成長できたのは『子どものおかげ』。

前回に引き続き、thanks to Aromaのオーナー西田伸恵さんのインタビュー記事。
小さい頃からずっと夢だった幼稚園の先生。
そのきっかけは、大好きだった先生への憧れから。
大学を卒業後、ついに西田さんは一つ目の夢を叶えます。
4才の頃から夢みた、保育園の先生に。

西田「大学祭は猫の手も借りたいほど忙しかったので、就職の準備をしていなかったんです」
嶋津「大学生実行委員長ですもんね。お察しします」
西田「だからですね、幼稚園選びは近くて入りやすいところが私の希望だったんです」
嶋津「方向音痴って仰ってましたもんねww」
西田「すると、希望通りの園がありました。私立の保育園です。就職試験を受けるとすぐに通ったので、実行委員の活動も思う存分できました。そして短大を卒業して、念願の保育士に」
嶋津「ついに、4才からの夢が叶った瞬間ですね!」
理想と現実のはざまで。
嶋津「その時のお気持ちはどうでしたか?」
西田「もちろん嬉しかったですが、想像を遥かに超えて大変な日々がはじまりました」
西田さんが就職した保育園は、教育よりも商業主義の施設だったといいます。
園長は現場におらず、理事長は経営のみ。
主任は自分より年齢が少し上の先輩。
その保育園は園が複数あり、西田さんの同期は19人の新卒者が入りました。
1クラス20人~25人の子どもの数。
それぞれに2人1組でクラスを任されます。
そんな中、西田さんは1人で1クラスの担任になることを命じられました。
嶋津「1人で1クラスですか!?」
西田「はい。3才児の担任です」
嶋津「3才?また小さい子どもですね」
西田「そうなんです。3才というと、家からそのまま来た子どもたち。大人の存在は両親しか知らない。そんな子どもたちが24人」
嶋津「24人の3才児を1人で?驚異的ですね」
西田「一応先生たちが面接した子どもたちですし、1人で任せることができるだろうという園の判断があったのですが。実際に授業がはじまってから分かることもたくさんあって。例えば、自閉症気味の子がいたり、耳の不自由な子がいたり。それが少しずつ分かってくるんですね。それらの子を全員1人でみなければなりません」
大切なことは子どもから学びました。

希望に燃えていた一年目。
最初の5月にそれは起きました。
この出来事が、西田さんの保育士としての考え方、そして姿勢を決定づけるものとなりました。
ある日、クラスの女の子が二階の柵にしがみついて帰らない、ということが起きました。
お母さんが迎えに来ても、泣いて叫んで拒みます。
理由を聞いても、ただただその子は泣いているだけ。
西田さんもお母さんもすっかり困り果てました。
女の子は頑なになってお家に帰ろうとせず、一時間ほど泣き続けました。
ようやく落ち着いて、お母さんの手に引かれ帰って行ったといいます。
西田「普段そんなに喋ったり、活発に遊んだりするような子じゃなかったのでびっくりしました」
嶋津「結局、理由は分からずじまいですか?」
西田「家に帰って、その子が落ち着いてからお母さんが理由を聞いたみたいなんです。すると女の子は『先生ともっと遊びたかった』と答えたようなんです」
嶋津「西田先生と遊びたかった?」
西田「はい。その日、朝の会で『ごあいさつが上手だったね!』って言って、その子を褒めたんですね。そしてみんなの前で、ごあいさつのお手本をその子にやってもらったんです。それがとても嬉しかったようで」
嶋津「素敵なお話ですね。先生冥利に尽きるんじゃないですか?子どもが泣いて駄々をこねるほど、学校が楽しかったなんて」
西田「違うんです。私、そのことを後から聞いて、鳥肌が立つほど怖かったんです」
嶋津「怖かった?」

