半学半教での一日。
先日、西天満のとある会場で半学半教実践塾の講義が行われました。
半学半教実践塾とは慶応義塾大学を創設した福沢諭吉の精神である『半学半教』を元に、実践体験へと繋げることを念頭に置いた学びの場です。
「半学半教」とは、教える側と学ぶ側が別々にあるのではなく、お互いに教えあい、 学びあい、そして啓発しあうことで深く学び、 お互いを高めていくことで、福沢諭吉はこの精神を指針に塾(現、慶応義塾大学)を設立したといわれます。 「半学半数実践塾」もこれにならい、互いに学び、互いに教え、 さらに実践を助け合い、これからの人生が、黄金の23年となることを目指して。
〈半学半教実践塾のHPより〉
何事でも、先に学んだ者は後から学ぶ者よりも優れています。
その道の専門分野ならば尚更のこと。
一人一人が先生となり、先に学んだ者が、後から学ぶものに教える。
そして自分自身は、さらに先の者から学ぶ。
それが「半学半教」。
「教えながら学び、学びながら教える」ということ。
一人一人がお互いに教え合い、学び合って、お互いを高め合います。
陽明学に学ぶ心の鍛え方。
今回の半学半教では「私と江戸しぐさと陽明学〈日本陽明学〉に学ぶ心の鍛え方」と題し、作家で陽明学の研究家である林田明大(はやしだあきお)さんを講師として迎え、陽明学についての講話を傾聴しました。
〈作家・陽明学研究家の林田明大さん〉
陽明学とだけ聞いても、知らない人も多かったり、聞いた事がある人の中には「三島由紀夫が傾倒していて、自決するきっかけになったんじゃないの?」という反体制的なイメージを持っていたりします。
今回、僕は林田先生の講話を聴いて、はじめて「陽明学とは何か」というのを知ったのですが、過激な印象などどこにもなく。
それ以上に健全で、且つ日本人の心と親和性の高い学問だと感じました。
こんなにも清らかで健やかな精神を重んじる学問が、なぜ過激なイメージと結びついたのか?
その理由は良知の捉え方に左右されるのではないか、と思います。
良知とは。
良知とは、人が生まれながらにもっている、是非・善悪を誤らない正しい知恵のこと。
善か悪か、ではなく、自然か不自然か。
つまり人間の中にある自然な感情。
善か悪かではなく、良知を致す(良知を裏切らない)ことが求められる。
この「自然」というのが難しく、湧き起こった感情を尊重するため、私欲と混同した解釈に陥ってしまうことがあるのです。
林田さんは相手を思いやる気持ちこそ、良知だと仰います。
心に浮かぶ、相手に対する優しさ、同情心。
それらの想いに素直に従った行動をとることが大切なのだ、と。
そもそも陽明学とは?
陽明学とは中国の明の時代に、王陽明がおこした儒教の一派。
陽明学という呼び名は日本では明治以降広まったもので、それ以前は王学といました。
日本では中江藤樹や熊沢蕃山らに受け入れられ、江戸時代から明治時代にかけて広がっていきました。
明朝(当時の中国)から流れてきた陽明学は、上記の学者らによって日本陽明学として独自の変貌を遂げつつ大成していったのです。
王朝の滅亡によって清王朝(中国)では否定され、次第に廃れていった陽明学。
あらゆるものを受け入れながら、エッセンスとなる要素ををうまく取り入れていくのは、日本人特有の優れた感性と特質なのかもしれません。
これが元禄文化が栄えたきっかけでもあるのです。
善か悪か、ではなく、自然か不自然か。
先ほども記しましたが、陽明学では良知に従うことを重点に置きます。
知行合一といいまして、感じたことが実践を伴っている状態のことをいいます。
つまり思ったと同時に動いている状態ですね。
人間というのは誰しも欲を持っています。
「褒められたいからやろう」
「利益が出るから良くしよう」
といった打算的な行動ではなく、人間の本来の心に従った行いが試されるわけですね。
後に起きることを考えながらとった行動は偽善です。
実践すべきは知行合一。
そのためには己の心に従う訓練が必要です。
通りで足の不自由な方が荷物を持っている。
「可哀そうだな」
と思った瞬間、荷物を運ぶのを手伝うことが知行合一。
例えば、行動に移せない理由には
「後の予定が詰まっているからなぁ」
「助けたところで得することがないよなぁ」
そのような気持ちは後に起きることを考えて逡巡しています。
知行合一で大切なことは思ったと同時に動くこと。
良知に従う。
知行合一を修得するには、習慣を身につける必要があります。
「良い行いをする」こと自体が習慣になれば良いのです。
最初は意識しなければできないかもしれません。
自転車に初めて乗った時、最初はペダルやハンドル、その一つ一つに意識が注がれていました。
何度も転び、何度も訓練することによって、いつの間にか乗れるようになり、果てには意識せずとも自転車に乗ることができます。
今では「どうやって自転車に乗っているの?」と聞かれたら、「どうやって乗っていたっけ」と自分の中で再確認しなければならないほど自然なものとして体と同化しています。
知行合一も同じことです。
「良い」と思った行動を実践していくことで、それが習慣となり、いつの間にか体の一部のように自然なものとして体得することができるのです。
思うことさえ余計である。
意識していたものが無意識のレベルに到達してはじめて使いこなせる。
人為を働かせているうちは「まだまだ」。
その訓練として効果的なのが、内観トレーニング。
内観とは、自分の意識やその状態を自ら観察すること。
自分が「今、何を感じているか」に意識を向ける。
いかに自分の心が多弁であるかに気付くといいます。
その内なる心の声に耳を傾け、良いものを選び出し、行動に移していく。
利害や損得に捉われず、心に対して素直に行動する。
良いと思ったことを自然と行う。
「それが最も自然な行為であり、善行です。
陽明学は子どもたちのお手本になるような人間学問です」
そう言って林田先生は講話を締めました。
陽明学は非常に実践的な学問でした。
今回の講話で、僕は初めて陽明学というものを知ったのですが、日本人の民度の高さに納得しました。
山の上や、田舎道に置かれた自動販売機。
海外の方がその光景を目にすると驚かれるようです。
「こんな場所にお金(自動販売機)を置いていても誰も取らないの?」
そう言う方も珍しくないのだとか。
生活の中の小さな出来事から実践することができ、さらには人のためになる。
陽明学には言葉で人を変えるのではなく、行動で人を変えていく力があります。
人の嫌がることを率先してやる。
手抜きをしない。
誠実に仕事をする。
自分が変わることで、周りをより良く感化させる。
印象的な林田先生の言葉、一つ一つ胸に響きました。
僕もその日から実践することを心がけています。