フエキのりの道のり。

フエキの心。

それは、『変わり続けていく』という『変わらない精神』 。

《不易糊工業株式会社》

明治19年(1886年)。

その会社は、今からおよそ130年前に創業した。

安心・安全のフエキ糊。

フエキ糊といえば、赤い帽子のフエキ君としてご存知の方も多いのではないだろうか。

素材にもこだわり、100%の生でんぷんを使用した地球環境に優しい商品作りがフエキの売りだ。

記事に入る前に、少しばかり書き記しておきたいことがある。

私事なので、興味のない方は『梶田安彦のフエキ論』まで読み飛ばしていただきたい。

今回、代表取締役の梶田安彦社長にインタビューする機会を頂いた。

愛情が深く、インテリジェンスに溢れていて、機知に富んだ方。

実は、前々から僕は梶田社長の取材をしたかった。

それは約2年前に遡る。

当時、僕はプライマルという有志団体の仲間と映像作品の製作を進めていた。

内容は街のプロモーションビデオ。

大まかに言うと、「八尾市の名所を舞台にした、高校生の淡いラブストーリー」

物語の中で、八尾の名産品や街で働く人々の輝きに焦点を当てるという内容だ。

僕はその作品の監督と脚本を務めた。

プロデューサーである妻が、八尾の企業や行政機関に僕の書いた拙い企画書を持ってプレゼンに行った。

もちろん八尾市を代表する企業、不易糊工業にも。

数日後、梶田社長は僕たちの店(CafeBarDonna)に来てくれた。

そしてこう言った。

「僕は君の手紙を読んだよ。八尾が舞台の高校生の恋物語だ。あれはいいねぇ!僕は楽しみで仕方ないよ!是非ともフエキも協力しよう!」

梶田社長は、物語のあらすじを一から話してくれた。

そこには「私はちゃんとあなたの文章を読みましたよ。楽しみです」という意味が含まれていた。

涙が出るほど嬉しかった。

何の結果も残していない20代の若者に、このようなあたたかい笑顔と、力強い言葉をかけてくれる大人がいてくれたことに驚き、そして感動した。

心から感謝した。

ものづくりにはトラブルはつきものだが、僕たちの手がけた八尾市のPVも次々と問題が起きた。

そんな時、梶田社長の言葉が励みとなった。

あの言葉があったからこそ、前を向いて突き進むことができた。

二度目に出会ったのは今年の9月。

ライオンズクラブが主催する高校生英語弁論大会の会場。

来場客を席へ案内していた梶田社長を発見した。

場所も場所だったのでゆっくりと話すことはできない。

僕は手短に、2年前の感謝と「梶田社長の大ファンです」と述べ、最後にこう付け加えた。

「取材させてください!」

梶田社長は穏やかに微笑み、「いつでも連絡してくれ」と言って、固い握手をしてくれた。

そうして、今回の取材が実現した。

梶田安彦のフエキ論。

「僕はね、あのでんぷん糊を世界中の人に使ってもらいたいんですよ」

梶田「不易糊工業(以下フエキ)は明治19年が創業でね、最初は足立商店という名称で南久宝寺に店を構えました」

足立商店

八代目・足立市兵衛、足立商店

(大阪市南久宝寺一丁目42番地)を創業

梶田「足立家には代々男の子が生まれていましてね、長男が事業継承をするというのが通例となっていました」

嶋津「それでは、梶田社長も足立家の末裔と…」

梶田「それが違うんです」

嶋津「え?そうなんですか?」

梶田「はい。あれは私が専務の時でした。会社の経営がうまくいかなくってね。それでね、『この会社をたたもうか』という話まで出た。先々代の社長が『幸い土地もある。技術もある。落ちた(売上)と言っても不易糊はある。今のうちにどこかへ渡すのはどうだろうか?』そう私に相談してきました」

嶋津「はい」

梶田「仕方のないことだったのでしょう。ここ20年に渡り、あらゆる中小企業が苦労しました。当然、うちも非常に苦労した」

嶋津「それでどうのようにお答えになったのですか?」

梶田「『それはダメだ』と。

M&A(企業の合併や買収)などに理解がない訳ではない。ただ、私たちのクラス(規模)がそれをやってしまうと、フエキ糊というもの自体がなってしまうのではないか?と不安になりました」

嶋津「会社だけでなく、精神までなくなるのではないかと懸念された」

梶田「フエキは残さなければならない」

このままではフエキがなくなる。

梶田社長は行動を起こした。

梶田「不易糊工業は明治19年から代々足立の血で受け継がれている。まず私がするべきことは、足立の末裔を探すことでした」

嶋津「探す、というのは?」

梶田「先代も、先々代にも男の子がいなかったんです。正確には先々代には男の子はいた。でもね、小学6年生の時に亡くしている。つまり、事業継承をする者がいない。実はその彼と僕は同い年だったようで。もちろん実際に会ったことはない。でもね、そういうこともあってか、先々代にはよくしてもらった恩がある」

