top of page

読む「れもんらいふデザイン塾」vol.3


今回のゲストは世界を代表する写真家であるレスリー・キー。

シンガポールに生まれ、決して恵まれた環境ではない中、逞しく生き抜いてきた。

クリックすれば簡単に検索できる言葉ではなく、経験に基づく〝生きた言葉〟。

レスリーの言葉に、感情に、ぬくもりに、熱狂した。

会場にいた塾生、みんなそうだと思う。

少なくとも寝る前に枕の上で、「スペシャルな一日だった」と思い返したに違いない。

熱さは共鳴する。

その場にいるだけで次第に自分のエネルギーも引き上げてもらえる。

みんな笑ったし、みんなほろりとメランコリックに打たれた。

気が付くとみんな、レスリーのことが───レスリー・キーという〝人間〟が好きになっていた。

「コネクティング・ドット」

スティーブ・ジョブズの有名な言葉だ。

デザインを志す者なら誰もが知っているであろうスタンフォード大学でのスピーチ。

意味は、「点と点を繋ぐ」

ジョブズが大学時代に全く役に立つとは思わずに学んでいたカリグラフィーが、10年後Macの開発において視覚的な美しさを追求することにより〝フォント〟の概念を生み出すことに繋がった、という話だ。

点と点は繋がり、線になる。

レスリーの場合は、同じコネクティング・ドットでも、先にある〝点〟を意志の力と行動力でクリエイトする。

線にするため、繋ぐ点を自ら築きに行く。

少年時代からの夢だったユーミン(松任谷由実)の撮影、井上嗣也氏との仕事、憧れの朝ドラのポスター…

レスリーは決して待ちはしない。

決められた人生に従うのではなく、人生を自ら切り開いている。

ここから気付かされるのは、〝出会い〟を意味のあるものに変えるのは自分自身だということだ。

それは〝人〟だけでなく、〝本〟や〝映画〟〝音楽〟、はたまた一枚の〝ポートレート〟かもしれない。

出会いの価値を決めるのは未来の自分だ。

レスリー・キーという人間の半生、そしてその哲学をご覧あれ。

 