西田「その時、私のしたことはたまたまその子にとって嬉しいことでた。でも、もし私の言ったことや行いが『逆』だったら」
嶋津「子どもを深く傷つけていたかもしれない」
西田「まさか、朝の会の出来事が帰りに泣いて駄々をこねたことに繋がっているとは思いませんでした。ほんのささいなことでも、私の言葉や行動はこの子たちに大きな影響を与えているんです」
嶋津「そうか。先生の一挙手一投足、全てを子どもたちが見て、聞いて、感じている」
西田「そうなんです。だから怖かったんです。私からすれば24人の園児だけど、この子たちひとりひとりから見れば私はたった一人の担任なんです。『気を付けないと!』強くそう感じました。
24人の子どもたちと一年間を共にする。
3才の子どもからすれば、初めて親から離れ、やってきた保育園。
家族以外のはじめての大人、そして家以外の世界は全てそこにある。
その子たちにとって自分は多大なる影響力の持ち主であるということを、身をもって知った西田さん。
自分の姿を見て「大人っていやだなぁ」と思えば、彼らは世間の大人全てを嫌だと思うだろう。
自分が4才の時、大好きなだった石井先生を見て幼稚園の先生に憧れたように。
今度は自分が、影響を与える側に回っている。
だからこそ、精一杯やらないと。
そう、人生をかけてやらないと!
西田「担任が1人だったから、そこまで強く感じたのかもしれません。もし、もう1人他に先生がいたら、そこまで強く責任感は感じなかったのかも」
嶋津「1人だからこそ、影響力は分散されず、子どもたちの感じ方は直で西田さんに返ってくる」
西田「はい。当時はそのことで辛く感じることも多かったですが、今となっては良い勉強をさせてもらったと思います。大切なことは全て子どもから学んでいます」
「教える」ということ。

大学を卒業したばかりの新米教師を見て、保護者からはあからさまに「わぁー、あの若い先生が担任、ハズレだわ」と言われることもあった。
ものがなくなれば、追求することもなく自分の責任にされることは日常的で。
確かに、経験も知識も未熟だから「頼りない」と思われても仕方がない。
それでも西田さんは、自分にできることを精一杯やった。
西田「技術は一年目なので、とにかく一生懸命、子どもに心を注ぐように努めました」
嶋津「具体的にはどのようなことを?」
西田「そうですね。心がけたのはお母さんたちに『今日はお子さんがこんなことをできました』ということを必ず一つ伝えようと思いました。それを実践すると、子どもを一生懸命見るようになるんです」
嶋津「なるほど!お母さんに報告するために」
西田「24人もいれば、目立つ子もいるし、おとなしい子もいます。意識しないとそのまま通り過ぎていくことになってしまう」
嶋津「言われてみると、全員を見るというのは並大抵の努力ではありませんね」
西田「一年間、心を注いで一人一人を見ようと思いました」
嶋津「 逆境を力に変える。西田さんにはそういった力がありますね」
西田「いえいえ。ただ目の前のことに一生懸命になるしか方法がなかったんです。教育というのは本当に難しい。何が正解で、何がダメなのかというのは分かりそうで、分からない。でも、誠実さというのはいつか、どこかのタイミングで伝わると思うんです」
嶋津「教育の中での正解、不正解の違いというのは?」
西田「例えばですね…、新任になってはじめてのイベントがありました。おすもう大会です」
嶋津「幼稚園らしいイベントだ」
西田「クラス対抗で競うのですが、1クラス5人を選抜して大会に挑むんです」
嶋津「はい」
西田「大会まではクラスごとに毎日練習するんですね。私たちの隣のクラスは子どもに勝たせるために強い子を先に5人選んで特訓するんですよ。その特訓も本格的で」
嶋津「どのような練習方法なんですか?」
西田「マットをぐるぐるまきにして体当たりするんです。しかも『はっけよい、のこった!』の『の』の部分で体当たりするように教える。それを延々続けるんです」
嶋津「なかなかのスパルタぶりですねwwラグビー部みたいww」
西田「選抜の5人以外は座ってその様子を見ているんですよ」
嶋津「はぁ、参加していないってことですね」
西田「そうなんです。『おすもう大会ってこんな感じなのかなぁ?』という疑問が当然私にはあって。『やっぱりおかしいよね』って、私のクラスはみんなでわいわい楽しく練習していたんです」
嶋津「はい」
西田「最終的には5人を選抜しないといけないのですが、みんなで参加することが大切だと思ったんです」
おすもう大会当日は選抜された子どもの父兄さんも会社を休み、ビデオカメラを持って見に来た。
我が子の活躍に期待を寄せて。
試合が始まると隣のクラスの子は「はっけよい、のこった!」の「の」で突撃する。
自分のクラスの子は立った瞬間、ころりんと転ぶ。
5人ともがあっけなく負け、優勝はスパルタで訓練した隣のクラスだった。
西田「結局、隣のクラスの子どもたちが優勝しました。私、練習風景も全て見ていたんです。先生に怒られて泣いている子ども、退屈そうに見学する子ども。でも、結果を見れば優勝して大喜びの子どもたち。そして子どもだけでなく父兄さんも大喜びです」
嶋津「はい」
西田「自分たちのクラスの子は全員簡単に負けてしまってシュンとしている。それは子どもだけでなく父兄さんも肩を落として」
嶋津「辛いです」
西田「その時、初めて悩んだんですね。『これはどっちがよかったんだろう』と」
嶋津「みんなが参加して楽しく練習すべきか、それともストイックに強い者だけを集中して鍛えるか」
西田「はい。プロセスが大事なのか、それとも結果が大事なのか。結果だけを見ると、喜んでいるのは後者が明らかで。でも、『教える』というのは、そういうことなのかというと…」
そこから保育園では様々なイベントが催された。
運動会に発表会。
そしてその園には、おすもう大会の時同様「小さくても無理矢理教え込んでやらせる」という風潮があった。
その環境にいると、自分も園の体制にある程度合わせなければならない。
西田さんにはそれが辛かったという。
「このやり方は違うのではないだろうか?」
そう思いながら保育園に通う日々。
西田さんには日々の忙殺よりも、それらの精神的なストレスの方がよっぽど身に堪えた。
その秋、極度の精神的負担により体は悲鳴を上げた。
西田さんの体は胃潰瘍になるまでになっていた。
神様は見てくれている。