嶋津「なるほど、フエキの歴史は足立家の歴史でもあるわけですね。足立家の血を絶やしてはいけない。だから探した、と」

梶田「私は名簿を片手に秋田から鹿児島まで8ヵ月ほどかけて練り歩きました。足立の血脈を受け継ぐ者を必死になって探した。でも、いなかった。正確にはいたのですが、会社を経営するにはまだ充分な年齢を迎えていない」

梶田社長(当時専務)は途方に暮れたという。

もはやお手上げ。

だが、フエキをなくすわけにはいかない。

ここで一つの疑問が浮き上がる。

そこまでして、なぜフエキの存続にこだわるのか。

その答えは130年というフエキの歴史にある。

フエキが歩んできた道のりをざっと振り返ろう。

明治19年

不易糊工業株式会社の前身「足立商店」創業

当初は、不易糊工業ではなく足立商店という名だった。

創業者は八代目足立市兵衛

足立家は元々飫肥藩(おびはん:宮崎県)出身の商人。

飫肥藩の特産である飫肥杉や椎茸などを船で運んでは京阪神で販売していた。

市兵衛の下には二人の弟がいた。

市兵衛は活発で行動的、弟は今でいう東京工業大学を出ている理系。

対極の感性を持つ足立兄弟。

この組み合わせが、後のフエキの目まぐるしい発展へと繋がる。

永遠の糊が誕生する瞬間。

ある日、近所の主婦が市兵衛に「洗濯糊、すぐに腐っちゃうのよ。長持ちする糊があればいいんだけど」という言葉を漏らした。

日常のほんのささやかな不満、願望である。

その言葉を聞いた市兵衛は弟に相談する。

理系の彼らは「すぐに作ってみましょう」と研究をはじめた。

試行錯誤を繰り返すが、なかなかうまくいかない。

弟たちは悩んだ挙句、ドイツから帰ってきたばかりの藤井恒久先生(大阪府立商品陳列所所長)に相談を持ちかける。

彼がドイツから持って帰ってきたホルムアルデヒド水溶液に答えがあるような気がした。

ホルマリンである。

藤井恒久先生のアドバイスの元、それを調合し、遂に腐らない糊が誕生した。

昭和28年のことである。

その頃まで、「糊に防腐剤」という考え方はなかった。

市兵衛はその画期的な製品を不易糊と名付けた。

中国の荀子の【萬世不能易也】 (永遠に変わることなし)に因んでの命名である。

そこには、いつまでも腐らず不変の品質を誇るという意味が込められている。

「永遠」というのは少々大げさかもしれない。

だが、それほどに今までの常識を覆すような製品だった。

近所の主婦に使ってもらうと大変喜ばれた。

「もっと何かできないか?」

それがフエキの精神のはじまりだ。

《当時の容器》

伝説のチューインガム

明治42年。

市兵衛は船に乗ってアメリカへと渡った。

市兵衛はそこで不思議な光景を目にする。

巷で生活する人々が口にしているもの。

「これは何だ?」

「これかい?リグレーだよ」

「リグレー?」

それはチューインガムだった。

当時の日本にはまだ存在しないものだった。

市兵衛は日本に帰ると、弟たちに持ち帰ったリグレーを見せた。

「これは面白い」

ということになり、谷町六丁目にあった当時の足立商店で作ることになった。

彼らはインドネシアへ行き、海綿を仕入れ、それを大きな釜に入れて溶かし、似たようなものを作った。

そして白龍という名の商品が生まれた。

正真正銘の日本初のチューインガムである。

意気揚々と「売るぞ、売るぞ」と気張ったが、全く売れなかった。

それもそのはず、味が悪い。

見よう見まねで作ったが、甘味料まで上手く作れなかったのだ。

当時の日本にはチューインガムという概念さえなく、それをどのように使用すべきものなのかということまで浸透していなかったことも敗因ではある。

結局、50年早すぎたということで世間には浸透しなかった。

転んでもタダでは起きない精神。

チューインガムは失敗に終わり、大量の海綿が残った。

「せっかくなので、この材料で何かできないか?」

その発想から、海綿を利用して液状糊を作った。

そして主としてジャワ方面へと輸出する。

不易糊の成功によって、文具業界に進出した足立商店はインクにも手がけるようになる。

梶田「でんぷんのりが作れたので、これを応用できないか、と。それでインキを出した」

《当時の容器はガラス瓶でラベルを巻いている

「僕はとってもお洒落だと思うんですね」そう話す梶田社長》

大正13年

足立商店を改組し、不易糊工業株式会社を設立(11月22日)