レスリー

〝フォトグラファー〟という仕事をはじめて今年で20年目となります。

98年からはじまり、あっという間に時は過ぎて行きました。

でもこの20年間で変わらないものがあります。

私の原点である〝ポートレート〟です。

これらは本物のEPです。

私のコレクションの一部です。

私は13歳から15、6歳までの間で私はこれらを1000枚集めました。

当時───1980年代はもちろんインターネットはなく。

全てハガキに自分が欲しいアーティストの名前を書き、本屋へEPを買いに行きました。

シンガポールには紀伊国屋と丸善がありました。

当時の13歳の私は日本語が分かりません。

でも、漢字は分かるので、アーティストの名前は覚えることができました。

そこで好きなアーティストだけをコレクションしようと思いました。

この人たちのおかげで今私はここにいます。

これらの写真を見て、「きれいだなぁ」と思いました。

グラフィックもいい、メイクもいい、衣装もいい。

私にとって最初のアイドルは早見優さんです。

日本との出会いは音楽。

日本は私の夢───ずっと憧れでした。

今から25年前の1993年に私は日本へ来ました。

80年代はちょうどシンガポールが発展しはじめた時で、空港やホテル、大きなデパートが少しずつ増えていきました。

大丸や高島屋など日本の百貨店が現れました。

13歳の時に工場で働き始めたのが日本の音楽との出会いです。

なぜ、中学生の時に働いていたのかというと、私の母が13歳の頃に亡くなったからです。

元々、生まれた時から父親はいなかったので、頼りになるのは祖母しかいませんでした。

ただでさえ貧しい生活だったのに、さらに追い打ちをかけるように危機が訪れました。

働かなければ学費はおろか、生活費を支払うことができません。

たまたま私の育ったシンガポールには日本の工場がたくさんありました。

シンガポールだけでなく、タイ、インドネシア、フィリピンにはジャパニーズカルチャーがたくさんありました、

ほとんどは電化製品を作る工場で、私の働いていた場所はカセットテープを作っていました。

その偶然が幸運なことに私を日本の音楽と出会わせてくれました。

そこで働いている人も日本人が多く、さらには音楽好きが多かった。

カセットテープによって好きな音楽をコピーできます。

工場で働いていた私と同じ10代の若者たちは全員日本語を話すことができませんでした。

しかし日本人たちは英語が話せたので何とかコミュニケーションをとることができました。 そのきっかけが音楽でした。

最初に手に入れたカセットテープ。

一つのテープで90分録音できました。

A面とB面、お互いに12、3曲入る計算です。

24曲全て異なるアーティストの楽曲をコピーしました。

A面の一曲目が早見優さんでした。

つまり、初めてテープで聴いた日本人の曲です───今から30年前。

その衝撃は今でも忘れられません。

たまたま一曲目ということもありましたが、

当時の日本はバブルの頃で、姿も歌声も存在も、そして目の輝きも全てがキラキラとしていました。

シンガポールにはあのようなキラキラした世界観はありませんでした。

だから彼女のファンになったのです。

日本の音楽に触れ、キラキラとした世界観を見た時に、私には未来が見えました。

当時のアジアの中で一番の先進国は日本でした。

シンガポールにしても、中国、香港、台湾にしてもまだそこまで発展していません。

ほとんどの国が日本が好きで、ジャパニーズミュージック、ジャパニーズファッション、ジャパニーズの歴史、食べ物、色々なものに対してのリスペクトがありました。

頑張って働けば、あの世界が手に入る。 それがアジア人にとって共通の夢でもありました。

私もその夢を抱いた一人です。

そして次の写真がこちら。

前の写真と何が違うのでしょう。

前者は〝アイドル〟、そして後者はシンガーソングライターです。

私はアイドルからシンガーソングライターのファンになりました。

そして、そこから私の好きなアーティストは次第に変わっていきました。

もちろんその中には私の大好きなユーミン(松任谷由実)もいます。

84年、私が14歳の頃にユーミンは『守ってあげたい』を作りました。

そこから色んな大人の人が曲を薦めてくれて、アイドルからシンガーソングライター、フォーク、ロック…様々なアーティストの楽曲を聴くようになりました。

サザンの『いとしのエリー』、杏里の『CAT'S EYE』、プリプリの『ダイアモンド』…。

これらは当時、働いたお金で買ったものです。

EPがなくなり、CDになった頃、自分の好みはニューミュージックへと移っていきます。

そこから次第にクリエーションについて深く考えるようになりました。

アルバムアーティストの夢、そして日本への憧れ。