ちょうどその年、公立の保育園で9年ぶりに採用のお知らせがありました。
公立の保育所で働いた経験のある母が西田さんに受けてみるように促します。
あまりにも過酷な労働内容と体を弱めているのを思ってのことでした。
西田「私はそのままその園にいるつもりだったのですが、母が『騙されたと思って受けてごらん』って。それでとりあえず形だけでも、と思い、試験を受けました」
嶋津「公立と私立ではそれだけ環境が違うのですね」
西田「園にもよりますが、確かに違いは大きいです。試会場には同じ園の先輩方々の姿も見ました。みんな考えていることは同じだったのだと思います。そして運よく、最終的に合格することができました」
嶋津「すごい。倍率も高かったんじゃないですか?」
西田「はい。私は受からないだろうと思っていたので、園に報告をしてなかったんです。でも結局受かったので、報告しなければいけません。本来ならば夏くらいに辞職することを伝えなければいけないのですが、合格の通知が来たのは年が明けていました」
西田さんが報告に行くと、園長がひどく怒ったといいます。
「こんな時期になって!」と罵詈雑言を浴びせられました。
ぽろぽろと涙をこぼしながら、じっとその言葉を聞いていた西田さん。
胃潰瘍になりながら、身を尽くしてきたことを知らないわけではありません。
先生といっても若干20才の女性です。
園長の言葉に涙を流してじっと耐えることしかできませんでした。
「3月からクラスに入らないように」と言われた西田さん。
廊下を挟んだ反対側の部屋で出席簿をまとめたり、事務作業に専念するよう指示を受けました。
「それらのことは保護者には一切言わないように」と付け加えられて。
3月を機にクラスからいなくなった西田先生。
「先生の一身上の都合により、退職されました」
という張り紙だけを残し、姿を消してしまいました。
これには保護者であるお母さんたちも驚きました。
西田「お母さんたちがね、署名を集めてくれたんです。『西田先生を返してください』という署名を」
嶋津「突然いなくなった西田先生を返してほしい、と」
西田「その時、私はそんなことが起こっているなんて全く知らされていませんでした。廊下を挟んで、子どもが泣いている声を聞きながら自分が出ていけない不甲斐なさを噛みしめ、ただただ作業していました」
嶋津「お母さんたちはどうして、西田さんが退職していないと気付いたのでしょう?」
西田「私が主任の先生と話していて、泣いているのを見て学校にいじめられていると思ったお母さんがいたようなんです」
嶋津「なるほど。ドラマみたいですね!」
西田「それが理由で保育園を辞めると思ったらしく、署名を集め、他のクラスのお母さんたちにも書いてもらって」
園としてはそのようなことをされては困ります。
急遽、保護者のお母さんたちを集め、緊急集会を開きました。
そんなことが陰で行われていたことも知らなかった西田さん。
ある日、一人のお母さんから連絡を受けます。
「西田先生、ちょっと家に来てほしいの」
西田「そのお母さんの自宅に行きました。とあるマンション、その一室には保護者のお母さん全員が集まっていたんです」
嶋津「本当にドラマみたいだ!」
西田「私は何が起きたのか分からない。みんなが座って私を見ているんです。みなさんに『辞める』ということも自分の言葉で伝えられなかった引け目もありました。だから一体何を言われるのだろうか?と不安な想いでいっぱいでした」
そこで、今まであったことを全て打ち明けたといいます。
正直に、何一つ偽りなく。
そして「最後まで子どもたちの面倒をみてあげることができず、すみませんでした。私としてもとても悲しいです」と頭を下げました。
園がお母さんたちに伝えていたことと、若干食い違う部分があったと言いますが、お母さんたちはそれで納得してくれました。
そして、「先生に帰って来てほしかったか、私たちはこうやって署名を集めたんだよ」そう言ってくれました。
その言葉が嬉しくて、嬉しくて、涙が溢れました。
担任を任されて一年目の新人。
お母さんたちにも試され、色々言われながらも、とにかく一生懸命打ち込んできた日々。
「気持ちは伝わったんだ」
その時、感じたこと。
神様は見てくれている。
一生懸命やっていれば、その時はすぐに結果は出ないかもしれない。
それでも続けていれば、いつか通じる時がくる。