インクの成功から、書道液の開発へ。

そうして生まれたのが不易墨汁

原点である墨汁は未だに、建築金物、工業用のルートでインクとして活かされている。

今はマーカーや筆記具として続いている。

新種気鋭と形容すれば言葉が良いが、新しい物好きの市兵衛。

それに翻弄された弟たち。

この構図が、フエキの革新には極めて重要な役割を果たした。

好奇心旺盛な兄貴が発想を出し、理系の弟が形にする。

ここにフエキの原点があるような気がする。

話は戻る。

梶田社長が足立家の跡継ぎを探すことに奔走し、無念な結果に終わったこと。

それでも梶田社長にはフエキを存続させねばならぬという使命感があった。

それは130年の歴史と足立家が築き上げてきたその精神を守るという使命。

嶋津「そこで白羽の矢が立ったのが梶田社長ということですね?」

梶田「仕方なし、という言い方をすると語弊がありますが、私がせざるを得なくなった」

嶋津「『なくしてはいけない』と言ったのは梶田社長ですものね」

梶田「確かにそうかもしれない。だが、それはともかくとして足立家にはもはや経営する意志がないのですから、誰かが前に立たなければならない」

代表取締役社長に就任するというめでたい機会にも関わらず、周りの声は冷ややかなものだったそうだ。

フエキの快進撃はすでに勢いを失っていた。

フエキに関わらず、時代の変遷によって中小企業全体に厳しい風が吹いていた。

梶田社長が入社した頃には270名ほどいた社員の数も100名を切っていた。

当時の役員も皆、フエキを離れた後だった。

残ったのは巨額の借財と、事業承継をどうするのかという話。

周りの中小企業仲間からもも、「本当に就任するの?」と社の将来を案じる声も多かった。

嶋津「そのような不利な状況の中、継承する決め手となるものはあったのでしょうか?」

梶田「妻が反対しなかった、というのが大きな理由ですね」

嶋津「奥様の存在」

梶田「はい。妻の実家がたまたま会社をしていたということもあったのでしょう。僕が尋ねた時(社長を引き継ごうか)、わりと平気だったんです。『命を取られるわけじゃないから、いいんじゃない?』って」

人生の岐路にはいつも奥様の存在があった。

梶田社長は言う。

「私のことを私以上に知っている人物ですよ」

奥様との出会いは梶田社長が15歳の頃。

学生の頃からの付き合いだ。

フエキに入社したのも奥様の存在が重要なポイントとなる。

同じ高校に通っていた梶田青年と奥様。

学生時代の梶田青年は良い意味でも悪い意味でも活発だったいう。

その全てをそばで見てきた奥様。

梶田青年は学費を稼ぐために数多くのアルバイトをした。

日雇いの木工作業や電気工事、体を動かすものなら何でもやった。

そのうち仕事中の怪我により入院することになる。

そうなると学費を支払うことができない。

父親に相談してもお金を貸してはもらえない。

そんな中、不運の事故に出くわす。

車で彼女を家へ送り届ける途中に、トラックが二人の乗る車に衝突してきた。

幸い、怪我はなかったが、相手側の運転手が保険に入っていなかったため、あらゆる手続きの負担が自分のところへきた。

その時にできた借金を返すため、梶田青年は勉学を諦め、本腰を入れて働かなければならなくなる。

知り合いの紹介で通い始めたのが、不易糊工業だった。

梶田「最初はね、『とりあえず入った』という感じでした。言い方は良くないですが、本業を見つけるまでの繋ぎとしてアルバイトしよう、と」

嶋津「え?元々、社員として入ったというわけではなかったのですか?」

梶田「はい。元々はアルバイト。でもね、いつの間にか社員として扱われていましたね」

嶋津「フエキが梶田青年を離さなかったんですね」

梶田「いや、僕も好きだった。フエキの社風に合ったのでしょうね。フエキのファンになりました。だから一生懸命やりましたよ。それを買ってくれたんじゃないかな」

シンボルとしてのフエキ。

平成20年(2008年)。

梶田社長は晴れて社長へ就任する。

嶋津「社長に就任されてから、まず何をはじめたのですか?」

梶田「当時は皆、俯いていた。元気がない。『顔を上げて頑張ろう』といってもなかなかそのような気分になれない。そのためには旗印が必要だった」

嶋津「旗印?」

梶田「はい。つまりシンボル

それがフエキくん

どうぶつのりのキャラクターだ。

梶田「『これを擬人化して旗印にしようよ』と。フエキそのものを擬人化し、シンボルにする。『安心安全』。言い古されているかもしれない、陳腐かもしれない。それでも『安心安全』なんです。これが我々の旗印となる」

嶋津「原点に戻る、と」

梶田「そう、『ものづくりの根本にそれを置こうよ』。そう言った」

フエキのシンボルカラーをイエローにした。

皆が納得し、「そのコンセプトで行こう」ということになった。

梶田「技術者にしてもそうです。彼らはチャレンジしたい」

嶋津「チャレンジしたい、と言いますと?」

梶田「先ほども言いましたが、当時は皆俯いてしまって新しいことをする気にもなっていなかった。経営にもそのような発想はなかった。ところがね、ヒントがあると人は作ってみたくなる。それが技術者なら尚更のことだ」

嶋津「新しいことをはじめるためには、ヒントを与えることが必要なのですね」

梶田「そう。好奇心という