アイドルの曲を聴いていた頃はまだ興味本位でしたが、様々なジャンルの、様々なアーティストの曲を聴くようになり、私の考え方も変わっていきました。

一人で、曲も作れて、歌詞も書けて、プロデュースもできるアーティスト───アルバムアーティストのことをリスペクトしました。

「アルバムアーティストになりたい」

でも私は曲も作れない、歌詞も書けない、カラオケは好きですが歌は音痴です。

アルバムアーティストになりたいけど、一生なれない。

でも、「この気持ちを別の形にすればいい」と思った時に〝写真家〟という仕事を知りました。

ニューミュージックと出会った時にユーミンの大ファンになりました。

彼女のレコードの歌詞カードを開いて発見したものがあります。

〝アートディレクター〟〝フォトグラファー〟〝スタイリスト〟〝ヘアメイク〟〝エンジニア〟、そして〝ミュージックプロデューサー〟…

そこにはたくさんの裏方の名前が記載されていました。

自分が裏方になった一番大きなきっかけはここにあります。

努力して自分もアルバムアーティストのような本を作ればいいと思いました。

その想いが今の自分を作りました。

私はアルバムアーティストのビジョンで生きています。

ただ実は、一人だけ未だに出会っていないアーティストがいます。

中森明菜さんです。

昔からこの方を撮りたくて、撮りたくて…でも、まだ撮っていません。

彼女のスタイルは本当に格好良くて、80年代のナンバーワンといってもいいほどです。

彼女は香港のアーティストに多くの影響を与えていました。

香港のアーティストの音楽を聴くと、ほとんどが中森明菜さんにインスパイアを受けています。

当時の香港において中森明菜さんはマドンナのようでした。

一つのバイブルとして、彼女の美しい姿、彼女のこだわり、彼女の美意識、そして彼女のファッションは香港の音楽業界にとても影響を与えた。

続いて台湾や中国にも自然と広がっていきました。

当時、中国がまだ発展してなかった頃は香港が文化の中心で、香港の情報が台湾と中国へ伝わっていくというのが一般的でした。

シンガポールはその後なんです。

香港で流行したものが台湾と中国へ広がり、その後東南アジアへと広がっていく。

幸運なことに私は日本の工場で働いていましたので、誰よりも早く当時の日本のカルチャーに触れることができました。

これは〝縁〟があったからだと思っています。

そして次にたくさんの写真集を買いました。

『サンタフェ』

当時、18歳の宮沢りえさんをモデルに写真家の篠山紀信先生が作った写真集です。

私はこの写真集を見た時に、一人の写真家と一人のミューズで傑作を作る───これは〝運命〟だと思いました。

180万枚売れました。 

一人の女優さんの写真集でこれほど売れることはありません。

未だに誰にも超えることができない記録を持つ写真集です。

今の自分がたくさんのアーティストと写真集を作っているのは篠山先生の『サンタフェ』が大きなヒントとなっています。

今尚、私にとってこの写真集は素晴らしい出会いの一つです。

そしてこちらのカタログ。

今では手に入らない物販です。

88年から91年の四年間、コムデギャルソンが年に二冊『Six(Sixth Sense)』というカタログを発行しました。

この作品のアートディレクターは井上嗣也さんです。

彼は今年72歳で、私は10年前に出会いました。

千原徹也さんと出会ったのもちょうどそれくらいでしょうか。

私はたくさんの素晴らしいアートディレクターと出会い、自分の作品が変化していきたように思います。

私が当時、まだ日本に来る前にカタログを見た時に、これを自分の一つの夢にしました。

自分がもしフォトグラファーになったらたくさん本を作りたい。

その気持ちがより一層強くなりました。

そして私の人生を変えてくれたのはドラマ『おしん』です。

NHKの朝ドラで83年4月~84年3月まで放送されました。

基本的に朝ドラは半年ですが、一年間続いた作品です。

当時、私は日本を訪れたことがなかったのでこの作品を見て、日本の四季───春夏秋冬を知りました。

シンガポールは一年間夏ですから、それまで冬になると雪が降るということを知りませんでした。

季節の移ろいを知り、その機微に憧れ、「日本へ行きたい」と思いました。

自分の夢に繋がる大事なドラマです。

偉大なるミューズ。

そして日本に来た一番の理由。

それはユーミン(松任谷由実)です。

ユーミンのレコードはもちろん全部持っています。

彼女は日本のアーティストというよりも少しインターナショナルな雰囲気があります。

歌謡曲の世界観ではなく、アイドルの世界観でもなく、フォークの世界観でもない。

ジャケットも海外のクリエイターが作っています。

だからユーミンの歌詞カードの中に記載されている名前というのが全て英語なんです。

