でパフォーマンスだけでなく考え方にも影響を受けた。もちろん親友のアントンもそうです(サルティンバンコの創立者)。」
嶋津「今まで出会った一流のパフォーマーたちとの対話や議論の中で、アートや生き方に対する哲学が成熟していったのですね」
ラフマニノフをこよなく愛すると言ったYu Raへ最後にこのような質問をしてみた。
「ラフマニノフの曲についてどう感じる?」
ユラ「ラフマニノフは私のインスピレーションの源です。ピアノ協奏曲でも、シンフォニーでも、全て好きです。何時間でも聴いていることができる。そして、100回聴けば、100回新しい発見がそこにはある」
嶋津「ラフマニノフはユラさんのミューズですね」
ユラ「彼は圧倒的な才能がありながらも常に高みを目指し続けた。一小節を書き上げるためにもどれだけメモをとったか。その努力、アイディアは計り知れません。決して妥協を許さなかった」
嶋津「天才的な能力と惜しみない努力。その両輪が機能すれば敵うものはいませんね」
ユラ「尊敬します。『自分のレベルが上がったので、これ以上はいいだろう』というようなパフォーマーは好きではありませんね。レベルが上がったのならば、より高みを目指すべきだ。『もっと良く、もっと良く』と」
嶋津「終わりのない闘いですね。作品と、そして自分との」
ユラ「でも、そのように考える人はそれほど多くはいません。いくら才能があったとしても」
圧倒的な身体能力と創造性、そして志の高さ。
彼の創設したOMは今後、どのような形で観る者の心を湧かせるのだろうか。
ユラ「アートが今やビジネスになっています。これから続けていくためには。そしてより大きなプロジェクトにするためにはビジネスはとても大切だ。それは分かっていますが、私はビジネスのためのアートはしたくありません。ビジネスを担当してくれる誰かとタッグを組むことができて、ピュアにアートのことを考えることができれば理想的ですね」
これからのOMの活躍、そして成長が楽しみだ。