その時、お母さんたちが「西田先生のお別れ会をしよう」と言って、春休みにお別れ会を開いてくれました。
西田さんは受け持った子どもたち一人一人にお茶碗袋をプレゼントしました。
中にお菓子の詰め合わせと、一人一人の名前を入れて
その時の子どもたちが5才の春を迎えた頃。
そう保育園の卒園式。
西田さんはお母さんたちに呼ばれました。
「先生、卒園式の後、みんなで集まるの来てください」
その頃には西田さんは公立の幼稚園で働いていました。
普通は卒園するクラスで集まるところを、3才の時のクラスで集まるなんて。
それも一年受け持っただけの自分を呼んでくれた嬉しさに、西田さんは胸がいっぱいになりました。
西田「お母さんたちがね、私に花束をくれて」
嶋津「感動的ですね」
西田「色んなことを言われました。『先生、あの時ね、正直若い先生だったし、私ハズレだと思ったの』ってww『でもね、先生がとにかく子どものいいところを毎日一生懸命言ってくれて、精一杯やってくれていたのが伝わった。あの時、最後の辞め方はあんな風だったけれど、おかげでお母さん同士の絆は強くなったから。先生には感謝しています』」
嶋津「様々なトラブルがあった分だけ、絆は固くなった。西田さんの言葉を借りると『神様は見てくれている』」
西田「はい。本当にそうだと思います。その一年目にみた子どもたちやお母さんたちとは長く付き合いがあります」
「西田先生なら分かってくれると思った」
そして偶然にも、この取材のほんの数カ月前。
とあるレストランで西田さんはある女の子に声をかけられました。
「先生ですよね」
女の子は結婚すると苗字が変わります。
名札を見ても誰か分からなかった西田さん。
声をかけられるまで、笑顔が素敵なかわいい女の子だなぁと思っていたといいます。
女の子の話を聞いてみると、実は3才の時、あの保育園の西田さんのクラスにいた子ども。
それも、「帰りたくない」とわんわんと泣いて駄々をこねた彼女だったのです。
「ぱっと見た時、西田先生だって思ったんです!」
レストランで一緒に働いている人たちに「保育園でみてもらった先生だと思う」と言ったのですが誰も相手にしてくれず。
「そんなの先生はきっと覚えてないよ」と言われたといいます。
「でも、私は絶対に先生だと思ったから」
そう言って勇気を振り絞り、声かけました。
あの小さな3才の女の子が、今では20才をこえた大人の女性に。
「西田先生なら分かってくれると思った」
その言葉が嬉しかったと西田さんは言いました。
そう西田さんは、あの頃夢見た石井先生と同じ。
そしてレストランで働く女の子は、4才の頃の西田さんと同じ。
あなたがいてくれたから、私は前を見続けることができました。
そんな存在なのだと思います。
技術はなくても、思っている気持ちは伝わる。
子どもからたくさん学ばせてもらったという西田さん。
その笑顔は、眩しいほど清らかだ。

vol.3へ続く