だから、自分にも読めた。

「あぁ、こういう仕事があるのか」と。

彼女のアルバムと出会った時、「このアートワークはどうやって生まれたのか」と思いました。

ユーミンは日本人だけど、日本人ぽくない。

彼女の国籍に関係なく、時にパリっぽく、時にアメリカっぽく、時にアジアっぽい。

アルバムのアートワークは、様々なアートディレクターが一枚一枚とても丁寧に、その時代に最も先進の考え方で作ったアートなんです。

私がフォトグラファーになりたいことの後押ししてくれた出会いでした。

「ユーミンと出会いたい、ユーミンのジャケット写真を撮りたい」という夢が生まれました。

今年ユーミンはデビュー45周年。

私はユーミンと出会って18年です。

今でもずっとユーミンを撮り続けています。

きっとずっと撮り続けます

どうかみなさんこれからも応援よろしくお願いします。

もう一つ人生を大きく変えてくれた曲は『We Are The World』です。

1985年、ライオネル・リッチーとマイケル・ジャクソンとクインシー・ジョーンズの三名がこのアイディアを考えました。

グラミーアワードが終わってから43名のアーティストが集まって曲を歌う。

同時にこの曲は世界中の全てのラジオで同時に流されました。

こだわりのプレゼンの方法、とても心温まる曲が多くの人にインスピレーションを与えました。

アーティストは世界を変える。

アーティストは世界を救うことができる。

私もこの曲を聴いた時、大人になったら子供たちや貧困で苦しむ人を自分で作ったものを通してハッピーにできればと思いました。

現在私がLGBTなどの活動をしたり、色々な社会貢献、チャリティーを企画している背景にはこの曲の存在があります。

〝今〟が全て。

私が14歳の時の写真です。

お母さんが買ってくれたカメラです。

私はこのカメラを23歳まで使っていました。

もちろん全てフィルムです。

このカメラが、自分の人生で一番大切なプレゼントでした。

私が13歳になる前に、母が「何が欲しい?プレゼント買ってあげる」と言ってくれました。

今まで母はそのような言葉をかけてくれたことは一度もありませんでした。

私は中学一年生になったばかりで、小学校の6年間を頑張ったご褒美だったのでしょうか。

私は「カメラが欲しい」と言いました。

実はそれまで私は自分の家族の写真を一枚も持っていませんでした。

母とのツーショットもなかったし、母と妹との家族写真もありませんでした。

純粋な気持ちで家族の記念写真が欲しいと思い「カメラが欲しい」と答えたのです。

13歳の誕生日に母は本当にカメラをプレゼントしてくれました。

母にとってそれはとても高価なものでしたけれど、言葉通り買ってくれました。

その4ヵ月後、母は39歳の若さで亡くなりました。

結局、母と妹と私、3人の家族写真は撮ることができませんでした。

当たり前のように母は毎日そこにいると思っていたので、「いつか撮ろう、いつか撮ろう」と思っていたら、結局撮ることができませんでした。

それが悔しかった。

その時に学んだのが、〝今〟を大事にすること

必ず明日が来るとは限らない。

昨日までそこにいた母が、今日亡くなっている。

そんなこと想像できませんでした。

その時から自分の性格は、いつも〝今〟を考えるようになりました。

先ほどのworldさんとの鼎談でも、みなさんの前ですぐにカタログを作る話を決めたのはこのような理由があります。

決断を明日に延ばすと、もしかしたら相手の気が変わるかもしれない、話はなくなるかもしれない。

だから〝今〟決めよう。

「〝今〟決めて、〝今〟進む」が自分のスタイルです。

あの時、カメラをもらった自分が〝今〟母を撮っていたら、自分の人生を悔いることはなかった。

後悔の気持ちは一生背負うものだから。

私の性格はそんな母の写真を撮ることが出来なかった後悔が深く影響しています。

今日はみなさんに、この場が自分の人生の一つの出来事として、考えるきっかけになればと思いました。

みんな日々の暮らしに余裕がなく、忙しさに追われています。

なるべく〝今〟の気持ちに向き合って、それを自分の大切なことに使うことが出来ればすばらしいと思います。

人と繋がっていく。

そして、私は軍隊に行きました。

私が今みなさんの前でたくさん話したり、冗談を言っているのは奇跡の姿なんです。

実は13歳から19歳まで私は無口で、人付き合いが苦手でした。

日本の音楽を聴いて、いつもヘッドフォンをして誰とも話さない。

そんな青年でした。

一般的な家庭に生まれていない自分が恥ずかしく、コンプレックスを抱いていました。

記念写真を撮る時はいつも後ろの列の端っこにいるような子どもでした。

私の経験をシェアして、みんなのインスピレーションやモチベーションに繋がればいいと思って隠さずに話しています。

今の自分がいるのは〝人〟がいてくれたから。

この仕事のおかげで「人との繋がりを大切にしたい」という気持ちが芽生えました。

因みにシンガポールと台湾と韓国は徴兵制度があります。

シンガポールは大体2年から2年半。

台湾は最近法律が変わって一年少し。

韓国の場合はケースバイケースで、有名人の場合は確かに28か29歳まで猶予期間を延ばせますよね。

その中でもシンガポールは一番厳しい。

高校を卒業してから18~20歳は絶対に入隊しなければいけません。

その間は24時間、いつも国にコントロールされていて、何も好きなことができません。

精神に異常を来してもおかしくない環境です。

2年間軍隊に行かなければ大学には進学できないし、もちろん就職もできない。

シンガポール国籍も失う。

そのくらい厳しい規律なんですね。

例えば、目が見えない、耳が聴こえない、手が片方なかったりというようなハンディキャップがあっても関係ありません。

シンガポールの国籍の全ての男性は全員軍隊に行かなければならない。

当時は軍隊のことが嫌いでしたが、後々になって良かった点もあります。

一つは心と身体が強くなったこと。

日本に来た時にアルバイトをたくさんできた理由は軍隊のおかげです。

アルバイトをたくさんしないと生活できませんでしたから、身体が丈夫だったことでとても助かりました。

そしてもう一つは睡眠時間が短くても大丈夫なこと。

今でも私の基本的な睡眠時間は3~4時間です。

軍隊で鍛えたので、それが可能になりました。

その2点に気付いてから、軍隊のことがさほど嫌ではなくなりました。

だから人生は分かりません。

今〝苦しいこと〟でも、数年経てば意味が出てくることがあるんです。

人生はそのような繰り返しのような気がします。

過去の苦しみや失敗が大人になった時に支えてくれる可能性があります。

軍隊を経て、私は18ヵ月間の貧乏旅行に出ました。

一番滞在が長かったのはネパールとインドです。

旅をしながら子どもの写真を撮ったり、学校で日本語の勉強をしながら夏休みやゴールデンウィークは必ずバックパックを背負い、旅行に行きました。

インドで初めて撮った写真です。

私の大事な国です

母が買ってくれたカメラで撮った作品です。

私にとってとても大事な作品です。

生きる事、人生、世界、そして絆。

一枚の写真でたくさんのヒントをもらいました。

ヴァラナシという場所です。

ガンジス川という有名な川が流れていて。

人々はこの川で毎日祈り、この川で毎日洗濯し、この川で水を飲み、この川で火葬し、それをこの川に流します。

とても神秘的で、私はこの場所が本当に好きで、何度も訪ね、何度も撮影しました。

一言で表現できないことだけど、私はこの場所でたくさんの生きるヒントをもらいました。

だから是非みなさんチャンスがあったら是非この場所へ行ってみてください。

自分がフォトグラファーになる前の作品をほとんど、ここで撮りました。

本当に私が好きなのはこのようなドキュメンタリーの写真です。

なぜならば、〝人の生き方が写る〟からです。

このような写真を撮ることをライフワークにしたいと思いました。

実は日本に来るまでスタジオの経験がありませんでした。

このような自然光の写真がほとんどです。

自然光の写真とファッションをミックスしたのが最初の作品です。

自然光のシチュエーションでモデルとそこで生活している人たちを共存させる。

彼らの生き様と共に作品に写し出します。

 

因みに1993年の日本語弁論大会で私は優勝しています。

これは奇跡です。

今よりずっと日本語の発音は下手でした。

周りの参加者は大学生や大学院生。

私はまだ日本語学校の二年生です。

みんなはとても日本語がうまく、私はとても下手でした。

優勝した理由は「熱かったから」と言われました。

何が言いたいのかというと「技術が全てじゃないよ」ということです。

当時の私は、日本語の技術は誰よりも下手でしたが、情熱に関しては誰よりも勝っていた。

私はこの日本語弁論大会に情熱で勝ったんです。

だからみなさん、ここへは様々な技術を学びに来ているのかもしれませんが、私が教えたいのは「技術ではなく心だ」ということです。

私のもう一つの秘密兵器は神保町です。

皆さん神保町に行ったことはありますか?

私はよく行きます。

若い時に買えなかった本を、少し余裕ができた時は購入します。

学生時代は学校へ行くよりも神保町ばかり行っていました。

好きな写真家、好きなアートディレクター、好きなグラフィックデザイナー、好きなアーティストのパンフレット。

懐かしいものをたくさん見つけてインスピレーションをもらいました。

神保町に感謝。

国が発展すればするほど、このような文化的な場所がなくなるので心配です。

神保町が消えないように祈っています。

 

点が線へと。

そしてこれが私の撮ったユーミンの写真です。

これは私がユーミンと出会って最初に撮った作品です。

2001年にユーミンから依頼がきました。

ポートレートの撮影を頼まれたのですが、「もしかしたらこれは最初で最後かもしれない」と思ったので、私は編集の方に提案しました。

ユーミンの楽曲の中で生まれたラブストーリーはたくさんあり、色んな恋人が存在しています。

とてもヨーロッパっぽく、とても中東っぽく、とてもアジアっぽく、色んなテイストの曲を作っています。

それを私がこのように表現しました。

様々な肌色の人たち、フラメンコ風、ハワイの雰囲気、カウボーイのストーリー…

自分はこのような写真を撮りたくて、編集の人に交渉して、ユーミンへのサプライズを企画しました。

ユーミンが控室にいる間にサプライズでこのモデルさんにセッティングしてもらいました。

これがその一枚です。

私のサプライズにユーミンはとても喜んでくれました。

2006年にはチャリティー写真集を作りました。

『Super Stars』という作品です。

全640ページ、ユーミンが表紙で中には300人の有名なアーティストたちを撮りました。

日本、中国、韓国、東南アジアの有名な女優と俳優にも参加してもらって写真集の全ての利益を2004年のスマトラ島沖地震の被害者に寄付しました。

そして2010年『SUPER TOKYO』。

860ページで1000人の写真を撮りました。

全て東京で出会った友人たちです。

学校の友達、先生、編集者、代理店、友人の家族を含めてたくさんの人を撮り続けました。

その上、全てヌードです。

なぜ、みんなを裸にしたのか。

誰でも必ず母親のお腹から生まれた時は裸だから。

みんなにもう一度赤ちゃんを経験してもらいたいと思ったからです。

「あなたがベイビーの時を私が撮ります」

この本を作ったのは私が39歳───母が亡くなった年齢です。

37歳の頃、「もしかしたら自分も39歳で亡くなるんじゃないか」と急に焦りはじめました。

39歳までの2年間で「自分は何がしたいのか」と考えました。

一番の気持ちは〝感謝〟でした。

2年間かけて私の好きな東京の知り合い全てに企画をお願いしました。

「ヌードしてくれない?」

9割の人の最初の言葉「ふざけんな、お前」でした。

篠山紀信先生にも会いに行きました

アラーキー先生にも会いに行きました

大好きなフォトグラファー全員に会いに行きました

みんなに叱られました。

でも100人の写真家が出てくれました。

写真集の1000人の中で写真家が100人。

どうしてみんな出てくれたのか?

その答えはただ一つ、〝愛〟です。

写真集の売上は全てインドネシア、タイ、フィリピンの貧しい村の女性たち───私の母のように父親が誰だか分からない子どもを身籠った女性のためのワクチンの資金にしました。

この本のアートディレクターは私の大好きな井上嗣也さんです。

彼との初めての作品です。

井上嗣也さんといつかコラボレーションをしたいと思い、2007年から2年間かけてずっと手紙を書いてきました。

書いても書いても返事はありませんでした。

10回目の手紙を送った時に、ようやく彼は私と会ってくれました。

人生を左右するような作品を手掛ける時に井上さんにお願いができればと思っていて。

自分にとって『SUPER TOKYO』はまさにその局面に相応しい作品だと思ったので、ダメ元で彼にお願いをしました。

すると彼は驚いたことに私と会ってくれました。

ほぼ500人を撮り終えた時で、途中までを見せると彼は色々アイディアを膨らませて、「ここまで来たら1000人いきましょう」という話になり、もう一年かけて完成させました。

VOGUE

99年から『VOGUE TAIWAN』で連載がはじまりました。

今年で19年目、毎月12ページ私のストーリーがあります。 

世界のVOGUEは100年の歴史があり、アメリカとパリとドイツとイタリア。

最初のアジアのVOGUEは、実は台湾なんです。

台湾は96年、韓国は97年、日本は01年、中国は04年、その後タイとインドでそれぞれのVOGUEが生まれました。

私はとてもラッキーで、『VOGUE TAIWAN』と出会ったのが99年。

当時は岩井俊二監督の映画『ラブレター』が流行していて。

日本人のアーティストや女優、俳優が台湾で人気がありました。

そのおかげで『VOGUE TAIWAN』の編集長が私に連載させてくれました。

毎月4ページ、日本の女優、日本の俳優、日本の監督、日本の音楽アーティストを私が自由に提案して撮りました。

撮れば撮るほど欲張りになり、「日本の女優さんが表紙になってほしいな」という思いから、最に初交渉したのが安室奈美恵さんです。

2000年10月、安室さんはまだ21歳、彼女が息子を産んで4ヵ月の頃。

表紙を撮りました。

それから私は『VOGUE TAIWAN』で日本のアーティストを表紙に20冊以上撮りました。

私は日本人ではないけど、日本人が大好きで海外の雑誌で20年間、たくさん表紙を交渉しました。

少しでも日本の女優や俳優が表紙になって、その国の人たちが「わーすごい!」と思ってくれたらいいなと思ったからです。

なんと、今年の最後の『VOGUE TAIWAN』の表紙を安室奈美恵ちゃんで撮りました。

安室さんの最後の東京ドームコンサートが6月4日。

その3日後の6月7日に撮りました。

本当に忘れられない撮影です。

「実は来ないんじゃないか」と思っていたので、来れくれた時には涙が出ました。

撮影の交渉は1年間続けました。

誰もが引退を発表した安室さんを雑誌の表紙に撮りたいですよね。

1年間かけて諦めないで編集長と何度も何度も何度も。

奇跡的に交渉は成立しました。

表紙は2つあります。

左の表紙は音楽アーティストのイメージ。

彼女はやはり日本の歌姫ですので。

右の表紙は母親をイメージしました。

彼女は美しいマザーだと思っています。

私は母親が大好きです。

世界で最も偉大なアーティストは母親だと思っています。

自分の母を含めてね。